行方知れず
小島 遊
第1話 肉
注文してから三十分。
インターホンが押されて僕は玄関まで小走りで向かう。
スリッパに足を突き刺して、ドアを開けるとおなじみになりつつある顔が目の前で朗らかな笑みを浮かべている。
「いつもありがとうございます。冷める前に召しあがってくださいね」
ぼさぼさした眉毛と見開かれた瞳が特徴的な配達員に軽く頭を下げて、僕はビニール袋を受け取る。
装いは大きくないがしっかりとした重みがあって、食事としてのボリュームがビニール袋を提げた指から伝わってくる。
「またお願いします」
少し肉のついた顔が笑顔になって、くしゃっと目がつぶれる。人のよさそうなこの配達員が、いつも家に食事を届けてくれるのでもう他人という気がしない。
もっとも、それは僕が同じ店ばかりを利用しているからなのかもしれないが。
近頃急速に発展しているデリバリーのサービスを僕が頻繁に利用し始めたのは、仕事がリモートに移行してからのことだ。
急変する社会情勢に対応するために、会社ではリモートワークを推進し、僕もそのあおりをもろに受けた。
満員電車に揺られての通勤時間が無くなって、プライベートに割ける時間が増えたことは幸い。
しかし独身の僕にとっては、誰とも直接顔を合わせて会話しない日が続くとまた別のストレスがかかるようになるのであった。
そんな僕が目を付けたのがフードデリバリーサービスだったというわけである。
ストレスの発散は食欲に向いて、少し値が張るものでも財布のひもが緩んでしまっているのでお構いなしだ。
家から出るのが億劫になって「まあいいや」と明らかに割高な決済でもスマホをいじる指が止まらない。
はじめのうちはチェーン店を中心にいくつかの店を利用していたが、そんな日々がしばらく続けば飽きもくる。
冒険のつもりで聞いたことのない名前の店舗にも手を伸ばし始めて、僕はこの店に出会ったのだ。
「いただきます」
袋から容器を取り出して、ふたを開けて箸を割る。デミグラスソースの芳醇な香りが鼻孔をくすぐって食欲を煽る。
ハンバーグを箸で割って一口。
うん。この他のハンバーグとは違う独特の味わいこそが魅力だ。
何かひき肉に秘密があるのだろうか? それとも隠し味?
デミグラスソースは美味いが特に変わっているわけではないような気がする。
『行方知れず』に出会ったのは半年ほど前だ。
店舗の名前は不思議だったが、メニューは取り立てておかしなところもない。ハンバーグが中心に肉料理が少し。
値段もお手頃で写真を見る限りボリュームも十分そうだ。レビューはまだなし。
冒険の中でも未開の地へと踏み込むようなつもりで、僕はハンバーグプレートを注文した。
配達予定時刻よりも十分ほど早く、その時も注文から三十分程で今や顔見知りになっている彼がうちまでハンバーグプレートをデリバリーしてくれた。
対応の感じも良くて、あまり聞いたことのない店の名前に一抹の不安があった僕の心に安心感を与えてくれる人だった。
ハンバーグプレートといっても、中身は大きなハンバーグのみで、付け合わせの類すら入っていない。米だって自分でどうぞ用意してくださいという潔さだ。
その武骨な感じはおしゃれとか料理の色どりとか今風のSNS映え、などというものはまるきり無視していたが、逆に料理人のこだわりのようなものを感じた。
あくまでもうちは、このハンバーグで勝負しますよ、というような気概が込められているのではないかと深読みして勝手に感銘を受けてしまったのだ。
ラーメン屋に入って、ラーメンしかメニューになかった時、こだわりを感じて期待してしまうのは僕だけだろうか?
とにかくその時と同じような気持ちだったわけだ。
そのハンバーグは配達員同様、とても安心感を覚えるような味だった。今食べてみた感想もその時と何も変わらない。
とびきりに美味いかと言われればそうではない。
しかし昔ながらというか、スタンダードで素材をとにかく活かしたようなスマートなハンバーグだった。
肉の歯ごたえがしっかりあって、デミグラスソースも薄すぎず濃すぎずで食べやすい。
形容するなら、おふくろの味、といったところなのだろう。
と、自分の頭の中だけで食レポしてみたが、「おふくろの味」というものがどういうものなのか、実は僕にはよくわからない。
母親は料理をしない人だったからだ。子どもの頃から口にするもののほとんどは父が作ってくれたものだった。
今日の分の夕食を完食して、その父の料理の味を思い出す。あれを最後に食したのは、いつのことだっただろうか。
中学生に上がろうかという時に、両親は離婚した。家には僕の他に小学校に入ったばかりの弟がいた。
五歳の年齢差があったから僕は兄として弟を守るべき可愛い子と思いながら接していた。
多少揉めたようだが、両親は親権を分け合い、母親が僕を、弟を父が引き取ることになった。
正直に言うと当時僕は、弟のことを羨ましく思った。
母はなんというか、あまり母らしくない人で、物心ついてからは父に面倒を見てもらっていた記憶しかない。家事もほとんどを父がやっていたと記憶している。
対して母はあまり家に居なかったし、居ても疲れて寝ていることが多かった。
父が家のことを、母が外で仕事を、と他の一般的な家族とは分担が逆だったと知るのは、もう少し大きくなってからだった。
だからそれに気付くまでは母と一緒に暮らすのであれば誰が料理を作ってくれるのだろうかと、僕は不安だったわけだ。
結果としては母はさらに仕事に追われるようになり、食事代を僕に渡して外食や出前を取らせるようになった。僕がデリバリーサービスを気兼ねなく利用しているのも、そういった過去があるからかもしれない。
お金を使って好きなものを食べられるので、不満があったわけではない。
しかしその食生活には寂しさがあった。
食卓は一人で、食べるものも美味しいのだがなんだかぬくもりがない。
親が子を想って作っているという、愛情がそこには入っていなかったのだ。
暗闇の中で豆電球を点けて一人ポツンと食卓に座る自分が浮き上がる。
寂しかった。それは間違いない。
でもじきに慣れた。一人の食卓は、母のもとを離れた今でも続いている。
今ではあまり寂しさも感じなくなった。
無音の中で、ハンバーグは咀嚼されて僕の胃袋の中へと消えていく。
ワンルームのマンションには最低限の家具しかなくて、それこそぬくもりなどとは程遠い部屋。いつの間にかその方が気楽に感じるようになっていた。
「ごちそうさまでした」
僕は一人で勝手に手を合わせて、空になった容器をごみ袋へと捨てる。
重みのなくなった軽やかな容器は抵抗なく透明なごみ袋へと消えていった。一人きりの作業のような夕食がこれで完結する。
洗い物の手間が省けることもデリバリーの利点だ。
次の更新予定
行方知れず 小島 遊 @yu_kojima
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