泥濘の女神は、錆びついた僕を離さない

みやび

第1話 泥濘の中から愛をこめて

 世界が溶け出しそうなほど、暑い日だった。


 八月の蝉時雨は、もはや風情などという生易しいものではない。それは鼓膜を直接震わせ、思考能力を削ぎ落とす音の暴力だ。

 逃げ場のない湿気を含んだ熱気が、山間の盆地に澱(よど)んでいる。陽炎が揺らぐアスファルトの参道を、一匹の痩せた野良猫がけだるげに横切っていった。


 千葉県の山奥、地図アプリですら拡大しなければ表示されないような場所に、その「物部神社」は鎮座している。

 苔むした石段。傾きかけた鳥居。そして、人の気配が絶えて久しい、静寂に包まれた社務所。

 かつては村の守り神として多少の賑わいを見せた時代もあったらしいが、過疎化と少子化、そして何より「ご利益が何だかわからない」という致命的な欠陥によって、信仰は緩やかに、しかし確実に死に絶えていた。


 そんな神域の静寂を破る音が、境内の一角にある土蔵から響いている。


「……クソ。なんだってこんなに埃だらけなんだよ」


 物部大杜は、防塵マスク越しに悪態をついた。

 長袖のTシャツに作業ズボン、首にはタオル。手にはホームセンターで買ってきた安物の軍手。二十一歳の大学生が夏休みに過ごすスタイルとしては、あまりに地味で、そして絶望的だった。


 大杜が手に持った箒で床を掃くたびに、数十年分の埃が舞い上がり、西日を受けてキラキラと輝く。それは幻想的というよりは、呼吸器系の健康被害を連想させる光景だった。


「ばあちゃんも、とんでもない『負動産』を遺してくれたもんだな……」


 独り言は、湿っぽい蔵の空気に吸い込まれて消える。

 先月、曾祖母が百三歳の大往生を遂げた。親族のほとんどが既に他界しているか、あるいはこの土地を見限って遠方へ移住しており、回り回って神社の相続権は大杜に転がり込んできたのだ。


 大杜はその血筋に、誇りなど微塵も感じていなかった。あるのは、ただ重苦しい現実だけだ。


「固定資産税、建物の修繕費、境内地の管理責任……。試算しただけで吐き気がする。売却しようにも、整地費用だけで数百万の赤字だ」


 彼は箒を壁に立てかけ、ため息をついた。

 大杜はリアリストだ。神など信じていないし、奇跡も信じない。信じるのは通帳の残高だけ。

 この夏休みを利用して蔵を整理し、少しでも金になりそうな骨董品を見つけ出す。それが、この廃神社を相続放棄せずに済む唯一の活路だった。


「掛け軸は虫食いだらけ。刀剣類は錆びてボロボロ。……期待はしてなかったが、ここまでとはな」


 蔵には何もなかったため、本殿の奥へ進む。

 本殿の隅にも古い長持ちや桐箱が乱雑に積み上げられている。どれもこれも、カビと時間の臭いが染み付いていた。

 湿気った空気が肌にまとわりつく。

 ふと、大杜は奇妙な感覚を覚えた。

 蝉の声が遠のいたような気がしたのだ。

 本殿の中は外の猛暑とは隔絶された、冷やりとした静けさに満ちている。だが、それだけではない。もっと根本的な、空間の質が変化したような違和感。


 視線が、部屋の最奥に吸い寄せられた。


「……なんだ、あれ」


 そこだけ、埃が積もっていなかった。

 部屋の隅、床から一段高くなった祭壇のようなスペース。四本の柱には、色褪せた注連縄が張り巡らされている。結界だ。素人目にも、そこが「触れてはならない場所」であることは理解できた。

 その中心に、鎮座しているものがある。


 それは、歪な形をした「土塊(つちくれ)」だった。

 大きさはバスケットボールほどだろうか。焼き物ではない。ただの泥を固めて作ったような、粗雑な球体。

 だが、奇妙だった。

 何十年、いや、もしかしたら数百年も放置されていたはずなのに、その土塊は濡れていたのだ。

 表面がじっとりと黒光りし、まるで生き物のように艶めかしい光沢を放っている。


 ゴクリ、と喉が鳴る音が、静寂の中でやけに大きく響いた。


「ご神体……ってことか?」


 大杜は慎重に結界の注連縄をまたぎ、祭壇に近づいた。

 生理的な嫌悪感があった。背筋を冷たい指でなぞられるような、本能的な拒絶反応。

 だが同時に、抗いがたい好奇心と、卑近な欲望もあった。

 もし、この泥の中に、物部家に伝わる秘宝が隠されていたら? 金塊や宝石とまでは言わないが、せめて鑑定団に出して値段がつくような代物が入っていたら?


