第2話 女神様は奔放で美しい
時が止まったような本殿の中で、物部大杜は己の網膜を焼き尽くさんばかりの光景に、物理的にフリーズしていた。
目の前に立つのは、泥から生まれた女神。
陶磁器のように滑らかな肌。腰まで届く濡羽色の髪。
そして、生まれたままの姿。
比喩ではなく、文字通り一糸まとわぬ全裸の美女が、大杜を見下ろしているのだ。
「う、わ……っ!」
大杜は弾かれたように背を向け、両手で顔を覆った。
リアリストを自称する彼だが、こればかりは現実的な処理能力を超えている。
「な、ななな何してんだあんた! 服! とりあえず何か着ろ!」
「服?」
背後で、鈴を転がすような声が不思議そうに響く。
衣擦れの音すらない。代わりに、ぺたり、ぺたりと、素足が床板を踏む音が近づいてくる。
「おい人間。なぜ己の視界を閉ざす? 我が姿、醜いとでも言うのか?」
「逆だバカヤロウ! 刺激が強すぎるんだよ!」
「ほう?」
耳元で吐息を感じた。
大杜が硬直すると、女神は彼の背後から回り込み、顔を覆う大杜の手首を強引に掴んで引き剥がした。
「見よ」
至近距離。
黄金の瞳が、面白がるように細められている。
隠すべき場所を隠そうともせず、彼女は堂々と胸を張り、ふわりと微笑んだ。
「恥じることなど何もない。我は須比智邇(スヒジニ)。泥より出でて、万物を生み出す根源の神じゃ。母の裸を見て目を逸らす子がどこにおる?」
その態度は傲慢でありながら、奇妙なほど温かかった。
恥じらいがないのではない。「羞恥」という概念が生まれる以前の、圧倒的な無垢と神性。
彼女は慈しむように、大杜の頬に白魚のような指を這わせた。
「それに、おぬしは我を目覚めさせた恩人じゃろう? ならば特等席で拝観する権利をやる。……存分に見惚れるがよい、我が愛しき下僕よ」
ニヤリと笑う顔は、絶世の美女でありながら、どこか悪戯っ子のようでもあった。
大杜は顔を真っ赤にして視線を天井に逃がす。
「……権利放棄でお願いします。頼むから、何か着てくれ。心臓が持たない」
「ふむ。初心な奴じゃの。それもまた愛いものじゃ」
女神は肩をすくめると、大杜の顔を覗き込むようにして首を傾げた。
「そういえば、まだ名を聞いておらなんだな。我が封印を解いた、その手の主。……おぬし、何という?」 「……大杜だ。物部、大杜」
観念して名乗ると、スヒジニの黄金の瞳が、興味深そうに揺らめいた。
「モノノベ……ほう、物部か! 懐かしい響きじゃ」
「知ってるのか?」
「知るも何も、かつて大和の地で『古き神』を護ろうと剣を振るった一族ではないか。仏の教えに敗れ、歴史の影に消えたと思ったが……まだ血は続いておったか」
スヒジニは嬉しそうに目を細め、大杜の胸板に手を置いた。
「よい名じゃ。おぬしの魂からは、泥臭くも芯の通った、古き良き鉄の匂いがする。……気に入ったぞ、ダイト。我はおぬしを一生愛でてやろう。光栄に思うがよい」
「一生って……重すぎるだろ」
「神の愛ぞ? 重くて当然じゃ」
彼女はけらけらと笑うと、畳の上にぺたりと腰を下ろした。あぐらをかくような姿勢すら、彼女がすると神事のように見えるから不思議だ。
「まあよい、契約の話は後じゃ。それより供物じゃ。腹が減っては権能も振るえん。ここには何もないのか?」
供物。その言葉に、大杜の背筋が凍りついた。
神話における供物といえば、相場は決まっている。
「……く、供物って。まさか、生贄のことか?」
大杜は恐る恐る尋ねた。
神社の掃除中に死ぬのは御免だ。ましてや、復活した女神の最初の食事になるなんて悪夢でしかない。
「若い女とか、子供の魂とか……そういうのが必要なのか?」
瞬間、スヒジニの眉がピクリと跳ねた。
「――無礼者」
低い声と共に、目に見えない圧力が大杜を打ち据えた。
黄金の瞳が、侮蔑の色を帯びて細められる。
「我を何だと思っておる? 荒神ごとき獣と一緒にするでないわ。人を喰らうなど、野蛮で下品で、泥臭い真似ができるか」
「あ、違うのか?」
「当たり前じゃ! 我が所望するのは『文明』じゃ。人が泥から離れ、知恵と時間をかけて作り出した結晶……すなわち、酒と穀物じゃ!」
スヒジニはぷいと顔を背けた。どうやら本気で機嫌を損ねたらしい。
大杜は安堵の息を吐くと同時に、リュックサックの中身を思い出した。
「穀物……米なら、あるぞ」
