第9話 夜の神事

 香取神宮からの帰り道、俺たちは地元のスーパーに立ち寄った後、人里離れた山道を歩いていた。

 つい先刻まで、神々の領域で筋肉隆々の武神や殺気立った巫女と対峙していたのが嘘のように、今は静かな夜の田舎道を歩いている。

 俺の両手には、ずっしりと重い買い物袋が二つ。中身はネギや白菜、豚肉といった夕飯の食材だ。

 そして隣を歩く女神様の手には、銀色の缶が六つ束ねられたパックがぶら下がっている。


「……のうダイトよ。この『びーる』とやらは、本当に美味いのか? 麦の酒とは聞いたが、このような金属の筒に入っているとは珍妙な」


 スヒジニが缶パックを珍しそうに振ってみる。

 スーパーで酒コーナーを通った際、俺が「現代の代表的な酒だ」と教えると、彼女は興味津々でカゴに入れたのだ。


「美味いよ。冷えてると特にね。苦味があるけど、喉越しが良くてスカッとするんだ」

「ほう、スカッとするのか。ふふ、楽しみじゃのう」


 スヒジニは上機嫌で、暗い夜道をスキップせんばかりの足取りで進む。

 街灯などほとんどない山道だが、月明かりが彼女の白いワンピースを青白く照らし出している。虫の音だけが響く静寂の中、俺たちは曽祖母が残した古い屋敷へと帰り着いた。

 鬱蒼とした木々に囲まれた日本家屋は、夜に見ると少し不気味だが、今は隣に本物の神様がいるせいか、不思議と頼もしく思えた。


「さあ、ダイト。腹が減ったであろう? 今宵はわらわが腕を振るってやろう」

「ああ、頼むよ。スヒジニの飯は美味いからな」


 俺は素直に頷いた。

 この数日で分かったことだが、彼女は料理に関しては天才的だった。供物の味を覚えているというだけあって、味付けのセンスが抜群なのだ。


 俺が着替えを済ませて居間で待っていると、台所からリズミカルな包丁の音が聞こえてきた。

 トントントン、という小気味よい音と共に、やけに上機嫌な鼻歌が響く。その旋律は、どこか聞いたことのない古風な音階を含んでいた。


 だが、漂ってくる匂いは……なんというか、強烈だった。

 まず、鼻を突くような鋭いニンニクの香り。続いて、ニラの青臭さと、唐辛子の刺激臭。さらに、何やら独特の薬膳のような、土と樹皮を混ぜたような深みのあるスパイスの香りが混ざり合う。

 それは単に「美味しそう」というレベルを超えていた。食欲をそそると同時に、生物としての本能が「これを食べたら何かが漲ってしまう」と警鐘を鳴らすような、危険な魅力を孕んだ匂いだった。


 ジュワァァァッ!!


 激しい炒め音と共に、香りの暴力が居間を支配する。俺は思わず唾を飲み込んだ。


「待たせたのう、ダイト。特製精力鍋じゃ」


 どすん、とちゃぶ台に置かれた土鍋からは、もうもうと白湯が立ち上っていた。

 蓋を開けた瞬間、熱気と共に濃厚な香りが爆発する。

 グツグツと地獄の釜のように煮えたぎる赤黒い味噌スープ。その中で踊るのは、大量の具材たちだ。

 ぶつ切りのうなぎ、すりおろした山芋、丸ごとのニンニクがゴロゴロと転がり、さらには彼女が「精がつく」と言って山道で拾ってきた木の実や、スーパーで買わせた得体の知れない漢方食材が散りばめられている。


