送り出す食堂
管理栄養士たか
第1話 負けた天才ボクサー
都営三田線本蓮沼駅を降りると、都心から少し離れた、昔ながらの商店街が控えめに続いている。駅から10分ほど歩くと、目の前には大きなビルがそびえ立つ。周りに高い建物が見当たらない分存在感がある。ここが日本のトップアスリートたちのための施設、海の素ナショナルトレーニングセンターだ。
一般には公開されず、国際競争力の向上を目指し、各種中央競技団体が推薦した選手のみが使用できる施設。
彼らに一流の食事を提供しているのが「元気食堂」。選ばれたスポーツ栄養専門の管理栄養士たちだ。
栄養支援チーム室長の中村浩介は、今年度の入団選手のリストを眺めながら廊下を歩いて食堂へと向かっていた。
ふと、食堂の奥にあるテーブルで、髪をてっぺんに団子で纏めた黒髪の女性に目が留まった。
食事中のようであり、考え事をしている風でもあった。浩介はもう一度資料に目を落とした。
彼女は藤崎詩織、オリンピックの強化選手でアマチュア女子ボクシングライト級世界ランク3位。
今期のオリンピックメダル候補の筆頭だった。
彼女の活躍は遠征地に同行した彼も良く知っていた。
女子ボクシングの期待の星、初のメダリストとなるはずだ。
昼食の時間はもう1時間も過ぎているのに、彼女の前には今日の昼食のメニューがそのまま残っていた。
アツアツで提供したスープの湯気はもう立っておらず、決められた配置にセッティングされているカトラリーは微動だにしていない。
まるで彼女の周りだけ時間が止まったように背中に寒気すら感じ、食堂の喧騒とも異なっていた。
ああ、いま彼女は自分が建てた壁を越えようともがいているんだな。
浩介は何か言いかけたがそのまま通り過ぎた。
今はそっとしておこう。
藤崎詩織は天才だった。いや、彼女の並々ならぬ努力を見ないまま天才と片付けてしまうのは失礼だが、それを含めても天才以外にふさわしい言葉はないだろう。
彼女はもともと水泳選手だった。とはいえ都大会に出場する程度で、表彰台に上がったこともなかった。
彼女は努力を積み上げることに、天賦の才があった。
中学生の頃は彼女がプールに来ないのは施設が休みか修学旅行の時くらいで、卒業式の後にも泳いでいた。
決して無理はせず体調管理を万全にしていた。
常にベストコンディションをキープしようと同じメニューをこなしており、一度は同じ条件にしようと毎回の食事を同じメニューにしたいと言い出した時にはさすがに母親と担任教師に諭された。
アスリートらしく引き締まったボディーには思春期特有のぜい肉は一切見られないが、中学を卒業する間際には身体にメリハリが付き女性らしさを際立たせていた。
ちょうどその頃、兄の通うボクシングジムに忘れ物を届けに来ると、兄に囃されサンドバックを叩いてみた。
最初は周りの練習生も笑いながら眺めていたが、2発、3発と叩き続けるうちに、いつしかジムの中は、彼女のサンドバックを叩く音しか響いていなかった。
誰もが声を出せない中
「嬢ちゃん、リングに上がってみるか」
静けさを破ったのは会長だった。
「会長、いくら何でも――痛っ!」
サンドバックを受けていた兄が、わき腹を抑えた。
素人のパンチをサンドバック越しに十数発受けただけなのに、それは鍛え上げた腹筋を貫き鈍痛を与えた。
「お前が妹を心配するは分かる。けど、嬢ちゃんはそんなタマじゃねえ。パンチだけなら高校生の野郎と同じ威力がある。加藤、お前相手してやれ」
周りがざわついた。
