第3話 荒神来襲

 その時、本殿を包んでいた静寂は、硝子(ガラス)細工のように粉々に砕け散った。


 ズズッ、ズズズッ……。

 重いものを引きずる音が、すぐそこまで迫っていた。

 獣の荒い息遣い。そして、鉄と油が腐ったような、鼻の奥をツンと刺す異臭。


「く、来るぞ……!」


 物部大杜が叫ぶのと、本殿の扉が破壊されるのは同時だった。

 轟音。

 乾いた木材が悲鳴を上げ、蝶番(ちょうつがい)が弾け飛ぶ。

 夕暮れの茜色が差し込む入り口に、その異形はぬらりと姿を現した。


「グルルルルァァ……!!」


 空気が凍りつく。

 それは、四足歩行の獣のシルエットをしていた。

 だが、その体を構成しているのは、生物としての肉や骨ではない。

 錆びついたトタン板。

 ひしゃげた自転車のフレーム。

 腐って中綿が飛び出した古畳。

 そして、赤黒い血のような錆汁を垂れ流す、無数の有刺鉄線。


 山に不法投棄された「人間のゴミ」が、獣の形に凝縮され、憎悪の炎を宿して動いている。

 高さは三メートル近い。見上げるような鉄屑の巨体が、本殿の入り口を完全に塞いでいた。


「な、なんだよこれ……! 怪獣かよ!?」


 大杜は腰を抜かしそうになるのを必死で堪えた。

 現代日本の、しかも千葉の山奥で遭遇していい存在ではない。特撮映画のセットが現実(リアル)に侵食してきたような、生理的な拒絶感を覚える造形だ。


 だが、隣に立つ女神は違った。

 スヒジニは、薄絹の裾を優雅に整えながら、まるで美術館で奇妙なオブジェを品定めするかのように、その黄金の瞳を細めたのだ。


「ほう。これはまた……随分と悪趣味なパッチワークじゃな」

「か、感心してる場合か! なんなんだよあいつは!」

「見えぬか? 『荒神(アラガミ)』じゃよ」


 スヒジニは、こともなげに言った。

 彼女は怯える様子など微塵も見せず、むしろ教鞭を振るう教師のように、人差し指を立てて解説を始めた。


「よいかダイト、よく聞け。日本(ひのもと)には八百万の神がおるが、すべてが清浄なわけではない。土地神の中には、人から忘れられ、祀られなくなり、零落(おちぶ)れた者もおる」

「零落れた……神様だって言うのか? あれが?」

「左様。本来なら自然に還るはずの魂が、現代の毒――すなわち、おぬしら人間が山に捨てた『廃棄物の穢れ』を取り込み、無理やり受肉してしまった成れの果てじゃ」


 スヒジニは、憐れむように、そしてどこか冷徹に怪物を指差した。


「見よ、あの前足。農機具の回転刃が癒着しておる。あれは持ち主に捨てられた道具の怨念――付喪神(つくもがみ)の類じゃな。そして胴体は、猪か鹿の死骸を核にしておる。……捨てられたモノと、行き場のない獣の霊が混ざり合い、ただ『神気を喰らいたい』という食欲だけで動く亡者。それが荒神じゃ」