「……すごいな、これ。精力剤の展示会みたいだ」


 俺は引きつった笑みを浮かべた。これ一杯で、一週間分のカロリーと活力を摂取できそうだ。


「何を言う。これから闘争に身を投じるのじゃ、精をつけねば話にならんじゃろう? ほれ、まずはこれじゃ」


 スヒジニはプシュッと小気味よい音を立てて缶ビールを開け、俺に渡してきた。自分用も開け、まじまじと飲み口を見つめる。


「ほう……泡が立っておる。生きているのか?」

「炭酸ガスだよ。さあ、乾杯しよう」

「うむ、乾杯じゃ」


 カチンと缶を合わせ、彼女はそれを豪快に煽った。

 喉を鳴らして黄金色の液体を飲み干し、「ぷはーっ!」と息を吐く。


「……! なるほど、これは面白い。舌を刺すような刺激と、爽やかな苦味。清流の水よりも喉を潤すわ」

「気に入ってくれたみたいでよかったよ」


 スヒジニは口元に泡をつけたままニヤリと笑い、鍋をつつき始めた。

 俺も熱々のスープを吸ったうなぎとニンニクを、恐る恐る口に運ぶ。


「……ッ!?」


 美味い。

 見た目の凶悪さに反して、味は絶品だった。

 濃厚な味噌ベースのスープに、素材の旨味が複雑に溶け込んでいる。ニンニクのパンチが効いているが、薬膳の風味がそれを上品にまとめ上げ、後を引く旨さを生み出している。

 飲み込んだ瞬間、食道から胃袋にかけて、カッと熱い塊が落ちていくのを感じた。


 しばらくの間、俺たちは無言で鍋をつついた。

 ハフハフと熱い具材を頬張り、冷たいビールで流し込む。

 食べているうちに、身体の芯から熱が湧き上がってくるのが分かった。顔が火照り、指先まで血液が循環していく。単なる食事による体温上昇ではない。何かもっと根本的なエネルギーが、細胞の一つ一つにチャージされていくような感覚だ。


 腹が満たされ、心地よい満腹感が訪れると、先ほどの香取神宮での話が頭をもたげてきた。

 フツヌシの言葉が蘇る。

 『天土返し』。

 神々の格付けバトルロイヤル。


 俺は箸を置き、真剣な眼差しでスヒジニを見た。


「……なあ、スヒジニ」

「なんじゃ? まだ肉ならあるぞ」

「いや、飯のことじゃなくてさ。……さっきフツヌシたちの前では『余裕だ』みたいなこと言ってたけど、実際のとこ、どうなんだ? 勝算はあるのか?」


 俺の問いかけに、スヒジニは箸を止めた。

 楽しげだった空気が、ふっと変わる。

 彼女は飲みかけのビール缶をちゃぶ台に置き、少しだけ真面目な顔つきになって、深いため息をついた。


「……よいか、ダイト。ごまかしても仕方あるまい。正直に言おう」


 彼女はまっすぐに俺の目を見て、きっぱりと言い放った。


「――現状のままでは、勝ち目など万に一つもない」


「ぶっ!?」


 俺は思わず、飲みかけたビールを吹き出しそうになった。

 慌てて口元を拭い、彼女を見る。


「え、嘘だろ? だって昨日、凛花に圧勝したじゃないか。フツヌシの前でも強気だったし……あれは嘘だったのか?」

「嘘ではない。だが、あれはハッタリじゃよ。相手の動揺を誘い、場を支配するためのな」


 スヒジニはとろとろに煮えたニンニクを箸で摘み上げ、それをじっと見つめながら冷静に解説を始めた。


「昨日の勝利は、いくつもの偶然が重なった結果に過ぎぬ。第一に、あの小娘がわらわの正体を知らず、油断していたこと。第二に、あの小娘がまだ未熟で、予想外の憑依に動揺し、思考を停止させたこと。……これらが上手くかみ合った結果、あの一瞬だけ我らが上回ったのじゃ」


「まあ、確かに驚いてはいたけど……」


「もしもじゃ。あの場でフツヌシの本体まで出てきて、本気でわらわたちを殺そうとしていたら……我らは今頃、土塊(つちくれ)に戻っておったじゃろうな。今のわらわの出力では、あの筋肉ダルマの足元にも及ばん」


 さらりと恐ろしいことを言う。

 俺は背筋が寒くなるのを感じた。あの豪快な神様が、もし敵に回っていたら。想像するだけで冷や汗が出る。


 スヒジニは自分の空っぽになった茶碗を指差して言った。


「よいかダイト。神の強さとは、すなわち神という『器』に注がれる神気の総量じゃ。器がどれほど立派でも、中身の水が枯れていては乾きを癒やせぬ。そしてその神気を集める方法は、前に話したの」

