第7話:沈黙の聖域(インシデント)

第7話:沈黙の聖域(インシデント)


電脳都市の夜が、一瞬にしてどす黒い沈黙に呑み込まれた。


D.N.Oが提供する『ライフ・コネクト』の心臓部。何千万というユーザーの記憶とバイタルデータが眠る「記憶の保管庫(メモリー・フォールト)」に、正体不明の呪い――超高密度の論理ウイルスが混入したのだ。


「……っ、アニマ! 遮断はどうしたの!?」 タクミの叫びが、火花散る制御室に響く。 「不可能です、タクミ。呪いはデータの『正当な更新』を装って侵入しました。オラクル・レギオンの禁忌術式……『忘却の汚泥(レテ・スライム)』。浸食率、すでに六〇%。ユーザーたちの私的な記憶が、今この瞬間も、悪意ある暗黒のエーテルへ書き換えられています!」


制御パネルから噴き出すオゾンの匂いと、焼け焦げる金属の異臭。 サトコ・ナンバは、激しく明滅する紺青の水晶――アニマの前に立ち、その光景を静かに見つめていた。彼女の「紺青の魔眼」には、人々の幸福な思い出が、黒い泥のような呪いに汚染され、腐敗していく様が残酷なまでに鮮明に映っていた。


「……サトコ。外部回廊から、凄まじい密度の『批判の奔流』が押し寄せています」 アニマの声が、苦痛に歪む。 「レギオンが情報をリークしました。街の掲示板も、個人端末も、『D.N.Oが個人の魂を汚した』という罵倒で溢れています。このままでは信頼の連鎖が崩壊し、ギルドの魔力供給が途絶……消滅します」


「……そうね。私たちが一番大切にしていた『信頼』が、牙を剥いているわね」 サトコの声は、驚くほど静かだった。だが、彼女の掌は怒りと悔しさで白くなるほど握りしめられていた。


「ナンバさん、記者会見の準備を! レギオンの仕業だと証明しましょう! 僕たちが被害者だって叫べば……」 タクミが駆け寄るが、サトコはゆっくりと首を振った。


「いいえ、タクミ。言い訳は、私たちの魔法には必要ないわ。……原因がどこにあろうと、預かった記憶を守れなかったのは私。代表である私自身の責任よ。……レン、準備はいい?」


背後の闇から、レンが姿を現した。その顔は苦渋に満ちている。 「……あんた、本気か。あれは、あんたの命を削る術式だぞ」


「『断罪の祭壇』を起動しなさい。……今、この都市に必要なのは、犯人探しじゃない。一人のリーダーが、血を流してでもこの汚泥を食い止めるという『誠実さの実体化』よ」


サトコは、本拠地の最上階にある、吹き抜けのテラスへと向かった。 眼下には、不安に駆られ、怒り狂った数万の市民たちが、デモ隊となって押し寄せている。彼らが放つ負の感情(ヘイト・エーテル)が、黒い雲となってビルを包囲していた。


サトコはテラスの中央、魔導回路が集中する祭壇に立った。 「サトコ、開始します。……あなたの全魔力を触媒に、都市全域へ『浄化の結界』を。……ただし、魔力が底をつけば、あなたの魂の輪郭が消失します」


「構わないわ。始めなさい」


サトコが両手を広げた瞬間、祭壇から凄まじい重圧が彼女を襲った。 「――っ、ぐ、あぁ!」


膝が砕けそうになる。 彼女の血管の中を、溶けた鉛が流れるような激痛が走る。サトコの紺青の魔力が、目に見えるほどの輝きとなって身体から引きずり出され、空へと昇っていく。


(――謝らないわ。代わりに、私のすべてを差し出す。信じてくれた人たちの記憶を、一秒たりとも汚させはしない!)


サトコの意識は、街中の「記憶の保管庫」と直結された。 ドロドロとした呪いの冷たさ。裏切られた人々の怒りの棘。それらすべてが、サトコの神経系に直接流れ込む。


「熱い……、寒い……、痛い……!」 サトコの視界が白む。鼻腔からは絶え間なく血が滴り、紺青のローブを黒く染めていく。 だが、彼女が放つ魔力は、いつしか街全体を包み込む巨大なドーム状の障壁へと変わっていた。


『誠実さの聖域(アンタッチャブル・ルスト)』。


それは、サトコ自身の「命」を担保にした、物理的な誠意の証明。 呪いの汚泥がその障壁に触れた瞬間、サトコの自己犠牲の熱に焼かれ、白い煙となって消えていく。


「見て……あの光……」 地上で石を投げようとしていた市民たちが、足を止めた。 ビルの中央で、一人の女性が血を吐きながら、自分たちのデータを、記憶を、その身を削って守っている。そのあまりに苛烈で、一切の弁明を排した姿。


「……あんな無茶をしてまで、俺たちのガラクタみたいな思い出を……」 「サトコ・ナンバ……。彼女は、逃げていない」


街を覆っていた黒い雲が、サトコから溢れ出す紺青の光によって浄化されていく。 だが、その代償はあまりに大きかった。 サトコの髪は瞬く間に白く変色し、その瞳からは光が失われつつあった。


「ナンバさん! もうやめてくれ! 呪いは消えた! これ以上はあなたの核が壊れる!」 タクミが祭壇へ飛び込もうとするが、レンがそれを必死に羽交い締めにして止める。 「……邪魔をするな! 今止めたら、彼女の覚悟が、あいつらの信頼が、全部無駄になるんだ!」 レンの頬にも、悔し涙が伝っていた。


サトコは、朦朧とする意識の中で、遠くの空を見た。 そこには、ハルの温かな微笑みがあるような気がした。


(……ねえ、ハル。私、間違ってないわよね……。リーダーっていうのは……最後に、一番かっこよく、ボロボロにならなきゃいけないんだから……)


最後の一滴。 サトコの魔力が、都市の最果てまで届いた瞬間、呪いの残滓は完全に消滅した。 同時に、サトコはその場に糸が切れた人形のように崩れ落ちた。


「サトコ!!」


駆け寄る仲間たちの声。 街には、静寂が戻っていた。 だが、それは以前の冷たい沈黙ではない。 傷つき、ボロボロになりながらも、決して自分たちを捨てなかった指導者に対する、深くて重い「敬意」に満ちた静寂だった。


翌朝、メディアの追求に対し、サトコは病室のベッドから、消え入りそうな声でこう答えた。


「……原因調査は継続します。けれど、理由が何であれ、私が預かった皆様の『心』を傷つけたことは事実。……この責任は、生涯をかけて、さらに面白い未来を創ることでお返しします」


一切の法的弁明をせず、ただ誠実さだけで一億のユーザーを黙らせた「沈黙の聖域」。 オラクル・レギオンのヴァルガスは、その報告を聞き、持っていたワイングラスを粉砕したという。


サトコの髪は白くなった。魔力も、以前の半分も残っていない。 けれど、D.N.Oというギルドは、この夜、ただの企業から「揺るぎない信仰」へと進化したのだ。


鼻腔を突くのは、病室に飾られた沈丁花の花の香りと、仲間たちが淹れてくれた、少し苦いコーヒーの匂い。 サトコは、白くなった髪を指でいじりながら、悪戯っぽく微笑んだ。


「……ふふ。白髪も、案外似合うと思わない?」


不屈の魔女は、死の淵にあっても、まだ「面白さ」を諦めてはいなかった。


第7話 完


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