シャッターチャンス

辛口カレー社長

シャッターチャンス

「ダメだな……」

 パソコンの画面に映し出された、昨日撮影したばかりの写真データをスクロールしながら、俺は深く息を吐いた。

 被写体は公園のベンチで本を読む女性。光の加減も、構図も、露出も完璧だ。技術的な欠点は一つもない。誰が見ても「綺麗な写真」だと言うだろう。

 だが、それだけだ。

 そこには、魂を揺さぶるような「何か」が決定的に欠けていた。パッションと呼ぶべき熱量が、画面の向こう側から伝わってこない。ただそこに在るものを、光学的に記録しただけの画像データに過ぎない。

 俺はマウスを乱暴に操作し、その画像データをゴミ箱へと放り込んだ。

 右手の小指の感覚が、今朝からまた一段と薄くなっている。キーボードを叩く感触がそこだけ抜け落ちているような、酷く頼りない感覚だ。

 俺はデスクの端に置かれたマグカップに手を伸ばす。陶器の冷たさは、薬指と中指には伝わるが、小指に触れているはずの取っ手の存在感だけが欠落していた。


 ここ二週間、まともな仕事の依頼は一件も来ていない。フリーランスのカメラマンという肩書きこそ持っているが、現状は無職と大差ない。銀行口座の残高は減る一方で、逆に増えていくのは部屋の隅に積まれたインスタント食品のゴミと、俺の体を少しずつ蝕む、奇妙な「透明化」の症状だけだ。

 視線をデスクの奥へと移すと、そこには無骨で重厚なボディの古びた一眼レフカメラが鎮座していた。今のデジタル全盛の時代にはそぐわない、フィルムカメラだ。高校の写真部の部室で、いつも俺の隣にいた恋人、瑞葉みずはの形見だ。

 このカメラには、呪いとも奇跡ともつかない不可解な力が宿っている。それは、二度と戻らないはずの過去の「最高の瞬間」を、無理やり現在というフレームの中に引きずり出し、具現化させる力だ。

 例えば、十年前にこの世を去った猫が、一番気に入っていた窓辺で欠伸をする一瞬。あるいは、ずっと憎しみ合って別れた親子が、幼い頃に一度だけ心を通わせて笑い合った、その刹那の表情。

 それは未来予知ではない。過ぎ去った時間の中から、最も美しく、最も残酷な輝きを放つ一瞬を掬い上げ、物理的にこの世界へ定着させる荒技だ。

 シャッターを切ると同時に、その具現化は終わる。残るのは、被写体の魂そのものを焼き付けたような完璧な一枚の写真と、その写真を見た者の心に刻まれる、空っぽの感動だけ。

 その代償として、撮影した俺の体の一部が支払われる。体の中の水分が少しずつ抜けていくように、俺という存在の密度が薄まってしまうのだ。最初は足の爪先から始まったその感覚は、今や指先にまで及び、徐々に、だが確実に俺の輪郭を曖昧にさせていた。

 それでも俺は、このカメラを手放すことができない。この力こそが、今の俺の飯の種であり、瑞葉に対する、終わりのない贖罪しょくざいなのだから。

 俺がこの呪われた力を手に入れたのは、八年前の夏。瑞葉を失った、あの日からだ。


 俺の高校の写真部は弱小で、部員は俺と瑞葉の二人だけだった。放課後の理科準備室を改造した部室は、いつも古い木の匂いと、埃の匂いが充満していた。

まことはさ、いつも正解ばっかり撮るよね。構図も光も教科書通り。綺麗だけど、つまんない」

 瑞葉は現像された俺の写真を見ながら、よくそう言っていた。

「悪かったな。お前みたいにピンボケ写真ばっかり量産するよりはマシだと思うんだが」

 俺が憎まれ口を叩くと、瑞葉はケラケラと笑った。彼女の首には、いつも鮮やかな青いスカーフが巻かれていた。制服のリボン代わりにつけていたそれは、彼女のトレードマークだった。

