第25話 立ち止まれるようになった小さな兆し
夜の街は、
やっぱり怖い。
——慣れたと思っていただけで、
怖くなくなったわけじゃなかった。
その夜、
深夜の街で出会ったのは
タクシーの運転手だった。
年齢は分からない。
声は落ち着いていて、
話し方はやけに慣れていた。
何気ない会話の途中で、
彼は
小さなパケを見せてきた。
透明な袋に入った、
白い粉。
「これね」
そう言って、
軽い調子で続ける。
「飲んでマッサージするとさ、
体ポカポカして、
痩せるよ。」
——一瞬、
時間が止まった。
その言い方が、
あまりにも
“日常”だったから。
冗談みたいで、
でも冗談じゃない。
夜の街では、
こういうことが
普通に差し出される。
私は、
何も言わなかった。
笑いもしなかった。
ただ、
胸の奥が
きゅっと縮んだ。
——あ、
これはダメだ。
理由は、
ちゃんと説明できなかった。
でも、
体が先に分かっていた。
これ以上、
夜に溶けたら、
戻れなくなる。
その感覚だけが、
はっきりしていた。
私は、
その場を離れた。
走らなかった。
騒がなかった。
ただ、
距離を取った。
——この夜、
私は初めて
「戻る」じゃなく
「離れる」選択をした。
ほんの小さなこと。
でも、
確かに違った。
立ち止まれなかった私が、
一瞬だけ、
足を止めた夜。
それが、
後から振り返ると
最初の兆しだった。
幸せになる途中の話 みほ @milk_tea0329
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