第3話

 朝靄の残る訓練場に、冷えた金属音が鋭く突き刺さった。

 剣と剣が擦れる乾いた響きが、木々のざわめきを一瞬で飲み込んでいく。

 見守る団員たちの小さな息遣いさえ、緊張で固まるように静まり返った。


 エルシアの足元では、踏み込みと同時に土がぱちりと跳ね上がった。

 全身の力を剣に込め、弾くように振り抜く。

 だが――それは容易く受け流された。


「ふっ……!」


 音は軽く、あまりにも軽快だった。

 彼女の正面に立つのは、エルシアよりひと回り小柄な少女。

 年齢にすれば、まだ十代前半。だが手にした木剣は、長年握り続けてきた者のものだった。


 古びて艶を失った木肌には、幾重もの稽古の痕跡が刻まれている。

 少女はその木剣を小さく回し、呼吸すら乱さず構えを取り直す。

 力ではない。体格でもない。純粋な“技”だけで、エルシアの攻撃をいなし、前へと押し込んできていた。


 エルシアは想像していた以上の圧力に、歯を食いしばりながら地面を踏みしめる。

 だが、彼女の足元には細かな震えが走る。押されているのは一目でわかった。

 少女の身体は微動だにしない。揺れすらない。

 まるで根を張った木のように安定している。


「……くっ!」


 エルシアが打ち返そうとした瞬間、少女の木剣が閃光のように走った。

 風を裂く軽い音。その速さは、エルシアの視界が追う前に目前へ迫っていた。


「っ……!」


 反応が遅れた。剣が間に合わない――。

 木剣がエルシアの聖剣の側面を叩き、衝撃が腕から肩へ突き抜けた。

 脚が揺れ、そのまま地面に膝をつく。

 乾いた音が地面に響き、エルシアの息が乱れる。


「そこまで」


 訓練場に落ちた声は短く。冷静で。しかしどこか重かった。

 その声と同時に、少女は木剣をすっと引き、元の位置へ戻る。

 朝靄の中。エルシアは膝をついたまま、息を整えようと必死だった。


 敗北の痛みよりも――。

 自分がまだ“この程度”である事実が胸を刺していた。

 エルシアは肩で荒い息をしながら、胸の奥に残った悔しさを必死に押し込み深く息を吸い込んだ。

 乱れた金髪を手で整え。耳にかけ直す。背筋を伸ばし、膝をついたまま丁寧に頭を下げた。


「……ありがとうございました。アドワーズ様」


 その声は震えこそしないが、悔しさと尊敬が混じり合い、普段よりも少し硬かった。

 アドワーズと呼ばれた少女は、わずかに顎を上げエルシアへと一瞥を送る。

 その目は感情の温度こそ低いが、見る者の内側を正確に測り取る、敵わぬ深さがあった。

 白い髪が朝靄を受けて淡く光り、薄い唇が小さく動く。


「腕を上げたな、エルシア」


 淡々とした一言。褒めるでも叱るでもない。ただ真実を述べただけ。

 それでもエルシアの胸の奥で、小さく、しかし確かに温かいものが灯った。

 ほんのわずか。ほんの少しだけ、表情が緩む。


「……わざわざアドワーズ様に稽古つけていただけるとは、光栄です」


 エルシアが言うと、アドワーズは木剣を無造作に肩へ担ぎ、気怠げに答えた。


「気にするな。たまには体を動かさないと錆びてしまうからな」


 それは完全に本音だった。

 エルシアは今にも倒れそうなほど呼吸が荒いのに、アドワーズの額には汗一滴すら浮いていない。

 彼女の白い肌は戦闘前と何一つ変わらず。

 肩も胸も落ち着いたリズムで呼吸し、まるで“散歩のついで”に木剣を振っただけにしか見えなかった。


 訓練場にいた団員たちの多くが、その違いを目の当たりにして息を呑んでいた。

 アドワーズは一歩だけエルシアへ近づき、その瞳をまっすぐ向けた。


「あとで報告の間に来い。お前に指令がある」


 その声音は先ほどまでの稽古よりも遥かに重く、命令としての威圧がはっきりと込められていた。

 エルシアはすぐに反応し、礼儀正しく頭を下げる。


「了解しました」


 アドワーズはそれ以上何も言わず背を向ける。

 白い髪がふわりと揺れ、朝の光を反射して淡い輝きを残したまま、少女は静かに訓練場を離れていった。

 その歩調は軽くも重くもない。ただ、“彼女にとっては自然なリズム”で。


 残されたエルシアは、まだ少し荒い呼吸を整えながら、地面に落ちた自分の影を見つめる。

 そして胸に刻まれる。


(……もっと強くならないと)


