第3話

若い女も語り出す。

「成長するんだ。椅子も」


若い女は、店の前の石段に腰を下ろしながら言った。

まだ使い慣れていない椅子に、試すように体重を預ける仕草だった。

「嘘だと思うでしょ。でもね、成長するんだよ。椅子も」

男が苦笑する。

「はいはい、今度は家具が生き物か」

女は気にしない。

「生きるってほど派手じゃないけどさ。

 少なくとも、変わる」

彼女は、自分の掌を見つめた。

指先に、木屑のような細かな傷が残っている。

「最初はね、硬いの。

 どんな椅子でも。

 ちゃんと座れって言われてる感じがする」

背筋を伸ばせ。

肘を置くな。

長居するな。

そういう無言の圧。

「でも、毎日同じ人が座ると、

 少しずつ、形が変わる」

座面が沈む。

背もたれが丸くなる。

肘掛けが、腕の位置を覚える。

「体重の話じゃないよ。

 癖とか、迷いとか、

 そういうの」

彼女は立ち上がり、

近くにあった古いベンチを指さした。

「ほら、あれ。

 誰でも座れるけど、

 誰の居場所でもない椅子」

それから、店の中をちらりと見る。

「さっきの椅子は違ったでしょ」

否定できなかった。

説明もできないが、

確かに、あれは“途中”の椅子だった。

完成品ではない。

まだ、誰かを待っている。

「人間で出来てるかどうかは、どうでもいいの」

女はそう言って、肩をすくめた。

「大事なのはさ、

 椅子が“使われ方を覚える”ってこと」

優しく扱われれば、

支えるのが上手くなる。

乱暴に扱われれば、

きしむ音で警告する。

誰かが泣きながら座れば、

次に座る人を、

少しだけ深く受け止める。

「だからね」

彼女は、最後にこう言った。

「人は椅子を選んでるつもりで、

 実は、椅子に育てられてる」

男は何か言い返そうとして、やめた。

代わりに、靴先で石を転がす。

私は、ふと思った。

もし椅子が成長するなら、

それは年輪のようなものじゃない。

――座られた時間の、積み重ねだ。

人が生きるあいだに、

どれだけ誰かの重みを受け入れたか。

どれだけ、立ち上がる瞬間を見送ったか。

女は歩き去りながら、

振り返りもせずに言った。

「だからさ。

 急に合わなくなる椅子もあるんだよ」

人が変わったんじゃない。

椅子が、先に育ってしまっただけ。

夕暮れの通りに、

家具屋の灯りがともる。

その光の中で、

椅子たちは静かに待っている。

――次に、

 どんな人に座られるかを。

「そういえば、子供の頃にすごく気に入っていた椅子があったんだ」

それは、プラスチック製の子供用の椅子だ。

「ある日、突然その椅子がひどく居心地が悪いと感じたことがあって」

「それは座っているあんたが成長したからじゃない?」


「まぁ、それもあるけど」


彼女は、首を横に振った。

「違う気がしたんだよね。

 背が伸びたとか、体重が増えたとか、

 そういう説明で片づけられない感じ」

プラスチック製の、赤い椅子。

軽くて、角が丸くて、

どこにでも持ち運べるやつ。

「ずっと一緒だった。

 絵を描くときも、

 おやつを食べるときも、

 熱を出して床に座れなかったときも」

その椅子は、何も言わない。

軋みもしない。

感情も、ぬくもりも、

あるはずがない。

「なのにね」

ある日、座った瞬間に、

ぞわっとした。

「浅い、って思った」

「落ち着かない。

 背中が、預けられない」

男が言う。

「成長期あるあるだろ」

彼女は、苦笑する。

「そう言われたら、それまでなんだけどさ」

でも、と続けた。

「椅子のほうが、

 先に“終わってた”感じがした」

その椅子は、

もう十分に座られた。

十分に支えた。

十分に、子供を迎えた。

それ以上の重みを、

受け取るつもりがない――

そんな気配。

「拒絶じゃないんだよ」

「むしろ、

 『ここまで』って線を引かれた感じ」

役目を終えた道具の、

静かな態度。

「それで、初めて思ったんだ」

椅子は、

無限に寄り添ってくれる存在じゃない。

使われ方にも、

時間にも、

ちゃんと寿命がある。

「私が大きくなったんじゃなくて」

「その椅子が、

 “子供の時間”を生ききったんだって」

男は、返す言葉を探して、

結局、何も言わなかった。

私は、その赤い椅子の姿を

想像していた。

割れてもいない。

壊れてもいない。

ただ、

もう座られる前提では

そこにいられなくなった椅子。

「だからさ」

彼女は、少しだけ声を落とした。

「急に居心地が悪くなる椅子って、

 裏切りじゃないんだと思う」

それは、

送り出しだ。

――もう、ここじゃない。

そう、

言葉を使わずに教えるための。

夕方の風が吹いて、

誰かが店の扉を開ける音がした。

中では、

新しい椅子が並んでいる。

まだ硬くて、

まだ癖のない椅子たち。

「たぶんね」

彼女は最後に、こう言った。

「人が成長したと気づくのって、

 鏡じゃなくて、

 “座れなくなった椅子”なんだよ」

私は、

家に帰ったら、

しばらく使っていない椅子を

思い出してみようと思った。

そこにはきっと、

自分が

どこまで来てしまったのかが、

黙って残っている。


積み上げられた役目を終えた椅子たちを想像する。


それらは、もしかしたら誰かのための椅子であり、同時に誰かだった椅子でもある。


積み上げられた椅子たちは、静かだ。

倒れもしないし、主張もしない。

ただ、互いにもたれ合うように重なっている。

役目を終えた椅子。

壊れたわけでも、捨てられたわけでもない。

もう「座られる時間」を生ききった椅子たち。

そこには、用途の違いも、素材の違いもあるだろう。

木の椅子。

金属の椅子。

プラスチックの椅子。

そして――

人の時間を、強く吸い込んだ椅子。

それらは、誰かのための椅子だった。

疲れて帰ってきた人の椅子。

泣きながら話を聞いた椅子。

子供が足をぶらぶらさせた椅子。

二人で黙って夕方を待った椅子。

同時に、

それらは「誰かだった」椅子でもある。

支える側に回り続けた人。

背中を預けられることに慣れていた人。

居場所を差し出すことを、疑わなかった人。

椅子になったわけじゃない。

ただ、

そういう生き方の形が、

椅子という姿に落ち着いただけだ。

積み上げられた椅子たちは、

もう成長しない。

だが、消えもしない。

誰かが通りすがりに、

その山を見て、理由もなく立ち止まる。

触れてもいいのか、

座ってはいけないのか、

わからないまま、少しだけ息を整える。

それだけでいい。

役目を終えた椅子は、

次の役目を求めない。

思い出してもらう必要もない。

ただ、

「誰かを支えていた時間が、確かにあった」

という重みだけを、

静かに保っている。

人は、立ち続ける生き物だと思いがちだ。

でも実際は、

座ることで生き延びてきた。

誰かに預け、

誰かを預かり、

また立ち上がる。

椅子とは、その往復の痕跡だ。

だから、

役目を終えた椅子の山は、

終わりではない。

それは、

無数の「ここにいていい」が

積み重なった場所だ。

そして、

いつかまた誰かが、

自分の居場所を探して立ち止まったとき。

その山は、

何も言わずに教えるだろう。

――座ってもいい人生が、

 確かに、ここにあったのだと。

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椅子にまつわる物語 @eggtarte2025

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