「……汚ねえな。泥でパックして保存してるのか?」


 大杜はしゃがみ込み、腰にぶら下げていた雑巾を手に取った。

 泥の塊に手を伸ばす。

 指先が触れた瞬間、ピリッとした静電気が走った。


「痛っ」


 反射的に手を引っ込めそうになったが、大杜は構わず雑巾を押し付けた。

 表面のぬめりを拭き取り、正体を確かめる。

 力を込めて、擦った。


 グチュリ。


 嫌な音がした。

 硬い土塊だと思っていた感触が、濡れたスポンジのように指を受け入れたのだ。


「うわっ!?」


 驚いて手を離すが、遅かった。

 大杜が触れた部分から、亀裂が走る。ピキピキと音を立てて、土塊の表面が崩れていく。

 乾燥した土が割れるのではない。

 内側からの圧力によって、殻が破られるような崩壊だった。


 どぷっ、と音がして、中身が溢れ出した。


「な、なんだこれ……!?」


 液体だった。

 いや、泥だ。アスファルトを煮溶かしたような、あるいは腐敗した沼の底から掬い上げたような、高密度の黒い泥。

 それが物理法則を無視して、本殿の床へと広がっていく。

 ただ垂れ流されるのではない。泥は意志を持っているかのように蠢き、渦を巻き、隆起し始めた。


 強烈な臭気が鼻をつく。

 それは腐臭ではない。雨上がりの土の匂いを、何万倍にも濃縮したような、むせ返るような「生命」の匂いだった。


 逃げなければ。

 本能が警鐘を鳴らす。何かとんでもない、人間が触れてはいけないものに触ってしまったのがわかった。

 だが、大杜の足は床に縫い付けられたように動かなかった。恐怖で腰が抜けたのではない。目の前で起きている現象の、あまりの神秘性に魅入られてしまったのだ。


 泥の渦が、高さを増していく。

 形を成していく。

 混沌とした黒い塊から、すらりと伸びた四肢が生まれ、なだらかな背中の曲線が描かれ、豊かな膨らみを持つ胸が形作られる。

 それは、キリスト教で、神が土から人を創ったという神話を、早送りで見せられているようだった。


 泥が剥がれ落ちていく。

 穢れた黒い外皮の下から現れたのは、暗い蔵の中でも自ら発光しているかのような、透き通る白磁の肌。


 最後に、顔が形成された。

 夜の闇を凝縮したような、濡羽色の長い髪。

 通った鼻筋に、桜色の唇。

 そして、長い睫毛に縁取られた瞼が、ゆっくりと持ち上げられる。


 そこに現れた瞳は、黄金色だった。

 人間のものではない。爬虫類のようでもあり、燃え盛る太陽のようでもある、人知を超えた輝き。


 泥の繭(まゆ)から完全に抜け出したその存在は、生まれたての赤子のように、一糸まとわぬ姿で蔵の床に立ち尽くしていた。


 静寂。

 外の蝉時雨さえ聞こえない。

 世界には今、大杜と、この正体不明の「女」しか存在しないかのような錯覚。


 大杜は呼吸を忘れていた。

 美しい、と思った。

 男としての性的な興奮よりも先に、美術品を目にした時のような、あるいは巨大な滝を見上げた時のような、圧倒的な「畏怖」が胸を支配していた。


 女が、動いた。

 彼女は自分の手を見つめ、握ったり開いたりして感触を確かめると、次に大杜の方へと視線を巡らせた。

 黄金の瞳が、大杜を射抜く。

 蛇に睨まれた蛙。

 いや、神の前に引きずり出された罪人のような気分だった。


 女は艶やかな唇を開く。

 その声は、鈴を転がすように美しく、そして絶対的な響きを持っていた。


「……ふむ」


 彼女は周囲を見渡し、カビだらけの蔵の天井を仰いだ。


「ずいぶんと寂れているようじゃの」


 そして、視線を再び大杜に戻すと、事も無げに言い放った。


「おい人間。おぬしは何者じゃ?あと、腹が減った。何か供物を寄越せ」


 尊大にして、不遜。

 己が全裸であることなど気にも留めず、まるで世界の王であるかのように振る舞うその姿に、大杜のリアリストとしての思考回路は完全に焼き切れた。


 ただ呆然と、目の前の「それ」を見上げることしかできない。

 崩された泥の殻。

 禁忌の封印。

 そして、現代に蘇った神話の断片。


 物部大杜の退屈で憂鬱な夏休みは、この瞬間、唐突に、そして不可逆的に終わりを告げたのだった。

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