加藤練習生はアマチュアだが、高校総体に常に名を連ねている猛者だ。
「嬢ちゃん、ちょっとこっちにこい」
会長は詩織を部屋の片隅に連れていくと何やら彼女に語りかけた。
二~三分経つと彼女はこくりとうなずき、リングへ向かった。
青コーナーの下でリングシューズに履き替え、会長はテーピングを巻きながら更に二言三言付け加えた。
そこでも彼女はこくりとうなずくだけだ。
ヘッドギアを付けると、すでにアップをしている加藤の立つリングへと上がった。
「加藤!手加減はいらねえ、試合のつもりで相手してやれ」
練習生たちが更にどよめいた。
「無茶だ、素人がかないっこねぇ」
「会長は何を考えているんだ?」
会長は無言で腕を組みながらパイプ椅子へ座った。
「ゴングならせ!」
カーン!。
スパーリングが始まった。
加藤はいつも通り相手の出方を伺おうとした。相手は素人だ、最初はパンチを避けるだけで……。刹那、詩織の顔が目の前にある。虚を突かれた加藤はガードを上げる。そこへ鋭い右ストレートが撃ち込まれる。重い、ガードがなければクリーンヒットだ。だが加藤も高校ランク3位の実力者だ。すぐに体制を整えガードを固める。ワン・ツーがガードの上から綺麗に入り、間髪入れずボディーに来るグローブが見える。反射でガードを落とすと、がら空きの顔にジャブが入り右ストレートが襲いかかる。加藤は間髪のけぞってかわす。詩織は体制を崩して倒れる。
「スリップ!」
一旦スパーリングが止まる。
その間1分も無かった。
うおーっ!会場が興奮で溢れた。
兄がセコンドに立つ。
「まだやれるか?」
詩織はこくりとうなずく。
会長のもとへトレーナーの阪木がやってきた。
「会長、彼女に何を教えたんです?」
「技術的なことは何も教えちゃいねえよ。
嬢ちゃんの反射神経を試したのさ。
定規テストはうちのジムでもやっているだろう。
大体の奴は5㎝前後だ。加藤も3㎝を外したことがない。
ところが嬢ちゃんは1㎝だ。
まったく、あんな逸材どこで眠っていたんだ」
阪木が唖然とする。
「ファイト!」
スパーリングが再開された。
先ほど同様に詩織が果敢に攻める。
阪木はヒューッと口を鳴らす。
「素人にしてはいい攻め方ですね。
加藤くんも様子を見て手を出さないでいる」
「手を出さないんじゃなくて、出せないんだ」
会長はニヤリとした。
「えっ⁉」
「一瞬でも隙を作ったら強烈なパンチをもらって動きを止められる。
そうなったら後は木偶の坊だ。
加藤はアウトファイターだが攻められない。けど…」
詩織が一瞬呼吸をして止まる。それを加藤は逃さずガードの上から右を叩き込む。詩織のガードがはじける。何が起こったか分からないうちに詩織の世界は暗転した。加藤の左ストレートをもろに受けたのだ。
――まるで水の中にいるようだ。
世界から音が、光が消える。
痛みも、恐れもなく、自分がどこにいるのかも分からない――
――本物の水を浴びて詩織は目を覚ました。
兄が心配そうに詩織を抱き、加藤は立ち尽くしたままだ。
「まだやれます」
詩織がこのジムに入って初めて発した言葉だ。
まだあどけない10代の声だ。
加藤がようやく動揺する。
会長はガハハと笑い
「なら、大丈夫だ。藤崎、念のため下のヤブ医者の所に連れて行ってやれ」
兄に肩を借りながらリングを後にする。
「嬢ちゃん、名前は何ていうんだ?」
「詩織、明日も来ていいですか?」
「おう、待ってるぞ」
こうして詩織のボクシング人生は始まった。
彼女が水泳を始めた理由は母親がこう語った。
「詩織が水泳を始めたきっかけ?
