第3話:女神の休息、星への誓い
第3話:女神の休息、星への誓い
巨大ギルドの包囲網を跳ね除け、凱歌を上げたはずの『D.N.O』の地下室。だが、勝利の余韻は、一本の通信によって無残に引き裂かれた。
サトコが駆けつけた自宅の寝室は、重苦しい沈黙と、微かな「沈丁花」の香りに包まれていた。それは、最愛の夫ハルが好んで焚いていた香油の匂いだが、今はどこか、枯れゆく花のような寂しさを孕んでいる。
「……ハル?」
サトコの震える声に、ベッドに横たわったハルが、ゆっくりと瞼を持ち上げた。かつては知性溢れる光を宿していた彼の瞳は、今は灰色の霧に覆われたように濁っている。
「サトコか。……すまない、少し、疲れが溜まったようだ」
ハルの声は、擦り切れた古い羊皮紙が重なり合うような、掠れた音だった。 サトコは彼の手に触れた。驚くほど冷たい。指先から伝わってくるのは、生命の脈動ではなく、底知れない「空洞」の感触だった。
傍らに控えていた魔導医師が、沈痛な面持ちで首を振った。 「……極度の『魔力枯渇症(エーテル・ドレイン)』です。彼の魂の根源にある魔力が、砂時計の砂のように、どこかへ吸い出されている。現代のどんな治療術式を使っても、漏れ出すエーテルを止めることはできません」
「そんな……。彼は、ただの学者よ。誰かに呪われるような理由なんてないわ!」
「呪いではありません、ナンバさん。これは……魂の老い、あるいは理(ことわり)です。今の魔導医療には、枯れ果てた泉に水を戻す魔法は存在しないのです」
医師の言葉は、冷酷な宣告としてサトコの胸を刺した。 世界を繋ぎ、巨人の壁を穿つ力を手に入れたはずなのに。自分のすぐ隣で消えようとしている命一つ、繋ぎ止める術がない。
サトコは、ギルドの全業務をタクミに預け、戦線を離脱した。 連日、彼女はハルの枕元に座り続けた。 窓の外からは、秋の終わりの冷たい風が吹き込み、カーテンを揺らす。サトコはハルの手を握り、自らの膨大な魔力を流し込もうとした。
「持っていきなさい、ハル。私の魔力はいくらでもある。全部あげるから、行かないで」
サトコの紺青の魔力が、青い燐光となってハルの腕を包み込む。だが、その光は彼の皮膚に染み込むことなく、虚空へと霧散していった。 受け皿のない器に水を注ぐような、虚しい作業。
「……やめるんだ、サトコ。君の光が、もったいない」 ハルが、弱々しく微笑んだ。
「もったいないなんて言わないで! 私は、あなたに救われたのよ。白銀の塔で心が凍りつきそうだった時、温かいお茶を淹れて『面白ければいいじゃないか』って笑ってくれたのは、あなたじゃない!」
サトコの目から、大粒の涙がハルの手の甲に落ちた。温かいはずの涙が、彼の冷え切った肌の上で、氷のように冷えていくのがわかった。
「サトコ……。私は、幸せだよ。君が、路地裏で新しい星を見つけたこと。……その星が、いつか世界中を照らすのを、一番近くで見たかったけれど……」
ハルの呼吸が、不規則に乱れ始める。 部屋の中に、死の予感が重く立ち込めた。サトコは鼻腔を突く「沈丁花の死の香り」を、一生忘れまいと深く吸い込んだ。
「ハル、約束して。私は諦めない。あなたが教えてくれた『面白さ』も、この世界の理も。……魔法が命を救えないなら、私が、魔法そのものを書き換えてみせるから」
ハルの指先が、最期に一度だけ、サトコの頬を撫でた。 「……君なら、できるさ。……不屈の、サトコ……」
その瞬間、ハルの身体から、最後の一滴のエーテルが抜けていった。 紺青の魔眼が、彼の魂が静かなる星の海へと還っていく光景を、残酷なまでの解像度で映し出した。
サトコは泣かなかった。いや、泣くのを止めた。 彼女の心の中で、悲しみという名の重苦しいエネルギーが、真っ白な、透明な怒りへと昇華していくのを感じたからだ。
「……タクミ、聞こえる?」
数日後。サトコは、ハルとの思い出が詰まった書斎で、タクミに通信を入れた。 彼女の瞳は、以前よりも深く、そして凍りつくような決意の色を湛えていた。
「ナンバさん、大丈夫ですか? 葬儀の手配は……」
「葬儀は終わったわ。……それより、新しいプロジェクトを始めるわよ。D.N.Oの次の核は、『命のデータの循環』よ」
「命の……データ?」
「ええ。今の魔法が命を救えないのは、命を『一瞬の現象』としてしか捉えていないからよ。ハルの魔力がどこへ漏れたのか、なぜ枯渇したのか……その予兆を、世界中の人々の脈動から収集し、分析し、共有する。一人の命が消える前に、一億人のデータでそれを繋ぎ止める」
サトコは、窓の外の夜空に瞬く星を見上げた。 その一際輝く青い星が、ハルの瞳のように見えた。
「『ライフ・コネクト』。これが私の、ハルへの誓い。……愛する者を救えない魔法なんて、美しくない。そんな不完全な世界を、私は認めないわ」
サトコの声には、もはや迷いはなかった。 彼女は、ハルが愛用していた古い羽ペンを手に取り、真っ白な羊皮紙に、新たな連環の魔法陣を描き始めた。
鼻腔には、まだ沈丁花の残香が漂っている。 だがそれは、もはや死の匂いではなかった。 いつかすべての病を克服し、誰もが穏やかな朝を迎えられる世界を創るための、始まりの香りだった。
「見ていて、ハル。私が、命さえも循環させてみせるから」
サトコ・ナンバは、再び立ち上がった。 不屈の魔女。その二つ名が、本当の意味で彼女の運命を決定づけた夜だった。
第3話 完
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