大杜はリュックから、ラップに包まれた塊を取り出した。
今日の昼食にと、自宅で握ってきた巨大な塩むすびだ。具はない。金欠学生の主食である。
「……なんじゃ、その無骨な塊は」
「おにぎりだ。握り飯。俺が握ったやつだけど、食えるか?」
スヒジニは訝しげに鼻を鳴らし、大杜の手からおにぎりを受け取った。
そして、警戒するように小さな一口を齧る。
サクッ。
表面の米と、結晶化した塩が弾ける音がした。
「……ん?」
スヒジニの動きが止まる。
咀嚼するたびに、彼女の白い肌が上気し、黄金の瞳が見る見るうちに見開かれていった。
「……美味(うま)い」
「え?」
「美味いぞ、これ! なんたる甘露、なんたる調和じゃ!」
彼女は行儀悪く足をバタつかせ、二口、三口と猛烈な勢いで頬張り始めた。
「米の甘みもさることながら……この『塩』じゃ! ただの海の水ではないな?」
「そりゃあ、精製塩だからな。海水汲んできただけじゃ苦くて食えないだろ」
「左様! そこなのじゃ!」
スヒジニは口元に米粒をつけたまま、熱弁を振るった。
「海という混沌から水を汲み、釜で煮詰め、不純物を取り除き、時間をかけて純白の結晶のみを取り出す……。その手間! その執念! それこそが人が積み上げた文明の味よ!」
彼女は大杜の手を取り、その掌に頬ずりをした。
さっきまでの傲慢さが嘘のように、陶酔しきった表情だ。
「この塩辛さには、人の叡智が詰まっておる。……よいぞダイト。おぬしの手は、泥をこねるだけでなく、命を『精製』する才能があるようじゃ」
「……たかが塩むすびで大袈裟だな」
大杜は苦笑したが、悪い気はしなかった。
彼女が夢中で食べている隙に、大杜は本殿の隅に積み上げられていた古い桐箱の一つを開けた。
中に入っていたのは、薄い白絹の布だ。おそらく神事で使う「千早(ちはや)」か、あるいは舞を奉納する際の羽衣のようなものだろう。かなり古いが、保存状態は悪くない。
「とりあえず、これを着てくれ。食べてる最中に悪いが、目のやり場に困る」
大杜は背後から、スヒジニの肩にその布をかけた。
スヒジニは抵抗せず、むしろ着せられるがままになる。
「ふむ? 悪くない手触りじゃ。絹か」
彼女は立ち上がると、その布を体に巻き付けた。
だが、それが決定的な間違いだった。
本来は着物の上から羽織るべき、極薄の白絹だ。それを素肌に一枚、無造作に纏っただけの姿は、逆に扇情的すぎた。
「どうじゃダイト? これなら文句あるまい」
彼女がくるりと回ってみせる。
薄氷のような絹は、彼女の肢体を隠すどころか、その輪郭を克明に浮き彫りにしていた。
光の加減で、バストトップやへその窪みが透けて見える。
布の隙間からは、白磁のような太腿や、滑らかな背中が大胆に露出しており、動くたびに絹が肌に吸い付く様は、全裸の時よりも遥かに「背徳的」だった。
「……余計にエロくなった気がするんだが」
「なんじゃ、不服か? 神代の巫女など、みな似たような格好をしておったぞ」
スヒジニは悪びれもせず、胸元の布を直した。
その姿は、神聖でありながら、人を狂わせる魔性の女(ファム・ファタール)そのものだ。目の毒などというレベルではない。直視し続ければ、何かが壊れてしまいそうな危うさがある。
「まあよい。腹も満ちた。さて、次は何を……」
スヒジニが言いかけた、その時だった。
ピタリ、と彼女の手が止まる。
「……ダイト」
先ほどまでの甘い声音が消えた。
彼女の黄金の瞳が、スッと細められ、閉ざされた本殿の扉――夕暮れの境内の方角へと向けられる。
「客人が来たようじゃぞ」
「客? こんな時間に?」
「ああ。ただし、賽銭を入れに来たわけではなさそうじゃがな」
本殿の空気が変わった。
ひんやりとした静寂が、ねっとりとした殺意に塗り替えられる。
扉の隙間から、生臭い獣の臭いと、何か重いものを引きずるような音が漏れ聞こえてくる。
ズズッ、ズズズッ……。
「下がっておれ、我が愛しき下僕」
スヒジニが大杜の前に立つ。
透ける薄絹を纏った背中は、か細い少女のものではなく、世界を統べる女神の威厳に満ちていた。
「せっかくの食後の余韻じゃ。無粋な真似をする輩には――泥の底がお似合いじゃろう?」
彼女の白い足元から、じわりと黒い影が広がり始めた。
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