「えっと……信仰を集めるのが王道だったっけ?」

「うむ。人の祈り、畏怖、感謝。それらが神の糧となる」


 彼女は遠くを見るような目をした。


「フツヌシを見よ。香取神宮という広大な土地を持ち、全国に何百という分社を持ち、年間何万人もの参拝客が訪れる。奴には常に莫大な神気が供給されておる。いわば、決して枯れることのない大河じゃ。何もしなくても、悠々と流れ続ける」


 なるほど、分かりやすい。

 知名度と集客力こそが神様のパワーソースであり、大河の水量なのだ。


「対して、わらわはどうじゃ? 古いだけの無名神。社はボロボロ、参拝客はゼロ。信者といえば、無理やり巻き込んだおぬし一人。……これでは、いくらわらわが原初の神といえども、日照りの水たまりじゃ。すぐに干上がってしまう」


「……ぐうの音も出ないな」


 改めて突きつけられる現実に、俺は頭を抱えた。

 大河と水たまり。その差は歴然としている。


「しかも『天土返し』に参加する神々は、皆やる気満々じゃ。格を上げたい野心家や、今の地位を守りたい古株たちが、牙を研いで襲ってくる。……大嵐の中で木の葉が舞うようなもの。まともにやり合えば、すり潰されるのは目に見えておる」


 古風な屋敷の居間、その空気が重くなる。

 ちゃぶ台の上の鍋からは、まだ湯気が立っているが、食欲はすっかり失せてしまった。

 死ぬのか? 俺は。

 ただの大学生だったはずが、わけのわからない神様バトルに巻き込まれ、消滅する?


