第10話 修行の日々
チュン、チュン……。
障子の隙間から差し込む朝日と、野鳥のさえずりが、俺の意識を現実へと引き戻した。
まぶたが重い。全身が鉛のように気だるい。
だが、それは不快な疲労感ではなかった。身体の芯に、かつてないほどの熱量が満ちているような、不思議な充実感。
俺はゆっくりと目を開けた。
「……んぅ……」
すぐ目の前に、白磁のような肌があった。
スヒジニだ。
彼女は俺の腕を枕にして、安らかな寝息を立てている。長い睫毛、無防備に開いた口元。昨夜の妖艶な女神の姿とは打って変わって、まるで幼子のような寝顔だ。
布団からはみ出した肩には、薄っすらと赤い痕が残っている。昨夜の記憶が、鮮烈に蘇った。
――『わらわが手取り足取り教えてやる』
そう言って俺を押し倒した彼女だったが……。
「……嘘つき」
俺は苦笑交じりに呟いた。
昨夜の彼女は、確かに積極的だった。だが、その手つきはおぼつかなく、どこかぎこちなかった。キス一つとっても、タイミングが合わずに鼻と鼻がぶつかったり、俺の反応にいちいち驚いて赤面したり。
極めつけは、いざ本番という段になって、「ほ、本当に痛くはないのか? 書物には裂けるような痛みと書いてあったぞ!?」と涙目でしがみついてきたことだ。
何のことはない。
彼女は、数千年の時を生きてきたとはいえ、ずっと封印されていた身。男女の交わりに関しては、かつての信者たちの祈りや、供物として捧げられた書物から知識を得ていただけで、実体験など皆無だったのだ。
いわゆる、究極の耳年増。
勢い込んでリードしようとしたものの、結局は俺と二人で探り合い、戸惑い、そして最後には……。
「……んっ、まぶしい……」
スヒジニが身じろぎし、うっすらと目を開けた。
黄金色の瞳が俺と合い――次の瞬間、彼女の顔がカァッと熟れたトマトのように赤く染まった。
「あ、う……お、おはよう、ダイト」
「おはよう、スヒジニ」
「……身体は、大丈夫か? その、昨夜は……少々、張り切りすぎたゆえ……」
彼女は布団を鼻まで引き上げ、モゴモゴと言い訳がましく口ごもる。
「大丈夫だよ。むしろ、すごい元気だ。……スヒジニこそ、平気か?」
「う、うむ! 神であるわらわが、その程度で疲れるわけがなかろう! 余裕じゃ、余裕!」
強がってはいるが、視線が泳いでいる。
俺は意地悪く笑って、彼女の頬をつついた。
「へえ、余裕だったんだ。昨日の夜は『あわわ、待て、タンマ!』って叫んでたのに?」
「う、うるさいっ! あれは……予期せぬ刺激に驚いただけじゃ! わらわは知識としては完璧じゃった! ただ、実技の経験が、その……いや、初めてゆえ……」
最後の方は消え入りそうな声だった。
俺は彼女の頭をポンポンと撫でた。
「ありがとな。……最高だったよ」
「……ふん、調子の良い奴め」
スヒジニは照れ隠しに俺の胸に顔を埋めたが、その耳まで赤くなっているのが可愛かった。
昨夜の「和合」は、儀式という名目を借りた、不器用な二人の初めての夜だった。
だが、そのおかげだろうか。俺の中にある「泥」の感覚が、今は完全に俺の一部として馴染んでいる。以前のような異物感はない。
俺たちは文字通り、身も心も一つになったのだ。
昨夜のスタミナ鍋の残りを雑炊にしたものを朝食として食べながら、俺たちは今後の作戦会議を開いた。
「さて、ダイトよ。儀式は成功した。おぬしの中には今、わらわの神気が太いパイプで繋がっておる。これなら多少の戦闘でもガス欠にはならぬ」
スヒジニは茶碗を置き、真剣な表情になる。
「だが、根本的な問題が解決したわけではない。わらわという『本体』のエネルギー総量は、依然として枯渇寸前じゃ。それに、おぬしの肉体も貧弱すぎる」
「貧弱って……これでも大学ではサークルで運動してたんだぞ?」