「あのね、写真は『記録』じゃないの。『記憶』なの。もっと言えば、その一瞬に宿る『永遠』を切り取る魔法なんだよ」

 彼女はそう言って、わざと手ブレさせたような、光の軌跡が滲んだ写真を見せてくる。確かに技術的には失敗作だ。だが、そのブレた光の中には、被写体への溢れんばかりの愛情や、その場の空気の温度までもが封じ込められているような、不思議な引力があった。俺はいつも、その才能に嫉妬していた。


 八年前の夏の日。

 俺たちは隣町の河原で、夕日を撮る約束をしていた。その日は気象条件が良く、数年に一度レベルの美しい夕焼けが見られると予報が出ていた。

『ごめん、ちょっと補習が長引いちゃって! きっと最高の夕焼けだから、真だけでも先に撮ってて。最高のシャッターチャンス、逃しちゃダメだよ!』

 瑞葉からそんなメッセージが届いたのは、日が傾き始めた頃だった。

 俺は自転車を飛ばして河原へ向かった。到着した時、世界は燃えるような茜色と、夜へと向かう深い群青色に二分されていた。マジックアワーと呼ばれる、空と大地の境界線が溶け合い、あらゆるものが美しく染め上げられる、ほんの数分の時間帯だ。

 俺は息を呑み、夢中でシャッターを切った。

 ファインダーの中の世界は完璧だった。雲の形、光の反射、水面の揺らめき。全てが計算し尽くされた絵画のように配置されている。

 ――これが、俺の最高傑作になる。

 確信と共に、何度もシャッターを押した。

 その時、ポケットの中で携帯電話が震えた。きっと瑞葉からだ。「もうすぐ着くよ」という連絡だろうと思い、電話に出ると、電話口から聞こえてきたのは、無機質で事務的な、警察官の声だった。


「……もしもし? 携帯電話の履歴からかけさせて頂いております。青いスカーフを巻いた女性が、交差点で……」


 言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。理解した瞬間、世界から音も色も消えた。

 目の前には、依然として世界で最も美しい夕焼けが広がっていた。赤と青が交錯する、二度とない一瞬。

 俺はカメラを持ったまま、その場に立ち尽くした。

 美しい。あまりにも美しすぎる。だが、その美しさが、どうしようもなく憎かった。

 最高の被写体を前に、俺は人生で最も大切なものを失った。

 もし、あの時、俺があいつと一緒に残っていたら。

 もし、俺が「先に行ってる」なんて返信をしなければ。

 もし、待ち合わせの時間を十分だけずらしていたら。

 後悔が波のように押し寄せ、俺の心を冷たく塗り潰した。

 葬儀の後、瑞葉の両親から形見として彼女のカメラを譲り受けた時、俺の中で何かが決定的に歪んだ。

 ――二度と戻らない一瞬を、無理やり引き戻したい。

 その強烈な渇望が、この呪いのような能力を俺に与えたのだ。


 スマートフォンの着信音が、回想に沈んでいた俺を現実へと引き戻した。非通知の番号。この手の仕事の依頼は、いつもアンダーグラウンドなルートを通じてやってくる。

「……もしもし」

『西田真さん……ですね? 紹介を受けました。どうしても、お願いしたい写真があるんです』

 電話の主は、震える声をした老婦人だった。

 指定された場所は、創業百年を越える老舗の和菓子屋だった。暖簾のれんをくぐると、小豆の甘い香りと、線香の匂いが混じり合った独特の空気が漂っている。

 依頼主の女将は、奥の座敷で俺を待っていた。小柄で上品な人だが、その瞳は泣き腫らして赤く縁取られている。彼女の夫である先代の店主は、二週間前に急逝したという。

「笑った顔、ですか」

 出された渋茶を一口啜り、俺は依頼内容を確認した。

「はい。あの子が……孫の雅臣まさおみが最後に見たのは、主人に叱られている顔なんです」

 女将はハンカチを握りしめながら語り始めた。跡継ぎ修行中だった雅臣は、新作の和菓子を祖父に試食させた。だが、職人気質の祖父は「こんなものは売り物にならん」と一蹴し、激しい口論になったという。