 聖剣は――まだ、重かった。


 訓練を終えたエルシアは、冷えた水で汗を拭き取り、乱れた髪をまとめ直しながら、ゆっくりと姿見の前に立った。

 鏡には訓練で荒れた呼吸を整えようとする自分が映っている。

 頬を朱に染め、乱れた金髪を払い、背筋を無理に伸ばそうとする見慣れた姿。


 だが、どうしても目が行く場所があった。

 額から頬へ斜めに――走る一本の傷跡。白く、細く、だが深く。

 触れてももう痛みはない。けれど心は、十年前の痛みをそのまま覚えていた。

 あの夜。ラグナルが残した“烙印”。

 それは肉体の傷であると同時に、復讐の炎を燃やすための“呪い”でもあった。


(十年……もう、十年も経ったのに)


 思わず指先が傷に触れた。冷たくも温かくもない、ただの皮膚。

 だがエルシアの胸に湧くのは、圧し潰されるような焦燥だった。


(まだ……仇に、影すら届かない)


 訓練で感じたあの差。アドワーズ様ですら振り向かせるには程遠い自分。

 焦りに喉が絞めつけられる。

 そして――もう一つ。胸の奥で重く沈み続ける感覚。


 聖剣の重さ。

 今日も、昨日も、一昨日も。どれだけ振っても、どれだけ鍛えても、剣は軽くなる気配を見せない。

 まるでこう告げられているようだった。


“お前はまだ担い手ではない”


 エルシアは眉を寄せ、鏡に映る自分を睨みつけた。

 努力している。鍛えている。虚魔も何体も討ってきた。

 それなのに、聖剣は答え――てくれない。


 胸に熱いざわめきが渦巻く。十年間、一度たりとも忘れたことのないあの日の情景。父と母、ラグナルの背、中にこびりついた叫び。


(忘れるものか……)