「神の戦いにおいては、赤子も同然じゃ。昨夜の凛花の一撃、泥の鎧がなければ即死じゃったろう? わらわの力を引き出すには、器であるおぬし自身がもっと頑丈でなければならん」
痛いところを突かれる。
確かに、俺の反応速度や筋力が追いついていなければ、どれだけスヒジニが強くても宝の持ち腐れだ。
「そこでじゃ。これからは二つの方針でいく」
スヒジニは指を二本立てた。
「一つ目はダイトは徹底的に肉体を鍛えること。神の負荷に耐えうる鋼の肉体を作るのじゃ。そして二つ目はわらわは……文明の利器を使って、信者を獲得する」
「文明の利器?」
「うむ。昨日おぬしが言っておったろう。『どうがはいしん』とやらを」
動画配信。
確かに俺は言ったが、まさか本気にするとは。
「本気なのか? 顔出しで?」
「背に腹は代えられぬ。それに、わらわの美貌ならば、画面越しでも愚民どもを跪かせることなど造作もないはずじゃ。……そうじゃろう?」
上目遣いで同意を求めてくる。
まあ、確かに見た目は絶世の美少女(中身はお婆ちゃんだが)だ。やり方次第では人気が出るかもしれない。
「分かった。俺も協力するよ。……よし、じゃあ早速行動開始だ!」
それからの俺たちの生活は一変した。
午前中は、俺の地獄のトレーニングタイムだ。
「遅い遅い! 足が止まっておるぞダイト!」
屋敷の裏山。急勾配の山道を、俺は必死の形相で駆け上がっていた。
背中には、薪の束を背負わされている。
そしてその上には、優雅に座るスヒジニの姿があった。
「ちょ、重い……! 自分は浮いてくれよ!」
「阿呆か。これは負荷訓練じゃ。わらわの体重など羽毛のようなものであろう? それとも、愛する女の重みすら支えられぬか?」
「くっ……やってやるよ!」
スヒジニは体重を操作できるのか、時折ずっしりと重くなったり、軽くなったりする。その予測不能な負荷に耐えながら、俺は足腰をいじめ抜く。
山道を走り終えると、次は境内で素振りだ。木刀代わりの太い枝を振り続ける。
さらに、スヒジニが泥で作ったゴーレム(泥人形)とのスパーリング。こいつがまた容赦ない。痛みはないが、衝撃で何度も吹き飛ばされる。
「まだまだ! 腰が入っておらん! 敵は待ってくれぬぞ!」
「ぜぇ、ぜぇ……鬼教官め……!」
だが、不思議と辛くはなかった。
「和合」のおかげか、身体の回復力が異常に早いのだ。筋肉痛になっても、数時間後にはケロリと治っている。
俺の身体は、着実に「人外」の領域へと足を踏み入れつつあった。
そして午後はスヒジニの出番だ。
「……で、どうすればよいのじゃ?」
居間のちゃぶ台の上には、俺のノートパソコンと、100円ショップで買ってきたスマホスタンド、そしてリングライトが設置されている。
背景には、なるべくボロが出ないよう、綺麗な屏風を立てた。
スヒジニは、いつもより少しめかしこんで座っている。社務所の奥から引きずり出してきた巫女服に、庭で摘んだ花を髪飾りにしただけだが、それだけで神々しさが溢れ出ている。
「とりあえず、カメラに向かって喋ればいいんだよ。自己紹介とか、雑談とか」
「うむ……。全世界の人間が見ておるのじゃな? 緊張するのう」
「まだ誰も見てないって。最初は視聴者ゼロだから」
俺は配信ソフトの設定を終え、「配信開始」のボタンをクリックした。
タイトルは『【初配信】原初の女神じゃが、何か質問あるか?』。
煽り性能高めのタイトルだ。
「――始まってるぞ」
「ん、おお。……コホン」
スヒジニは居住まいを正し、カメラを睨みつけた。
「愚民どもよ! 平伏せよ! 我こそは泥と豊穣を司る原初の神、スヒジニノヒメである! ……えーっと、今日は特別に、下々の者との対話を許す。感謝するがよい!」
……キャラが濃い。
いきなり上から目線全開だ。現代のネット社会でこれが受けるのか?