「その翌日です。主人が、店で倒れたのは。あの子、ずっと自分を責めているんです。お爺ちゃんは自分のことを嫌いになったまま、失望したまま逝ってしまったって……」

 俺の仕事は、法外な報酬と引き換えに、そういう「心残りの隙間」を埋めることだ。死者の言葉を聞くことはできないが、死者が生前残した感情の名残を、写真という形で証明することはできる。

「分かりました。場所は?」

「いつも試食をしていた、裏の作業場です」

 案内された作業場は、使い込まれた道具たちが整然と並ぶ、静かな空間だった。窓から西日が差し込み、舞い上がる埃がキラキラと光っている。

 俺は瑞葉のカメラを構え、深く息を吸い込んだ。ターゲットは、孫の和菓子を食べた時の、祖父の本当の感情。

 目を閉じ、意識を集中させる。自分の中にある「時間」という概念のタガを外す。足首から力が抜け、存在が希薄になっていく感覚。その代償と引き換えに、視界の端から現実の色が剥がれ落ち、セピア色の過去の断片が浮かび上がってくる。


 ――見えた。


 作業台の前に座る、頑固そうな老人。その前に、緊張した面持ちで皿を置く青年。老人は和菓子を口に運ぶ。眉間に皺を寄せ、厳しい表情で咀嚼する。

 口論の場面だ。青年の顔が歪む。だが、俺が見ようとしているのはそこじゃない。もっと深く。言葉には出さなかった、心の奥底の反応だ。

 俺はさらに強く念じる。指先の感覚が消滅していく。すると、老人の背中から、もう一つの「影」のようなものが滲み出した。それは、彼が心の中で思い描いていた、本当の表情だ。

 老人は、口の中の和菓子の味に、目を見開いていた。その皺だらけの顔が、くしゃりと崩れる。


『こりゃあたまげた! 雅臣のやつ、いつの間にこんな腕を……』


 声は聞こえない。だが、その表情には、孫の成長を誇らしく思う心からの喜びと、愛情が溢れ出していた。


『今年の夏は、これで決まりだな。美味い、本当に美味いぞ!』


 そう言いたかったのに、照れ隠しと職人の厳しさが邪魔をして、言葉にできなかった一瞬。その「最高の一瞬」が、今、現実の作業場の空間にホログラムのように重なる。


 ――今だ。


 俺は震える指でシャッターを切った。カチリ、という重たい機械音が、静寂を切り裂く。その瞬間、老人の残像は霧散し、作業場には元の西日だけが残った。

 強烈な倦怠感が俺を襲う。膝から崩れ落ちそうになるのを、作業台に手をついて堪えた。

 背面液晶などないフィルムカメラだ。だが、俺には分かる。最高の写真が撮れた。

 数日後、現像した写真を女将に渡した。写真の中の老人は、作業場の光の中で、今まで見たこともないほど優しく、誇らしげに微笑んでいた。手には、孫の作った和菓子が握られている。

「ああ……あなた……」

 女将は写真に顔を埋めて泣いた。その隣で、孫の雅臣も肩を震わせていた。

 この写真一枚で、彼は救われたのだ。「祖父は自分を愛してくれていた」という確信が、これからの彼の人生を支える柱になるだろう。

 分厚い封筒に入った報酬を受け取り、俺は店を出た。夕暮れの街を歩きながら、俺は自分の右手を見た。人差し指の先が、半透明になっていた。向こう側の路面のアスファルトが、薄く透けて見える。

