復讐しか知らない聖剣使いと、守ることしか知らない魔剣使い

ポロポ

第1話


新作品投稿します。

楽しんで行ってくれれば幸いです。


――――――――――――――――――――――――



 夜の帳が降りた家の中には、いつもと違う匂いが漂っていた。

 夜ご飯の匂いでもない。掃除の後の香りでもない。知らない匂い。

 幼い少女――エルシア=コールブランドは鼻をひくつかせた。

 その匂いが、かすかに鉄を舐めたような味を含んでいることに、このときの彼女はまだ気づいていなかった。


 だが一歩踏み出すごとに、足元の冷たさと重い静寂が、胸の奥でざわつきを増していく。

 そして――玄関から数歩進んだ瞬間、エルシアの足は完全に止まった。

 部屋の中央で、父が倒れていた。


 あんなに大きかった背中は、今は床の上で小さく沈んでいるように見えた。

 胸元には、斜めに深く走った一本の裂け目。

 服の布地ごと切り裂かれ、 その下からどくどくと赤があふれ続けていた。

 赤は床を伝い、木目の隙間に沿ってゆっくりと広がる。まるで家そのものを飲み込もうとするように染みていく。


 ランプの光が液面に映り、 ゆらり、ゆらりと不規則に揺れた。その揺れが、まるで父が今にも動くのではないかという錯覚を見せる。

 けれど動かない。


 次に視線が吸い寄せられたのは――壁だ。

 壁にもたれかかるようにして、母がそこにいた。

 まるで座っているかのような体勢で。けれど肩はだらりと落ち。髪はゆっくりと床へ流れるように垂れ下がっていた。


 胸元や腹部が赤く染まり、しかし最もエルシアの心臓をつかんだのはその瞳だった。

 母の瞳はかすかに開き、まるでまだ何かを伝えようとしているようだった。


 “逃げて”

 “隠れて”

 “生きて”