 女神の説明は、あまりに理路整然としていた。

 目の前の怪物が、ただのバケモノではなく、この寂れた村の歴史が生み出した必然であることを突きつけてくる。


「グルァッ……!!」


 荒神が咆哮した。

 足元の床板を爪で削り、今にも飛びかからんと身を低くする。

 怪物の頭部――そこには、顔の代わりに一枚の巨大な「カーブミラー」が埋め込まれていた。

 蜘蛛の巣状に割れた鏡面が、ギョロリと動き、大杜とスヒジニを映し出す。


「うわっ、こっち見たぞ!」

「ふふ、目が合うたな。あの鏡こそが奴の『眼』であり、急所じゃ」


 スヒジニは鏡を見据え、ふん、と鼻を鳴らした。


「なぜ顔がないか分かるか、ダイト」

「わ、わかるわけないだろ!」

「奴には『個』がないからじゃ。己が何者でもない空っぽの存在ゆえに、他者を映す鏡でしか世界を認識できん。……哀れなことよ。己の醜い姿すら見えぬとはな」


 彼女の口調は、徹底して上から目線だった。

 恐怖などない。あるのは、原初の母神としての圧倒的な自負と、不出来な子供を見るような侮蔑だけ。


 スヒジニは、大杜を背に守るようにして、一歩前へと踏み出した。

 薄い白絹がふわりと揺れる。

 その背中は華奢で、今にも折れそうに見えるのに、不思議と巨大な山脈のような威圧感を放っていた。


「下がっておれ、我が愛しき下僕。食後の運動には丁度よい」


 彼女は振り返りもしない。

 ただ、右手を高く掲げ、優雅な手つきで荒神を招いた。


「我が名は須比智邇。泥より出でて、泥へ還す者。……おい鉄屑、分際をわきまえよ。貴様ごときが踏み入ってよい御前ではないわ!」


 凛とした声が響き渡る。

 荒神がビクリと動きを止めた。腐っても神の端くれ、スヒジニから放たれる「格」の違いを本能で感じ取ったのだろう。

 好機。

 相手が怯んだその隙に、スヒジニは決着をつけるべく、高らかに指を鳴らした。


「――崩れよ」


 それは、絶対命令だった。

 彼女の脳裏には、明確なイメージがあったはずだ。

 指先から溢れ出す神代の泥が、荒神を飲み込み、その構成物質を瞬時に腐食させ、ただの土へと分解する光景。

 鉄は赤錆に。

 ゴムは粉塵に。

 怨念は浄化され、大地へ還る。

 それが彼女の権能、『原初の混沌』。


 ……しかし。

 ポスッ。


 間の抜けた音が、本殿に響いた。

 スヒジニの指先から出たのは、世界を飲み込む濁流ではなかった。ほんのひと握り。子供が砂場で遊ぶような、乾いた泥の塊が、ポロリと床に落ちただけだった。


「…………え?」


 スヒジニの動きが止まる。

 大杜も、口を開けたまま固まる。

 時が止まったような一瞬の静寂。

 床に転がった小さな泥団子が、コロコロと転がり、荒神の足元で止まった。


「な、なぜじゃ? なぜ泥が出ん? イメージは完璧じゃったのに……」


 彼女の顔から、先ほどまでの余裕が急速に剥がれ落ちていく。

 代わりに張り付いたのは、脂汗と焦燥。


「ま、まさか……信仰が足らぬ、か……?」


 呟きは、絶望的な事実確認だった。

 彼女は神だ。だが、今の彼女は「忘れ去られた神」に過ぎない。

 現代日本において、須比智邇の名を知る者が何人いる? 彼女を崇める社がどこにある?