 報酬は手に入ったが、心の中には冷たい風が吹き抜けるような虚無感だけが残った。


 ――ああ、また誰かのためのシャッターチャンスを撮ってしまった。


 俺が本当に撮りたいのは、こんなものではない。

 青いスカーフを巻いた瑞葉が無邪気に笑う一瞬。あの日、河原で俺を待っていたはずの、彼女の姿だ。だが、俺の能力は、なぜか俺自身の願いのためには発動しなかった。どれだけ記憶を掘り起こしても、あの日の河原に行っても、瑞葉の姿だけは決して具現化されない。まるで、彼女自身がそれを拒んでいるかのように。


 季節が変わり、俺の体の透明化はさらに進行していた。

 次の大きな依頼は、殉職した消防士の遺族からだった。

「夫はこの家を建てた時、『ここで最高の家族写真を撮るんだ』って、張り切っていたんです」

 まだ若い妻は、二人の幼い子供を抱き寄せながら、完成したばかりの庭を指さした。

「でも、一度も写真を撮ることなく……あんなことになってしまって」

 依頼料は破格だった。俺の指の感覚がさらに二本分失われることを保証するほどの額だ。

「……集合写真ですね。引き受けましょう」

「はい。笑った顔で。さっきまで生きていたかのように……お願いします」

 俺は指定された庭の芝生の上に立った。

 空は、あの八年前の夏のように、やけに青く澄み渡っていた。その青さが、俺の網膜を焼く。

 カメラを構える。意識を過去へとダイブさせる。

 消防士だった男の、家族への想いを探る。

 彼の死の瞬間、あるいは出動前の緊張感。強烈な感情の波が押し寄せてくる。だが、俺が必要としているのは「ここ」での記憶だ。家が完成した日。彼はこの庭に立ち、未来を夢見ていたはずだ。


 ――見えた。


 真新しい芝生の上で、男が両手を広げている。真っ赤なTシャツを着た彼は、まだ見ぬ未来の家族の姿を幻視し、笑っていた。その笑顔は屈託のない、希望そのものだった。

 俺は妻と子供たちに位置を指示する。

「もう少し右です。ご主人は、そこにいます」

 見えない夫の気配を感じ取ろうと、妻が涙を堪えて微笑む。子供たちが、父親がいるはずの空間に向かって手を伸ばす。男の残像が、家族を抱きしめようとする。これが、彼が最も望んでいた瞬間。彼が生きていれば、必ず訪れたはずの未来の記憶。

 俺の指先は、もはや自分の皮膚の感覚を失い、カメラのシャッターボタンと一体化していた。命を削る音がする。


 ――カチリ。


 シャッター音は、薄氷が割れるように儚く響いた。

 完璧な写真だ。男の目は、愛する家族だけを見ていた。俺はその写真を妻に渡し、逃げるようにその場を去った。感謝の言葉も、涙も、もう見たくなかった。

 自分の体が希薄になればなるほど、他人の幸せの修復作業が、どうしようもなく虚しく、重苦しいものになっていく。

 俺は、他人の過去を美しくするために、自分の未来を売り渡している。


 ――瑞葉のカメラを使って。


 シャッターを切るたびに、彼女が「そんなことのために私を残したんじゃない」と泣いているような気がした。


 その夜、アパートの自室に戻った俺は、透明になりかけた指先で、受け取った報酬の束を触る。紙幣の感触は曖昧で、幻を掴んでいるようだった。

 体から力が抜け、静かに、そして激しく、涙を流した。それは、瑞葉を失った悲しみでも、仕事の重圧でもない。自らの存在が、誰かの心残りを埋めるための道具として消費され、透明なフィルムへと変わっていくことへの、どうしようもない恐怖と、呪いへの服従に対する、静かな抵抗の涙だった。熱を持たない冷たい涙は乾いた頬を滑り落ち、俺の希薄な存在を、一時的にだが、強く主張した。