だが、深夜帯ということもあってか、ちらほらと視聴者が入ってきた。
コメント欄に文字が流れる。
『なんだこれ』
『Vtuber? いや実写か?』
『設定凝ってるなw』
『美人すぎワロタ』
『口調www』
「むっ、文字が流れておるぞ。『びじんすぎ』……ふふん、当然じゃ。『くちょうわろた』……? なにが可笑しいのじゃ、不敬な」
スヒジニは画面に顔を近づけ、コメントを一つ一つ読み上げていく。
老眼ではないはずだが、画面との距離感が分かっていない。ドアップになった美貌に、コメント欄が加速する。
『顔ちかっ!』
『肌きれいすぎだろ』
『エフェクトなしでこれ?』
『おばあちゃん口調の美少女とか新しいな』
「お、おばあちゃんじゃと!? 誰じゃ貴様! わらわはピチピチの現役じゃ! ……いや待て、数千歳だから……うぬぬ」
『スヒジニ、喧嘩しちゃだめだ。スルーしろ、スルー』
俺はカンペを出して指示を送る。
彼女はムッとしつつも、気を取り直してトークを続けた。
「……まあよい。質問があるなら答えてやろう。……『好きな食べ物は?』。うむ、良い質問じゃ。最近は『すたみな鍋』と『びーる』にハマっておる」
『オッサンかよww』
『酒飲みキャラか』
『女神様、ご利益はあるんですか?』
「ご利益? もちろんじゃ。わらわを崇めれば、五穀豊穣、家内安全、そして……夫婦円満も間違いなしじゃぞ? 特に夜の営みには自信が……」
『ストップストップ! BANされる!』
俺は慌ててカメラの前でバツ印を作る。
スヒジニは「?」と首をかしげている。この天然さが危なっかしい。
だが、そんなハプニングも含めて、視聴者は楽しんでいるようだった。
同接(同時接続数)はいつの間にか50人を超えている。初配信にしては上出来すぎる数字だ。
『なんか癒やされるわ』
『スパチャ投げたいけど収益化まだ?』
『推せる』
『明日もやってくれ』
「ふふ、案外チョロいのう、人間どもは」
配信を終えた後、スヒジニは満足げにビールを開けた。
「どう?スヒジニ、少しは信仰が集まったか?」
「まだ微量ではあるが集まってきておるの。明日ももやるぞ。次は……そうじゃな、『泥パック実演』とかどうじゃ? わらわの泥を使えば、肌などツルツルになるぞ」
「それいいな! 美容系配信者は強いぞ」
俺たちは顔を見合わせて笑った。
昨夜の湿っぽい空気とは打って変わって、前向きな空気が流れている。
昼は泥にまみれて身体を鍛え、夜は電脳の海で信者を集める。
奇妙な生活だが、不思議と充実していた。
***
数日後。
「――ほう。動いたか」
トレーニングの休憩中、スマホを見ていたスヒジニが目を細めた。
彼女が見ているのは、SNSのトレンド画面ではない。もっと別の、神としての感覚だ。
「どうした?」
「微かじゃが、結界に触れた者がおる。……敵意を持った、同業者がな」
俺はタオルを投げ捨て、立ち上がった。
以前なら恐怖で足がすくんでいただろう。
だが今は違う。
全身に力が漲っている。腹の底から、熱い闘争心が湧き上がってくる。
「来たか」
「うむ。おぬしの筋肉と、わらわの『動画配信』の成果……試す時が来たようじゃ」
スヒジニが不敵に笑う。
俺たちは頷き合い、屋敷の外へと飛び出した。
『天土返し』の前哨戦は、もう始まっている。
今の俺たちなら、神だろうが悪魔だろうが、ぶん殴って、さらに動画のネタにしてやれる気がした。
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泥濘の女神は、錆びついた僕を離さない みやび @miyabiyaka0803
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