あの子、海で溺れたことがあったでしょう。
負けず嫌いなのよ」
出来ないことがあると出来るまで、それ以上まで努力する。
それが彼女のスタイルだ。
料理で指を切ったときは、大根の桂むきが出来るまで練習する。
ただし、味には興味を示さなかった。
出来ることには興味がないのだ。
小学生の頃に、男子と取っ組み合いの喧嘩をして負けた。
次の日から近所の空手道場で数日窓から練習風景を眺めていた。
夏休みが明けた日、その男子に果たし状を渡した。
結果は一瞬で決まった。
クラスメイトが囲む中、たった一発の正拳突きで男子は泣き出した。
それからは空手に一切興味を示さなかった。
ボクシングを始めた理由も初日にKOされた、そのことだ。
――では何故水泳は伸びなかったか。
残念ながら彼女はいくら食べても太らない。
アスリートとしては欠点である筋肉が付きにくい体質であった。
瞬発力だけでは水泳で勝ち続けることは出来ない。
そんな時に出会ったのがボクシングだ。
彼女はその日以来、毎日ボクシングジムに通った。
華やかな女子高生生活は絆創膏と軟膏を纏う毎日だった。
クラスメイトが映画や遊園地に繰り出す中、彼女は汗臭い男たちの中でひたすら自分を磨き続けた。
デビュー戦は圧勝だった。
そこから先は、まるで階段を駆け上がるような日々だった。
地方大会、全国大会、国際大会。
――勝つたびに注目は集まり、気が付けば彼女は、アマチュア日本の頂点に立っていた。
それでも、彼女がボクシングをやめなかった理由は、栄光の中にはなかった。
定期的に、加藤にスパーリングを挑み続けていたからだ。
結果は毎回のKO。それでも彼女は何度倒されてもリングに上がった。
加藤がプロデビューしてからも、その関係は変わらなかった。
勝っても、負けても、彼女が求めていたのは一つだけだった。
――あの日、初めて倒された地点に、まだ立てていない。
日本代表に選ばれたときも、彼女は大きく喜ぶことはなかった。
問いかけに返したのは、いつものように静かにうなずくだけだった。
オリンピック会場へ出発する前夜、彼女は最後のスパーリングを加藤に願った。
加藤が断ると
「日常を崩したくないので」
滅多に発しない彼女からの言葉は重く、加藤は迷いながらも同意した。
スパーリングが始まって3ラウンド、リングに立っていたのは詩織だった。
――ああ、これで終われる。
彼女は窓の向こうの月に目をやり、そう呟いた。
オリンピック女子ボクシングライト級二回戦。
一回戦を圧勝した藤崎詩織には、すでに勝利を前提とした空気が会場を包んでいた。各報道機関は、彼女を時代の日本女子ボクシングを背負う存在として大きく取り上げていた。
詩織はいつも通り寡黙に体を温めていた。
周囲が浮き立つ空気に包まれる中、会長だけは苦い顔をしていた。
「嬢ちゃんはここまで来たから、俺の言うことなんて届かないだろうな」
阪木は軽く笑った。
「何を言っているんですか。ここまで彼女を育てたのは、会長じゃないですか」
「いいや、俺は、あいつに“攻め方”を教えただけだ。
だがここに来て、それが仇になっている」
阪木の笑みがわずかに引きつった。
「……どういうことですか?」
「強すぎるんだ。目の前の相手をねじ伏せる力がありすぎる」
阪木は言葉を探すように視線を泳がせた。
「でも……詩織ちゃんは、十分すぎるほど強いと思いますが」
「強いなんてもんじゃねぇ、ありゃ化け物だ。
しかし、それがウィークポイントにもなっている。
今の戦い方はもう俺にも変えられねえ。
俺は目の前の強さに目がくらんで、その後ろの弱さに気が付かなかった」
阪木も不安げな表情でアリーナを見下ろした。
すでに両選手はリングに上がっていた。
詩織は無言のまま、相手から目を離さない。
メキシコの選手は一度視線を外し、深く息をついてから構え直した。
誰もが短い試合を思い描いていた。
会場は詩織の名を呼ぶ完成で満ちている。
カーン。
「ファイト!」
詩織が前へ出る。
相手は下がり、ガードを――するはずだった。
メキシコの選手は動揺でタイミングのずれた右フックを出した。
それが詩織のこめかみを捉える。
そして――世界から音が消えた。
大会初日を敗退した選手は早々に帰国する。詩織もその一団にいた。
参加できたことに喜びを感じている選手に対し、メダルを確実視されていた詩織には誰も声をかけづらく一人でいることが多かった。
前の席の乗客が広げる新聞には詩織の記事が大きく載せられていた。
