第10話:コミニュケーション・スマイル

第10話:コミニュケーション・スマイル


西新宿の朝は、驚くほど平穏だった。


ビルの谷間を縫うように吹き抜ける風は、硫黄の臭いも氷の冷気も孕んでいない。ただ、都バスの排気ガスと、開店準備を急ぐカフェの焙煎の香りを運んでくる。スクランブル交差点を往来する人々は、数日前までこの街が異世界の怪物たちに蹂躙されかけていたことなど、集団催眠にでもかかったかのように忘却していた。


佐藤光紀は、自社オフィスの最上階で、淹れたてのブラックコーヒーを口に含んだ。 舌の上に広がる微かな苦味と、喉を通る熱。それが、彼を「伝説の交渉人」から「一人の経営者」へと引き戻す唯一の儀式だった。


「……佐藤社長、本日午後のスケジュールですが。一部上場のIT企業との合併交渉が一件、それから——」


秘書がタブレットを手に、流れるような手際で報告を始める。サトウは窓の外、青く澄み渡った空を見つめながら、指先でデスクの縁をリズム良く叩いた。


「合併の方は、専務に任せよう。私が直々に動くほどの案件じゃない」


「ですが、相手方はどうしても佐藤社長の『直接の言葉』を聞きたいと」


「『言葉』は安売りするものではない。彼らが本当に求めているのは私の意見ではなく、自分たちの決断に対する『背中押し』だ。それなら、私のサイン一つで十分だよ」


サトウは椅子を回転させ、デスクに置かれた一枚の写真に視線を落とした。 そこには、歌舞伎町時代の若かりし彼が、狂乱の夜の中で不敵に笑う姿が写っている。当時はロジックだけで世界を切り分けられると信じていた。だが、あの「自身の影」との対峙を経て、今のサトウの瞳には、冷徹さの奥に深い慈愛のような色が混じっている。


その時、デスクの上に置かれたプライベート用のスマホが、聞いたこともない和音で震えた。


画面に表示されたのは、文字ではない。 深紅の炎のように揺らめく紋章と、透き通るような水滴のアイコン。


「……またか」


サトウが指先で画面をスライドさせると、空中にホログラムが展開された。 それは魔界のバアルからでも、精霊界のシズカからでもない。もっと遠く、次元のさらに深層に位置する「古神界」からのダイレクトメッセージだった。


『親愛なる交渉人、サトウ。我が領地において、神々の退屈が限界に達し、次元の壁にヒビが入ろうとしている。彼らに「永遠」の退屈を凌ぐための新たなロジックと、最高のエンターテインメントを提供せよ。報酬は、貴殿の望む宇宙の定数一つを書き換える権利だ』


メッセージの背後から、神々の溜息のような、重厚で荘厳な「圧」がオフィス全体を震わせる。コーヒーカップの表面に細かな同心円が広がり、一瞬だけ重力が歪んだ。


「社長……今の振動は?」


怯える秘書を、サトウは手制止した。彼の唇は、吸い寄せられるように弧を描いていく。


「何でもない。ただの、極めて『高単価』な新規案件だよ」


サトウは立ち上がり、ハンガーにかけていたジャケットを羽織った。 袖を通す瞬間の、パリッとした生地の緊張感。ボタンを留める音。それらすべてが、彼にとっての戦闘準備だった。


「……定数を書き換える権利、か。そんな傲慢な報酬はいらない。私はただ、誰もが解決不能だと匙を投げた課題を、完璧なコミュニケーションで解き明かしたいだけだ」


サトウは鏡の前で自分の姿を確認した。 かつては相手を屈服させるための武器だったその笑顔は、今や、世界の歪みを矯正するための「鍵」へと進化していた。


「感情を因数分解し、孤独を利益に変え、絶望を合意へと着地させる。……ホストクラブのテーブルも、神々の円卓も、本質的には何も変わらない」


彼はスマホをポケットに放り込み、扉へと歩き出す。 その背中には、もう迷いも、隠すべき虚無もなかった。


「佐藤社長、どちらへ?」


呼びかける秘書の声に、サトウは振り返ることなく、扉のノブに手をかけた。


「ちょっと、次元の裏側まで『おもてなし』に。……夕方の会議には戻るよ。それまでに、最高の提案書(プロポジション)を脳内で組み上げておく」


扉が開く。その向こう側には、新宿の廊下ではなく、見たこともない黄金の光が溢れる異界の入り口が広がっていた。


サトウは、かつてないほど深く、そして不敵な微笑みを浮かべた。 それは、どんな魔法よりも強力で、どんな言葉よりも雄弁な、彼だけの紋章。


「さて。次の課題を解決(コミスマ)しましょうか」


彼の足跡が、光の中に消えていく。 西新宿の喧騒を背に、伝説の交渉人は再び、理不尽が支配する異界の闇へと、最高の「笑顔」を携えて踏み出していった。


(完)


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『ロジカル・マギ:元ホスト社長は異界の交渉も完遂する』 春秋花壇 @mai5000jp

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