第2話
人気のない裏道に、女の荒い呼吸だけが吸い込まれていく。
夜気がひどく冷たく感じるのは、風のせいではなかった。
背後を追ってくる“何か”が、彼女の体温そのものを奪っていくように思えたからだ。
足音も、声も、気配すら感じない。けれど直感が告げていた。
“追われている”と。
女は何度も振り返り、そのたびに影が揺れるだけで心臓が跳ねた。
靴音は乱れ、呼吸は千切れそうなほど荒くなる。狭い裏道の壁に伸びた自分の影でさえ、まるで誰かの手のように見えてしまう。
曲がり角を勢いよく飛び抜け、壁に背中をぶつけるようにして立ち止まった。
喉が潰れたみたいに息が出ない。胸を押さえ、必死に空気を飲み込む。震える手で、ゆっくりと後ろを見る。
闇だけ。静寂だけ。
誰もいない。
理解した瞬間、膝から力が抜けた。彼女はへなへなと地面に座り込み、冷たいアスファルトの感触に震えながら、か細い声を洩らした。
「よかった……」
その安堵は、本当に一瞬のものだった。
背後の闇が――ふくらんだ。
まるで何かが、“闇を押し出して現れてくる”ように。
ぼたり。
湿った肉の重みを感じさせる足音が、背中に落ちた。
彼女が振り返った瞬間、視界が拒絶した。
そこには、人の形を保てていない“異形”が立っていた。
皮膚らしきものは赤黒く濁り、その奥をうごめくように――血管のような脈動が生き物みたいに這い回っている。
肩や腕はねじれ、骨格は明らかに人ではない。
顔だけは辛うじて“人に似た何か”。
だが、その口が不自然に横へ裂け、にい、と笑った。
「安心したか。……よかったなあ」
声は、人間の声帯が無理に形を保とうとしたように歪んでいた。
女の喉がひゅっと縮まり、漏れた声は悲鳴とも呼べない弱さだった。
「ひ……っ……!」
尻もちをつき、手のひらで地面を必死に掻きながら後ずさる。
アスファルトに爪が割れ、痛みが走る。だが逃げたい、その一心だけが体を動かしていた。
異形は――まるでそれを楽しんでいるかのように、ゆっくりと距離を詰めてくる。
立ち方すら不気味に歪んでいるのに。その動きはやけに滑らかで。人間とは違う“規則”で動いているのが、見ているだけで分かった。
逃げ場はない。叫んでも誰も来ない。
夜の裏道は、異形の存在――虚魔にとっては“狩り場”だった。
そのとき――。
「そこまでだ」
静かだが、不思議とよく通る声だった。裏道の闇に溶けず、まるで空気そのものを震わせるように落ちてくる。
女性はびくりと肩を跳ねさせ。振り返ることすらできぬまま、背後の気配に飲まれた。
いつの間にか、彼女のすぐ後ろに巨躯の男が立っていた。
街灯の乏しい裏道にもかかわらず、その体の輪郭ははっきりと“影”をつくっている。
大きい。ただそれだけじゃない。存在そのものが重い。
圧があった。静かに立っているだけなのに、虚魔がわずかに目を細めるほどの。
「貴様……聖騎士か」
虚魔の声はうねるように低い。偽装のための人語ではなく、本性に近い響きが混ざっていた。
男は肩をぐるりと鳴らすように回し、つまらなそうに口角を上げた。
「俺が何だろうがどうでもいい。だが――討たせてもらうぜ、虚魔」
その言葉には虚勢がなかった。本当に“ただの事務仕事”のような調子だった。
裏道に、男が一歩踏み出す音が響く。
――ゴッ。
地面がうっすら沈んだ気がするほどの重い一歩。巨体が揺れるわけでもなく、呼吸も一切乱れない。
ただ歩いただけなのに、虚魔の背を冷気が走った。
だが異形は甲高く笑い、狂った野生のように壁へ飛び移った。
次の瞬間、壁を蹴った。
石が砕け散るほどの勢い。赤黒い脈動のラインが軌跡のように残り、虚魔は闇そのものを裂く一閃の速さで突っ込んできた。
女性が悲鳴も上げられないほどの速度。
しかし――。
大男は、微動だにしなかった。まるで自分へ跳びかかってきていることすら、気にしていないかのように。
飛びかかる虚魔が距離をゼロにした瞬間。男の拳が、沈んだ。めり込む音は、肉ではなく岩を砕くような重さだった。
虚魔の胸郭が不自然に凹む。内側から破裂するような音がした。
そこから生まれた衝撃が爆ぜ、虚魔の体は後方へ弾け飛んだ。
「ぐ、ぉ……ッ!」
地面を削りながら転がり、路地の端で金属の残骸にぶつかって止まる。
その衝撃だけで近くのゴミ箱が倒れ、中身が飛び散る。
女性は呆然としていた。目の前で、“怪物”が“怪物”らしく吹き飛ばされた。
それもただの一撃で。
男は、ほんの軽く手を振っただけだった。まるで飛んできた虫でも払ったように。
転がりながら起き上がった虚魔は、獲物を失った獣のように喉を鳴らした。
その腕が、ぐにゃり……と蠢く。
皮膚が裂け、赤黒い線が中から這い出すように浮き上がり。骨の形すら無視して肉が伸び、捩じれ、尖り――やがて“刃”の形を取った。
人間の体では決して成し得ない。長大な大鎌。
虚魔は喉奥で嗤いを漏らし、その鎌を勢いよく振り下ろした。
殺意の塊のような斬撃。
しかし、大男の手が先に動いた。
がし、と。まるで紙切れでも掴むかのような自然さで、その鎌――もはや腕と呼べないそれ――を根元から掴んだ。
「……なっ……!」
虚魔が驚愕の声を漏らす。
掴まれた鎌が、ガキンと軋んだ音を立てる。力を込められたわけではない。単純に“握力”だけで捻じ伏せられている。
そして――。
ドンッ!