「油断」
「天狗」
「調子に乗って」
断片を見ても自分を避難しているのが理解できた。
羽田空港に降りると出迎える人は誰もいない。
両親にも帰国は知らせていなかった。
キャリーバックを幾つか宅配便に預け、身軽になった詩織は京急線に乗り三田線に乗り換えた。
特に来る理由もないが、海の素ナショナルトレーニングセンターに訪れた。
時刻は正午、滞在中の選手たちが食堂へと向かっていた。
何となくその流れに引き寄せられ「元気食堂」へ訪れた。
いつもの奥の席に座る。
お腹は空いていない。
詩織が食事をする理由は身体を作るためだ。
学生の頃から食欲を感じたことはほとんどなかった。
食堂の客がまばらになった頃、詩織の前に静かに膳が置かれた。
陶器が木の卓に触れる、かすかな音。
顔を上げると、白衣姿の男が立っていた。
中村浩介は、職業用の笑顔ではない、少しだけ柔らかい表情を浮かべている。
「お疲れさまでした、藤崎詩織さん」
「……私、注文していません」
眉をひそめる詩織に、浩介は穏やかに首を振った。
「あなたは、もう充分仕事をしてきました。
今度は、私に仕事をさせてください」
配膳されたのは、ごはん、卵スープ、ミートボールの和風あん、小松菜のおひたし。
特別な食材はない。
だが、盛り付けの高さ、汁の量、湯気の立ち方――
どれもが計算された膳だった。
「海外では、慣れない食事が続いたでしょう」
浩介は席には座らず、少し距離を取ったまま続ける。
「今日は、身体を“戻す”ための献立です」
詩織は黙って膳を見下ろした。
食欲はない。
それでも、箸を取らなければならない理由は、彼女自身が一番よく知っている。
「……これ、レバー入っていますよね?
私、嫌いなんです」
そのメニューの日、彼女はいつも食堂を避けていた。
嫌いなものは、徹底的に遠ざける。
それが藤崎詩織のやり方だった。
「ええ、入っています」
浩介は否定しなかった。
代わりに、責めることも、説得もしない。
「藤崎さんは、身体を作れなくて悩んでいた」
淡々とした口調だった。
「だから、短時間で勝てる戦い方を選び続けてきた」
詩織の指が、わずかに震えた。
「レバーは、鉄、亜鉛、ビタミンAが豊富です」
「持久力、免疫、回復――全部、“自分を守る力”に直結する」
その言葉は、戦術でも理論でもなく、
ただの事実の列挙として落ちてきた。
詩織は、恐る恐る肉団子に箸を伸ばす。
一口。
目を見開いた。
「……食べやすい」
「ひき肉と混ぜています」
浩介はようやく、少しだけ微笑んだ。
「噛む力が落ちているときでも、無理なく飲み込めるように」
そして、少し間を置いて続ける。
「レバーが苦手な方は多いです。
生姜と酒、柚子の皮を加えて、匂いと後味を抑えています」
そんなに――
そこまで考えられている。
詩織は、改めてその一皿を見つめた。
ただの食事ではない。
誰かが、自分のために考え抜いた形跡がそこにあった。
「筋肉は、食べているときに育つわけじゃありません」
浩介は卵スープに視線を落としたまま言った。
「壊れて、休んで、その間に強くなる」
「勝ち続ける選手ほど、休み方を覚えないといけない」
少しの沈黙。
食堂の奥で、食器が重なる音がした。
遠くで誰かが笑っている。
「だから今日は、“攻めるための食事”じゃない」
浩介は、静かに言い切った。
「守るための一皿です」
詩織の喉が、小さく鳴った。
「――心も、同じですよ」
浩介は、そこで初めて彼女の目を見た。
「休むことが、大切なんです」
その瞬間、詩織の頬を涙が伝った。
男子と喧嘩したときも。
水泳で負けたときも。
加藤にKOされたときも。
決して流れなかった涙だった。
「あ~っ、中村先生が詩織ちゃんを泣かせてる!」
食堂の入り口から、管理栄養士の杉原まどかが駆け寄ってくる。
「な、泣かないで藤崎さん。ほら、いない、いないばぁ!」
明らかに動揺する浩介。
まどかは詩織をかばうように抱きしめた。
詩織は泣きながら、思う。
――もう少し、この温かさを感じていたい。
そんな、少しだけ意地悪なことを。
「ねえ、何だか食堂、暑くない?」
合宿中の選手たちがそう言いながら入ってくる。
「でも、外より気持ちいいよ」
元気食堂は、
静かで、確かな温もりに包まれていた。
送り出す食堂 管理栄養士たか @takami8139
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