 そのどれなのか、幼いエルシアには分からない。


 でも――言葉にならない声が、母の眼差しの奥から確かに生きていた。

 エルシアの喉がきゅっと塞がる。呼吸がどこから行方不明になったか分からないほど、胸が痛い。

 理解はできない。けれど、ただひとつだけ分かった。

 「もう、元には戻らない」

 その現実だけが、幼い少女の心に静かに沈んでいった。スマホで人を呼ぼうという考えは抜け落ちていた。


 そして――二人の亡骸の向こう側に、一人の男が立っていた。


 ラグナル=ヴァイス。


 つい昨日まで、いや、数時間前まで、エルシアの前では柔らかく笑い、父に向けて無邪気な敬意を向けていた青年。

 だが今、彼の姿にはあの温かさの欠片すら残っていなかった。

 返り血に濡れた剣を携え、その全身に“闇”がまとわりついたような気配を放っている。


 ラグナルは軽く腕を振り、剣についた血を床へと払った。まるで、鬱陶しい埃でも落とすような仕草で。

 赤い雫が床に跳ね、すでに広がっていた血の海へ溶けていく。


「弱い」


 その一言は、感情というものをどこかで捨ててきた者の声音だった。


「我が師は……この程度の強さだったのか。これが“最高の聖剣の担い手”とは」


 嘲笑でも、怒りでもない。ただただ――純粋な失望。そこには、かつて父へ向けた尊敬の影すらない。


 エルシアの喉が、勝手にひゅ、と細く震えた。

 涙も出ない。泣き方すら忘れてしまったような衝撃。

 胸の奥に溜まった塊は、恐怖なのか、怒りなのか。

 あるいはその両方が混じり合った“得体の知れない何か”なのか――幼い彼女にはわからなかった。

 ただ苦しい。息ができない。


 ラグナルはエルシアの存在など視界に入れていないかのように、その横を通り過ぎようとする。


 ――その瞬間だった。


 エルシアの目に映ったもの。父の手元に転がっていた“聖剣”。

 血に濡れ。柄がわずかに光を失いながらも、そこに確かに存在していた。


 “父の剣”。


 エルシアの足が勝手に動いた。震え続ける体で膝を折り、小さな手が柄に触れる。

 重い。ひどく重い。


「お……父さん……っ……!」


 声は叫びになる前に潰れ、喉の奥でひび割れて零れた。

 それでも――聖剣の柄だけは離さなかった。

 幼い手には不釣り合いなほど大きく。重く。硬く。冷たい剣。

 でも、それを握る指先には確かな震える意志があった。


 エルシアは歯を食いしばった。

 夜気を裂くような叫びとともに、小さな体はラグナルへと突っ込んでいった。


「――あああああッ!!」


 振り下ろされた幼い腕。その軌跡はあまりに未熟で。あまりに軽く。あまりに届かない。

 届かないと知っていた。相手が強すぎることも理解していた。どう足掻いても勝てないこともわかっていた。


 それでも――。

 あの一撃だけは、間違いなく“本物”だった。幼い少女の、初めての戦いだった。


 ラグナルは、エルシアの必死の斬撃を受けて――ようやく振り向いた。

 その動きは、あまりにも緩やかで、まるで“風に振り返るだけ”のような軽さだった。

 そして彼は、伸ばした片手で聖剣の刃を受け止めた。

 金属が触れたはずなのに、拒絶するような火花も、押し返す衝撃もない。

 本当に――ただ手を添えただけだった。


「子どもの力か」


 嘲るでもなく。見下すでもなく。ただ事実を口にしただけの声。

 そのままラグナルは、指先で刃の角度をほんの少し捻った。まるで乾いた枝をはじくように。

 カン、と乾いた音がして、エルシアの小さな体ががくりと揺れた。

 次の瞬間、腹部を貫くような衝撃。

 蹴られた、と理解する前に――視界がぐるりと反転し、背中が壁に叩きつけられた。


「……っ……あ……!」


 肺がひしゃげるような痛み。喉がきしみ、空気が一瞬入ってこない。

 手足に力が入らず、意識が白く弾ける。

 指が開き、聖剣が床に落ちた。カラン、と音が響き、幼い胸にさらに重みを落とす。


 ――それでも。


 エルシアは、ラグナルから視線だけは外さなかった。

 呼吸は荒く、苦痛が全身を蝕み、涙と血が混ざって視界を曇らせる。

 でも、その曇りの奥に宿った感情はただひとつ。

 憎悪。

 幼い少女が抱いてよいはずのない燃える影。それを見て、ラグナルの口角がゆっくりと歪む。


「……いい殺気だ」


 足音が近づく。

 ゆっくり。静かに。焦りも興奮もない。

 逃げ出そうともがくエルシアの指先に、力は一滴も残っていなかった。

 ラグナルの影が覆いかぶさり、逆手に構えた剣の切先が――彼女の額に触れた。


「その目……いい」


 そして、刹那。熱が走った。

 皮膚が裂ける音すら聞こえた気がした。額から頬へ、一直線に走る“焼ける痛み”。


「――ああああッ!!」


 声は悲鳴ではなかった。恐怖とも違う。

 幼い喉が振り絞ったのは、獣じみた吼えだった。

 ラグナルはその叫びを愉しむように目を細め、淡々と告げた。


「その傷を見るたびに、俺を思い出せ。そして……俺を殺すために強くなれ」


 彼は剣を払うと、背を向けた。

 その歩みは、最初から結末を知っている者のそれ。振り返りもしない。ただ静かに、家を後にする。

 エルシアは床に倒れたまま、血を吐くような声で叫んだ。


「……ころす……! ぜったい……おまえを……ころす……っ!!」


 裂けた頬の血を拭うことすらできず。涙も痛みも飲み込んで吐き出したその言葉は、呪いのように部屋に残った。

 ラグナルの姿が暗闇に消えるまで、エルシアはその言葉だけを繰り返し続けた。

 震える手で、血に濡れた聖剣を抱きしめながら――。



――――――――――――――――――――――――

ここまで読んでくださりありがとうございます。

続きは21時過ぎに投稿します。

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