地面を蹴る音と同時に。大男の拳が、虚魔の顎を下から突き上げた。
頭部が弾けるように跳ね上がり、骨か肉かわからない鈍い音が裏道に響く。
虚魔の体がふらついた次の瞬間、腹部に強烈な衝撃。大男の前蹴りがめり込んでいた。
虚魔の体はまるで空になったバケツのように転がり、地面をゴロゴロと擦りながら遠くへと吹き飛んだ。粉が舞い、壁に激突してようやく止まる。
虚魔は呻き声を漏らしながら、赤黒い液を垂らして立ち上がろうとした。
――その瞬間だった。
空気が、一度だけ震えた。
光でも音でもない。ただ、世界の“密度”が一瞬変わったような違和感。
次に視界に入ったとき、大男の手にはすでに“黒い剣”が握られていた。
黒鉄のように深い色。刃の内側を這う赤い脈動。生き物のように揺らめく影。
虚魔の目が大きく見開かれる。その瞳に、明確な恐怖が浮かんだ。
大男が一歩、踏み込む。その動きは先ほどまでと同じく無駄がない。
むしろ軽い。黒い剣を持っているのに、重さを感じさせない。
そして――。
黒い影が、裏道を横切った。
刃が通ったことすら認識できないほどの速さで。虚魔の首元に、流れるような一閃が刻まれる。
風が抜けたような静かな音。遅れて、虚魔の身体が崩れ落ちた。まるで支えを失った人形のように。
その肉体は地面に触れる前にひび割れ、砕け、黒い砂となって風に散った。
裏道に残ったのは、血の匂いよりも先に――静寂だけだった。
黒い砂が風に散りきったあとも、裏道にはしばらく音が戻らなかった。
その沈黙のなか、女性はようやく震える声を絞り出した。
「……た、助かったの……?」
自分の声が自分のものではないように、かすれて頼りない。
胸を押さえる手はまだわずかに震え、足先は逃走の名残で小刻みに震動している。
その視線の先で。巨躯の男は剣を一度軽く振って黒い砂を払い、鞘もなしに影のように消えるそれを手首の動きひとつで消滅させた。
それから振り返り、女性へと長い影を落としながら歩み寄る。
その存在感だけで“安全”と“危険”が同時に迫ってくる。助かった安堵と、圧倒的な強者への畏怖が胸でぶつかる。
男はゆっくりと手を差し出した。
「立てるか」
差し出された手は大きく。分厚く。戦いの痕が刻まれているのに、不思議と温かさを含んで見えた。
「あ、ありがとうございます……騎士様」
女性は震えが消えないままその手に触れ、支えられながら立ち上がる。
近くで見ると、男の体は壁のようだ。筋肉の一つ一つが“虚魔相手でも揺るがない”と語っていた。
「いいってことよ。これも務めだからな」
男は気楽な調子で肩をすくめて笑った。助けた自覚はあっても、英雄気取りは微塵もない。それが逆に“慣れている感”を漂わせる。
女性が少しずつ呼吸を整えていくと、男はそこでふいに言葉を切った。
「それより――」
声の響きがわずかに低くなり、目線が、すっと下がる。
胸元。
乱れた服から覗く素肌へ、明らかに“意図的な”視線が落ちた。
女性が小さく身をすくませるより早く、男は顎をわずかに上げ、にやりと笑った。
「このあと、時間あるか?」
軽い。あまりに軽い。
命を救った直後とは思えないくらい、“ただのナンパ”だった。
そのギャップがあまりに強烈で、女性は言葉を失い、ぽかんと見上げることしかできなかった。
――――――――――――――――――――――――
ここまで読んでくださりありがとうございました。
続きは22時に投稿します。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます