第9話:次世代への譲位
第9話:次世代への譲位
五つの環(アルカナ)が完成し、電脳都市が紺青の輝きの中で完璧な自律循環を始めたその日。 D.N.Oの評議会議場は、かつてない熱気と、ある種の「完成」への安堵感に包まれていた。
正面の玉座に座るサトコ・ナンバは、白くなった髪を指先で遊びながら、集まった幹部たちを見渡した。彼女の肌からは、今も膨大な魔力の残滓が陽炎のように立ち上っている。
「――今日で、私は引退するわ」
唐突に放たれたその言葉は、冷水を浴びせられたような沈黙を議場にもたらした。
「……冗談でしょう、ナンバさん」 タクミが、震える手で眼鏡のブリッジを押し上げた。「今、D.N.Oは世界の頂点に立ったんです。オラクル・レギオンは崩壊し、あなたが名実ともに電脳都市の『女王』になった。これからですよ、本当の支配が始まるのは!」
「支配? タクミ、あなたはまだそんな退屈なことを言っているの?」 サトコは、深く、そして晴れやかな溜息をついた。 「私の仕事は、この『循環の魔法陣』を創り上げることだった。そしてそれは、たった今完成したわ。……完成したシステムに、創設者の強い意志が残り続けるのは、ただの『重し』でしかないのよ」
「納得できません!」 レンが、鋼のような拳をテーブルに叩きつけた。議場に重厚な音が響く。 「あんたがいないD.N.Oに、誰がついていく! 俺たちは、あんたの背中に惚れてここに集まったんだ。あんたが引退するなら、このギルドはただの巨大な機械に成り下がる!」
「いいえ、レン。それは逆よ」 サトコは立ち上がり、ゆっくりと壇上を降りた。彼女の歩みに合わせて、床の魔法陣が優しく共鳴し、水のせせらぎのような音を立てる。
「私がここに居座り続ければ、みんな無意識に私の『正解』を探してしまう。私の顔色を伺い、私の『紺青の魔眼』が視る未来だけを追いかける。……それじゃあ、白銀の塔にいた頃の私と同じじゃない」
サトコはタクミの肩に手を置いた。タクミの肩越しに、彼が連日徹夜で書き上げた新世代の魔導コードの匂い――焦げた紙と、微かなミントの香りがした。
「私がいては、新しい風は吹かない。……D.N.Oは、私の作品であってはいけないの。あなたたちの、そしてこの街に生きる数百万人の『遊び場』でなきゃ」
「……でも、ナンバさん抜きで、この巨大なアルカナを誰が制御するんですか」
サトコは悪戯っぽく微笑み、議場の隅で静かに発光していたアニマを指差した。 「アニマと、そして……あなたよ、タクミ。あなたが次代の『総帥(リーダー)』になりなさい。レン、あなたは彼を支える最強の盾になって」
「俺が……リーダー?」 タクミが絶句する。
「そう。あなたは誰よりも臆病で、だからこそ誰よりも誠実だわ。私が無茶をした時、いつもブレーキをかけてくれたその慎重さが、これからの『守り』の時代には必要なの」
サトコは懐から、一冊の古びた手帳を取り出した。それは、夫ハルが遺した研究ノートであり、サトコがこの数年、自身の夢を書き溜めてきた魂の記録だった。
「これは置いていくわ。……でもね、これに書いてある通りにやっちゃダメよ。自分たちで、もっとめちゃくちゃで、もっと面白い未来を上書きしなさい」
議場のあちこちから、すすり泣く声が聞こえ始めた。 サトコの決断は、古い権威や地位に固執する外界の大人たちから見れば、狂気の沙汰に見えるだろう。だが、ここにいる者たちは知っていた。彼女にとって、地位や名誉は「面白い遊び」を終えた後の空き箱に過ぎないことを。
「ナンバさん……これから、どうするんですか。どこへ行くんです」
サトコは窓の外、遥か上空に広がる夜空を見上げた。 そこには、大気圏のさらに向こう側――「宇宙エーテル」が、未知の深淵となって口を開けていた。
「ハルとね、昔約束したの。いつか、この地上の喧騒をすべて繋ぎ終えたら、誰も見たことがない星の海へ、二人で旅に出ようって。……彼は先に行っちゃったけれど、私はまだ自分の足で歩けるわ」
サトコの身体から、旅立ちを予感させる潮風のような、清々しいエーテルが溢れ出した。 彼女は「皇帝の玉座」ではなく、「冒険者の靴」を選んだのだ。
「宇宙には、まだ誰の魔力にも染まっていない純粋な『驚き』が眠っているはずよ。それを探しに行くの。一人の自由な、サトコ・ナンバとしてね」
サトコは背を向け、出口へと歩き出した。 その歩みは軽く、足取りはかつて地下室で夢を語っていた頃のように弾んでいる。
「待ってください、ナンバさん!」 タクミが叫んだ。「せめて……せめて、最後のアドバイスを!」
サトコは扉の前で一度だけ振り返った。 白髪が紺青の月の光を反射して、神話の女神のように輝いている。
「アドバイス? そうね……」 サトコは、最高の笑顔を浮かべた。
「――飽きたら、いつでも壊しなさい。そして、もっと面白いものを作りなさい! 以上よ!」
サトコが去った後の議場には、彼女の残り香と、新時代を託された若者たちの、震えるような決意だけが残された。
鼻腔を突くのは、夜明けの冷たくて澄んだ空気。 サトコの胸にあるのは、すべてをやり遂げた充足感と、未知への恐怖を飲み込むほどの、強烈なワクワク感。
彼女は、自分を縛るすべての連環を解き放った。 不屈の魔女は、今、真の意味で自由になったのだ。
宇宙の深淵から吹き降ろす、誰も知らない風を感じながら。 サトコ・ナンバは、紺青の空へとその第一歩を刻んだ。
第9話 完
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