 ゼロだ。いや、神代七代を祀る神社はないわけではないが……それでもあまりにマイナーすぎる。

 彼女の神性を支える信仰心は、数千年の間に完全に枯渇していたのだ。たかがおにぎり一個を食べたくらいで補えるものではない。


「グォオオオオオッ!!」


 荒神は待ってくれなかった。

 目の前の女が、張り子の虎であることを見抜いたのだ。

 カーブミラーの瞳が残忍に歪み、錆びついた回転刃の爪が振り上げられる。


「ひっ……!?」


 スヒジニが小さく悲鳴を上げた。

 先ほどまでの威厳はどこへやら。彼女はとっさに両手で頭を庇い、ガタガタと震えだした。


「巫女! 巫女はおらぬのか!?」

「はあ!? 今そんなこと言ってる場合か!」


 こんな寂れた神社に巫女などいるわけがない。というか神職すらいない。

 そもそも巫女なんていて、この化け物に対して何の役に立つというのか。


「巫女がおれば、わらわももっと力を振るえるのじゃ! 人を通すことで世界に力が馴染むのじゃ!! わらわだけではどうにかできる力が残っていないのじゃぁ!!」


 スヒジニが涙目で叫ぶ。

 なるほど、理屈はわかった。だが、今この場にそんな都合のいい人材がいるはずも――。


「――人なら、いるだろ」


 大杜は覚悟を決めた。

 逃げる場所はない。戦う手段もない。ならば、使えるものは自分の体しかない。

 彼は震えるスヒジニの肩を掴み、強引に自分の方へ向かせた。


「え、ダイト……?」

「俺を使え! 物部の血筋なんだろ? だったら多少の無理くらいどうにかなるはずだ!!」


 スヒジニの瞳が見開かれる。

 彼女は一瞬呆気にとられ、すぐに破れかぶれのような表情で叫び返した。


「知らぬぞ! 男の体など、神代以来入ったことがないわ! 壊れても文句を言うなよ!」


 荒神の爪が迫る寸前。

 スヒジニの体がドロリと液状化し、大杜の胸へと飛び込んだ。


 ドクンッ!!


 衝撃。

 心臓を素手で鷲掴みにされたような不快感。

 熱い泥が血管を無理やりこじ開けて流れてくる感覚に、大杜は歯を食いしばった。


(ぐ、ぅぅぅ……! なんだこれ、体が……重いッ!)


 視界が黄金色に染まる。

 体は鉛のように重く、視界にはノイズが走る。


『くっ、狭い! 硬い! なんじゃこの体は!』


 脳内でスヒジニの文句が響く。


『気の通り道も碌にない!! これでは「腐食」の術など組めぬぞ! ただ神気を垂れ流すだけじゃ!』

「文句言ってんじゃねえ! 術が使えないなら……」


 大杜は、荒神の振り下ろされた爪を、咄嗟に「左腕」で受け止めた。

 ガギィン!

 肉が裂ける音ではない。硬質な音が響いた。

 大杜の左腕は、内側から溢れ出した黒い泥によってコーティングされ、鋼鉄よりも硬い手甲のようになっていた。


「これならどうだッ!」


 大杜は踏み込んだ。

 術理もへったくれもない。ただ、神の泥で固めた拳を、全力で叩き込む。

 狙うは一点。スヒジニが言っていた「急所」。


『バカ者! そのまま殴る気か!? 野蛮な!』

「うるせえ! 黙って力だけ寄越せ!」


 大杜の右拳に、全身の泥が集中する。

 血管が悲鳴を上げ、筋肉が断裂寸前まで膨張する。

 目の前には、自分の醜悪な姿を映すカーブミラー。


「砕けろぉぉぉぉッ!!」


 ドゴォォォォン!!


 インパクトの瞬間、爆発的な衝撃波が生まれた。

 大杜の拳は、荒神の「顔」である鏡を粉砕し、そのまま後頭部まで突き抜けた。


「ガ、ギ……ッ!?」


 荒神の動きが止まる。

 腐食も分解も起きていない。

 ただ単純に、神の質量による物理攻撃で、核を粉々に破壊されたのだ。


 ズズズ……と、巨大な鉄屑の塊がバランスを崩す。

 荒神は断末魔を上げることもなく、バラバラと崩壊し、元の粗大ゴミの山へと戻っていった。


「はぁ……はぁ……はぁ……」


 大杜はその場に膝をついた。

 右手の感覚がない。泥のコーティングが解けると、拳は赤く腫れ上がり、皮がむけて血が滲んでいた。

 ズルリ、と胸からスヒジニが抜け出し、尻餅をつく。


「……信じられん」


 彼女は呆然と、崩れ落ちたゴミの山と、大杜の拳を交互に見つめた。


「神の力を、あのような野蛮な暴力に使うとは……。おぬし、頭がおかしいのではないか?」

「……勝てばいいんだよ、勝てば」


 大杜は痛む手をさすりながら、力なく笑った。

 スマートな戦い? 知ったことか。

 泥まみれの神様と、貧乏学生の契約。

 その前途が、決して綺麗なものではないことを予感させる、手痛い勝利だった。

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