 鏡の中のエルシアの瞳に、冷たい光が宿った。

 傷は、刻まれたまま残り続けている。あの日の痛みが、ずっと燃料になっている。


「虚魔も……魔剣使いも……全部切り伏せてやる」


 鏡に向けた小さな呟きは、静かなのに鋼のように強かった。

 その声を最後に、エルシアは目を細め、身なりをもう一度整える。背筋を伸ばして部屋を後にした。



 報告の間へ向かう足取りは、まるで戦場へ向かう兵士のように重く、しかし迷いなく進んでいた。

 エルシアが静かに扉を閉じた瞬間――室内の空気が、ぴんと張りつめた。

 外の光も音も、この部屋にだけは届いていないように思える。静寂は水のように深く、呼吸する音さえはばかられた。


 部屋の奥、祭壇にも似た台座の上に巨大な鏡がそびえていた。縦長で人の背丈の二倍はある銀白の鏡面は、本来の鏡とは違う、冷たく生気のない光沢を放っている。

 エルシアが一歩近づく。

 鏡面が――ぐにゃり、と波打った。


 水面に石を投げたように歪み。波紋が広がり。やがて色が満ち、形が現れていく。

 浮かび上がったのは、一脚の豪奢なソファ。そしてその上に、小柄な少女が優雅に腰掛けていた。

 アドワーズ。

 白金の髪、宝石のような瞳、そして膝に軽く置いた茶器。

 十代半ばにしか見えない容姿だが、その佇まいは“年齢”という概念を超越している。


「来たか、エルシア=コールブランド」


 アドワーズは小さく息を吐き、優雅な仕草で紅茶をソーサーに戻した。

 その動きだけで、鏡越しの室内の雰囲気が変わる。

 視線がエルシアへ向けられた瞬間、周囲の空気が一段階、深く冷えた。


「お前がその聖剣、コールブランドを持つことになって――十年になるな」


 淡々と告げられる言葉。叱責ではなく事実の確認だ。

 けれど、その“十年”の重さはエルシアの胸に刃のように突き立つ。

 アドワーズは細い指でこめかみを軽く押さえ、息を吐く。


「それで……まだ聖剣を“振れない”のか」


 声に湿り気は一切ない。ただ冷たい。淡々と、事実だけが突きつけられる。


「……はい」


 エルシアは背筋を伸ばし、胸の位置に両手を揃えて姿勢を正したまま、わずかに唇を噛んだ。

 喉が痛むほどの緊張。鏡越しでもアドワーズの“気配”が刺すように届いてくる。


「いい加減、担い手としての役目を果たしてもらわねば困る」


 アドワーズの声音は淡々としているのに、その裏では冷たい圧がじわりと染み出す。


「その聖剣は普通の聖剣ではないのだから」


 たしかに――コールブランドは特別だ。そしてエルシアは十年経っても、その力を開放できていない。その事実が胸を刺した。


「申し訳……ありません」


 頭を下げる声が震えそうになり、エルシアは無意識に呼吸を整えた。

 アドワーズはため息すらつかず、ただ片眉をわずかに動かしただけだった。


「まあよい。小言を言うために呼んだわけではないのだからな」


 その一言だけで、室内の空気がわずかに緩む。

 けれどエルシアの心は逆に張り詰めていく。“本題がこれから始まる”と理解したからだ。


 アドワーズは机に広げられた書類の束を、細い指でぱらぱらとめくった。紙が擦れる音だけが、静まり返った部屋に響く。

 視線を走らせるその仕草は、感情の色がまったく読み取れない。事務的で、冷静で、そして圧倒的に“上の存在”だった。


「……シンシア院を知っているな」


 淡々とした声。その一言だけで、エルシアの胸がわずかに締めつけられる。

 彼女は一瞬だけ視線を落とし、小さく答えた。


「はい」


 シンシア院――両親を喪い、世界のすべてを失ったとき、幼い自分を迎え入れてくれた場所。

 暖炉の温もり。柔らかな院長の声。あの日、泣き疲れて眠った自室の匂い。


(……院長は、元気にしているだろうか)


 そんな感情が胸をよぎる。

 しかしアドワーズの声がその余韻を切り裂いた。


「先日深夜、その孤児院で行方不明者が出た」


 エルシアの呼吸がひくりと揺れる。


「……それは、もしや」


 声が自然と震えた。


「孤児院は“虚魔”の仕業だと言っている。お前はあそこの出だ。行って調査せよ」


 まるで私情など存在しないと言わんばかりの口調。エルシアは背筋を正し、強く頷いた。


「了解しました」


 シンシア院が危険なら――動かない理由はない。

 アドワーズは紅茶をひと口含み、淡い香りを楽しんでから続ける。


「そうそう。一人、つけておく。協力はしなくても構わん。だが虚魔の仕業であれば――必ず解決せよ」

 

 短く指を鳴らすような命令の仕方だった。

 エルシアは眉を寄せ、自然と問い返していた。


「その方は……術士でしょうか。それとも、聖騎士でしょうか」


「騎士だ。一応な」


 その一言は、わざと含みを持たせている。侮蔑でもなく皮肉でもなく、ただの“事実”を述べた声。

 だがエルシアの胸に、不安が生じる。


(一応……?)


 自分と同じ“未熟”なのか。あるいは評判の悪い問題児か。それとももっと別の、説明しづらい事情を抱える者か。

 表情には出さずとも、疑念が胸でざわつく。


「……すぐ向かいます」


「ああ、頼んだぞ」


 アドワーズは再び書類に視線を落とし、エルシアは深く一礼する。

 扉を開き、背筋を伸ばし、音を立てないよう静かに閉じた。

 足音が遠ざかる。その完全な静寂を待ってから、アドワーズはほんのわずかに視線を上げた。

 紅茶の湯気がゆらりと揺れる。


「……十年か」


 その呟きは、さきほどの冷徹さとは違う響きを帯びていた。


「さすがに、悠長に待ちすぎたか」


 鏡面が微かに光を乱反射し、その表情を不気味に照らした。

 アドワーズの瞳は静か。だが、底知れない何かを隠しまた何かを決断しようとしている色だった。


――――――――――――――――――――――――


ここまで読んでくださりありがとうございました。

よければコメント評価くださると幸いです。

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