第6話:過去からのクレーム

第6話:過去からのクレーム


夜の帳が下りる頃、サトウのオフィスに「それ」は届いた。 差出人不明の封筒。中には、真っ黒な薔薇の花びら一枚と、懐かしくも胸の奥を掻きむしるようなパルファムの香りが閉じ込められていた。


「……ジャスミンと、湿った銀。最悪のタイミングだ」


サトウは苦笑し、ネクタイを締め直した。その香りの主は、彼が歌舞伎町で不動のナンバーワンを張っていた頃、毎週のように数百万のシャンパンを開けていた「シズカ」という女性。だがその正体は、感情の起伏で季節さえ変えてしまう上位精霊・月読(ツクヨミ)の化身。


数年前、サトウは彼女に何も告げず夜の世界を去った。それが、この世界のバランスを揺るがすほどの「巨大なクレーム」となって返ってきたのだ。


指定された場所は、人間には決して辿り着けない場所。西新宿の裏路地、歪んだ鏡のような次元の裂け目を抜けた先にある、異界の社交場「常世(とこよ)の月」。


「……お久しぶりですね、シズカ様」


会場に足を踏み入れた瞬間、サトウの鼻を突いたのは、冷ややかな氷の匂いと、張り詰めた殺気だ。 広大なホールの中央、真珠の椅子に深く腰掛けた彼女は、月の光を織り込んだような銀のドレスを纏っていた。その瞳は、怒りと哀しみで凍てついている。


「サトウ。貴方、よくも私の前から消えたわね。あの夜、約束したじゃない。最後の一滴まで、貴方の時間は私のものだって」


彼女が指を弾くと、ホールの床から巨大な氷の棘が突き出し、サトウの喉元を囲んだ。周囲の異形たちが、サトウがどう無様に命乞いをするのかと、嘲笑を含んだ視線を向ける。


「あのアフターの約束を反故にした件ですね。……確かに、債務不履行だ」


サトウは氷の棘に肌を擦りながらも、一歩も引かない。むしろ、懐かしむような優しい眼差しで彼女を見つめた。


「ですがシズカ様。私はあの日、貴女に嘘はついていない。貴女という最高のアセット(資産)をより輝かせるために、私は一度、現場を離れてシステムを構築する必要があったんです」


「黙りなさい! 私に必要なのは、貴方の理屈じゃない。あの夜の、あの甘い時間だけよ!」


「分かっています。ですから今夜、ここを歌舞伎町で最も『高い』席にしましょう。……最高の接客(おもてなし)を、再定義しに来ました」


サトウは氷の棘を素手で押し退けた。手のひらから血が滴るが、その痛みさえ「演出」の一部であるかのように。 彼はホールに備え付けられたクリスタルのカウンターへ向かい、異界の霊酒を取り出した。


「氷を。それも、精霊界の最北端でしか採れない『静寂の結晶』を」


サトウの所作は、もはや経営者ではなく、伝説のホストそのものだった。 シェイカーを振るリズムが、凍りついたホールの空気を微かに震わせる。氷とガラスが触れ合う高貴な音。彼は、彼女がかつて愛した「琥珀色の孤独」を再現するように、一杯のグラスを作り上げた。


「……どうぞ。タイトルは『残響(レゾナンス)』。貴女が数年間、私に抱き続けた怒りという名の熱量を、氷で濾過したものです」


シズカは忌々しげにグラスを手に取り、一口含んだ。 その瞬間、彼女の瞳が揺れた。冷たいはずの酒が、喉を通る瞬間に、かつてサトウと過ごした熱い夜の記憶を呼び覚ます。タバコの煙、喧騒、そして自分だけを特別扱いしてくれた、あの男の指先の温度。


「……相変わらず、癪に触るほど美味しいわね」


「シズカ様。貴女は私に怒っているのではない。貴女の美しさを、私という鏡で確認できなくなったことに『焦燥』を覚えていた。違いますか?」


サトウはカウンターを乗り出し、彼女の顔に自分の顔を近づけた。吐息が触れ合う距離。


「貴女は誰よりも孤独だ。上位精霊として、誰も貴女に意見できない。だから、貴女を『一人の女性』としてコンサルティングできる人間が、この次元には私しかいなかった」


「……うぬぼれないで」


「うぬぼれではありません、事実です。今夜の指名料は、貴女が今抱えている『精霊界の気候変動問題』の全権委譲で手を打ちましょう。私が、貴女の領地を世界で最も魅力的な観光資源に変えてみせる。それが、あの日の不義理に対する利子です」


シズカは、ふっと力を抜いた。 周囲を威圧していた氷の棘が、キラキラと輝く光の粒となって消えていく。


「……本当に、最悪の男。でも、その強欲なところが、私の愛したサトウだわ」


彼女はグラスを空にし、満足げな笑みを浮かべた。その顔は、もう恐ろしい精霊ではなく、かつてサトウの店で一番の笑顔を見せていた、ただの女性だった。


「わかったわ。今夜だけは、貴方の嘘に付き合ってあげる。でも、次はないわよ。もしまた消えたら、今度は本当に世界を半分に割ってあげる」


「肝に銘じておきます。お姫様」


サトウは恭しく一礼した。 社交場に、シャンパンの抜栓音が響き渡る。 異界の住人たちがどよめく中、サトウは一晩中、彼女のためだけに言葉を紡ぎ、酒を注ぎ続けた。


明け方。次元の裂け目から戻ったサトウは、西新宿の冷たい朝焼けを浴びていた。 スーツには、微かにジャスミンの香りが残っている。


「……ふぅ。女の情念という名の負債は、金より高くつく」


彼はスマホを取り出し、スケジュール帳に新しいプロジェクト名を書き込んだ。 『精霊界・ラグジュアリーリゾート開発計画』。


「さて。次は、この世界の境界線を守るための……『リスク管理』の番か」


朝日を背にしたサトウの影が、長く、鋭く伸びていた。


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