 もう、俺は限界だった。

 アパートの部屋で、俺は瑞葉の名前を呼んだ。

「瑞葉……どうしてだ。どうして俺の前にだけは現れてくれないんだ」

 俺は瑞葉の写真を撮ろうと、あらゆる場所へ行った。初めてデートした映画館。二人で雨宿りしたバス停。彼女が好きだった図書館。だが、どこに行っても撮れるのは、ただの風景だけ。彼女の幻影すら現れない。

「俺は、お前に会いたいんだ。お前を撮りたいんだ。最後に、もう一度だけ……」

 俺は狂ったようにカメラを分解した。レンズを外し、マウントの中を覗き込み、底蓋を開ける。彼女の欠片がどこかに残っていないか、と。だが、そこにあるのは古びた機械の部品だけ。

 俺は分解されたカメラの残骸を抱きしめ、床にうずくまった。


 翌日、俺は吸い寄せられるようにして、街外れの古い水族館に来ていた。

 平日の昼下がり、館内に客はほとんどいない。俺は薄暗い展示室の奥、巨大な円柱形の水槽の前に座り込んだ。ここは、瑞葉が一番好きだった場所だ。

『クラゲってさ、生きてるようで、魂みたいでしょ? 心臓もない、脳もない。ただ水に漂って、光を透かしてる。時間に縛られてないみたいで、羨ましいな』

 彼女はよくそう言って、ミズクラゲの水槽の前で何時間も過ごしていた。

 青白い照明の中で、無数のクラゲがゆらゆらと舞っている。その動きは、スローモーションのように緩やかで、ここだけ時間の流れが違うようだった。

 不意に、水槽の中の青い光が、俺の目の前に集まり出した。それに呼応するかのように、クラゲの群れが一斉に、ある一つの意思を持ったかのように動き出す。そして、俺の手元で、分解して再び組み直したばかりの一眼レフカメラが震え出した。レンズが、水槽の青い光を吸い込んで強く輝く。


「瑞葉、やっと出てきてくれたのか」


 俺はカメラを構えた。命が尽きてもいい。この一枚が撮れるなら、俺は消えてもいい。

 そして、目の前の水槽の中に、それは姿を現した。だが、それは瑞葉の姿ではなかった。そこにあるのは、あの日、俺が河原で見た、そして逃してしまった、燃えるような赤い、完璧な夕焼けだった。

 水槽の水が、そのまま夕空に置き換えられたような光景。クラゲたちは、その夕焼け空を漂う雲のように、赤く染まって泳いでいる。

 そうか。これは、俺のトラウマそのものだ。瑞葉を失った後悔の象徴。美しくも無慈悲な、あの空だ。


『今、シャッターを切らないと、後悔するよ』


 その声は間違いなく、瑞葉の声だった。


「瑞葉!」


 全身の血液が逆流するような、強烈な感覚が全身を襲う。手足の先から、今度は腕、肩、そして胸へと、血液が隅々まで行き渡る。

 ――彼女は、俺にこの景色を撮らせようとしている。

 瑞葉の最も強い残像。それは、俺に最高の写真を撮ってほしいという、カメラマンとしての俺への、純粋で強烈な願いだったのだ。

 彼女は知っていた。俺が最後に撮った写真が、あの日、自分を見舞ってくれた完璧な夕焼けであること。そして俺が、その写真を「撮ってしまったこと」を憎み、後悔していることを。

 だから彼女は、再びそのチャンスを与えてくれた。この完璧な夕焼けを、今度こそ、心からの賞賛を持って撮れ、と。


 カメラのファインダーを覗く。

 完璧だ。息を呑むほどの美しさ。誰もがこれを「傑作」と呼ぶだろう。これを撮れば、俺のカメラマンとしての業は浄化される。


 ――それが、俺の望みなのか?


 瑞葉のいない世界で、この美しい夕焼けを撮ること。それが本当に俺の救いなのか?