「じゃあ、どうすればいいんだよ」


 俺は身を乗り出した。

 恐怖もあったが、それ以上に、このまま座して死を待つのは御免だという思いがあった。

 それに、スヒジニのことだ。絶望的な状況を語るだけ語って「終わり」なんてことはないはずだ。何か策があるからこそ、こうして落ち着いて飯を食っているのだろう。


「解決策は?」


 俺の問いに、スヒジニはニヤリと唇を吊り上げた。


「ふふ、焦るな若造。わらわとて、無策で喧嘩を買ったわけではない」


 スヒジニは艶然と微笑み、カセットコンロの火を止めた。

 ボッ、という音と共に青い炎が消え、部屋の中に静寂が戻る。

 虫の音だけが、外から微かに響く。


 彼女はゆっくりと立ち上がり、ちゃぶ台を回って俺の隣に座り込んだ。

 近い。

 酒の甘い匂いと、風呂上がりの石鹸の香り。そして彼女自身が持つ、甘く濃厚な香りが混じり合い、鼻腔をくすぐる。

 俺の心臓が、トクリと大きく跳ねた。


「解決策は二つある。一つは、地道に信者を増やすことじゃが……」

「今ならインターネットで動画配信とか、SNSってやつを使えば宣伝できるかもしれない。美人な神様がいるって話題になれば……」


 俺が提案すると、スヒジニは首を横に振った。


「人の噂は風のようなもの。広まるには時がかかる。明日、敵が来たらどうする? 間に合わぬよ」

「う……確かに、そうか」

「なればこそ、もう一つの手段が必要となる」


 スヒジニの手が、俺の太ももに置かれた。

 華奢な指先が、ゆっくりと這うように動く。

 ジーンズ越しでも分かる体温。その指の動きは、明らかに何かを誘っている。


「な、なんだよ、もう一つの手段って」


 俺の声が、知らず知らずのうちに上ずった。

 彼女の意図に、薄々気づいてしまったからだ。

 いや、気づいていながら、認めるのが怖くて問い返してしまう。


「簡単なことじゃ。昨日話したじゃろ。神気を得る方法は三つあると。そのうちのひとつなら、今すぐにできるからの」


 スヒジニの黄金色の瞳が、妖しく輝く。

 それは捕食者の目であり、同時に慈愛に満ちた聖母の目でもあった。


「神と依り代。その魂と肉体を、より深く、より濃密に混ぜ合わせる。それにより、外部からの供給に頼らずとも、尽きぬ泉のように神気を生み出すのじゃ」

「それって、つまり……」

「『和合(わごう)』じゃよ、ダイト」


 彼女は甘く囁き、俺の耳元に唇を寄せた。

 熱い吐息が耳にかかり、背筋にゾクゾクとした震えが走る。


「それに、昨夜の憑依は仮初めの接触に過ぎぬ。あれだけでもそこそこの力は出たが……あんな乱暴なやり方では、おぬしの身体が壊れてしまう」

「う……」


 確かに、昨夜の戦闘後、身体中が軋むように痛かった。あれを毎回やられたら、俺の身が持たない。


「だからこそ、慣れるためにも儀式が必要なのじゃ。互いに深く交わり、熱を分け合い、魂の形が溶け合うほどに愛し合う。そうすれば、おぬしはわらわの一部となり、わらわはおぬしの力となる。大河がなくとも、強き流れを作ることができるのじゃ」


 理屈は分かる。

 非常に合理的だ。生き残るための手段として、これほど効率的な方法はないだろう。

 分かるが……あまりにも展開が急すぎる。


「ちょ、ちょっと待ってくれ。心の準備というか……俺たち、まだ出会って数日だぞ? そういうのは、もっと段階を踏んでから……」


 俺はジリジリと後ずさりしようとした。

 だが、逃げ場はない。背中はすでに壁だ。


「段階? そんな悠長なことを言っている間に、次の刺客が来たらどうする? おぬし、死にたいのか?」

「それは……嫌だけど」

「ならば覚悟を決めよ。それに……」


 スヒジニの手が、俺の胸元を掴む。

 強い力だった。

 逃がさないという意思表示。そして、俺を引き寄せる引力。


「おぬし、嫌いではなかろう? わらわのことが」


 至近距離で見つめられる、女神の美貌。

 長い睫毛、潤んだ瞳、桜色の唇。

 スタミナ鍋のせいか、それとも彼女の放つ神気のせいか、俺の身体はカッカと火照り、心臓が早鐘を打っていた。

 嫌いなわけがない。

 こんな理不尽で、ワガママで、でもどこか寂しげで魅力的な彼女を、放っておけるはずがない。出会ったときから、俺は彼女に惹かれていたのだ。


「……嫌いじゃ、ないけどさ」

「ならば問題ない」


 トン、と肩を押された。

 抵抗できなかった。いや、しなかったのかもしれない。

 俺の身体は簡単に畳の上へと倒れ込み、その上にスヒジニが覆いかぶさる。

 いわゆる、押し倒された体勢。


 見上げれば、古い屋敷の天井板を背にした彼女の顔が、逆光で神々しく陰っていた。


「ス、スヒジニ……!」

「観念せよ、我が愛し子」


 彼女は俺の両手首を片手で押さえつけると、もう片方の手で俺の頬を優しく撫でた。

 冷たい指先が、火照った俺の肌に心地よい。

 その表情は、慈愛に満ちた女神のようでもあり、獲物を追い詰めた肉食獣のようでもあった。


「これは生存戦略じゃ。我らが生き残り、勝つための神聖な儀式じゃ。……だが、安心せい。悪いようにはせぬ」


 彼女の顔が近づいてくる。

 吐息がかかる距離。

 俺の心臓の音が、静かな屋敷の中に響いているんじゃないかと思うほど五月蝿い。


「わらわが手取り足取り、教えてやる。神との交わりが、いかに甘美で、底知れぬものかをな……」


「んっ……」


 唇が重なった。

 ビールの苦味と、彼女自身の抗いがたい芳香。

 思考が白く染まっていく。

 もう、逃げられない。

 いや、俺自身、心のどこかでこれを望んでいたのかもしれない。

 彼女を受け入れること。それが俺の運命であり、この奇妙な共同生活の終着点なのだと、本能が理解していた。


 スヒジニの指が、俺のシャツのボタンに掛かる。

 部屋の明かりを消す余裕すらないまま、畳の上で俺たちの影は一つに重なっていった。


 夜は、まだ始まったばかりだ。

 神と人の、契約という名の宴が、静かに幕を開けた。


(……お手柔らかに頼みます、女神様)


 薄れゆく意識の中で、俺はそんな祈りを捧げていた。

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