 短い自問自答の後、俺は人差し指をシャッターボタンにかける。その時、俺の意識が、ファインダーの外側にいる、透けかけた自分自身の手に向けられた。

 骨まで透けて見える指。

 ――俺は、この手で何をしてきた?

 過去を掘り返し、死者の想いを慰め、生きている人間の時間を止めてきた。「後悔しないために」と言い訳をして、俺はずっと「今」から目を背けてきただけじゃないか。

「……いや、違うな」

 俺は目を閉じた。

「後悔なんかしない。俺が後悔するのは、お前を撮れなかったことじゃない。お前のいない世界で、過去ばかり見て、シャッターを切り続けることだ」

 俺は、ゆっくりとカメラを床に置いた。

 ――俺は生きる。

 お前がいない、この退屈で、色褪せていて、痛みに満ちた世界を。俺自身の足で歩き、俺自身の目で見て、俺自身の指でシャッターを切る。

 魔法なんか使わない、ただのカメラマンとして。

 俺がカメラを手放した瞬間、水槽の中の夕焼けが、激しく波打った。

 強烈な光が弾け、視界が真っ白に染まる。その光の奔流の中から、ふわりと人影が現れた。

 それは、完璧な笑顔でも、劇的な表情でもない。寝癖がついたままの髪。少し眠そうな目。写真部の部室で、いつも俺の隣に座っていた時の、あの何でもない瑞葉の顔だった。


『……やっとカメラを置いてくれたね。真』


 その声は、水槽のエアレーションの音のように優しく、俺の脳裏に直接響いた。

 彼女は微笑んでいた。

 俺に写真を撮らせるために現れたんじゃない。俺にカメラを「置かせる」ために、彼女はずっと待っていたのだ。俺が、過去というファインダーから目を離す、その時を。

 瑞葉は透き通る手を伸ばし、俺の頬に触れた。冷たくて、でも温かい感触。


『大丈夫。最高のシャッターチャンスは、いつだって、ここから始まるんだよ』


 瑞葉の指先が、俺の透明になりかけた輪郭をなぞる。その軌跡に沿って、俺の体に熱と色が戻ってくるのを感じた。


 ――カシャ。


 俺が触れてもいないのに、床に置いた一眼レフが、勝手にシャッターを切る音がした。それが、最後の合図だった。光が収束し、水槽は元の静寂な青に戻った。瑞葉の姿も、夕焼けも、すべて消え失せた。

 俺はその場に崩れ落ち、ただ、泣いた。俺の体からは、あの奇妙な浮遊感も、透明化の症状も、完全に消え失せていた。指先には、冷たい床の感触がしっかりとある。


<真の最高のシャッターチャンスは、これから撮る、未来の一枚だよ>


 その言葉に、俺は声を殺して泣いた。涙が止まらなかった。過去の幻影を追いかけ、死者の時間に囚われていた。でも、瑞葉は俺に、「今」を生きろと、未来の光を撮れと、自らの残像と引き換えに、俺を呪いから解き放ってくれたのだ。


「ありがとう、瑞葉……」


 それから、俺は平凡なカメラマンになった。あの魔法のような力は、もうない。なくていいんだ。

 力を失ってからの数か月は、リハビリのような日々だった。体は元の重さと色彩を取り戻したが、法外な報酬を得ていた仕事はもうできない。生活は苦しくなり、安い仕事を掛け持ちする日々に戻った。スーパーのチラシ撮影、七五三の記念写真、地方紙の取材。かつては「退屈だ」と見下していた仕事の数々。だが、不思議と心は軽かった。


 ある雨上がりの午後。

 俺は機材を抱えて、アパートへの帰り道を歩いていた。ふと、足元の水たまりに目が留まった。雨上がりの汚れたアスファルト。泥混じりの水たまり。そこに、雲間から差し込んだ夕日が、一瞬だけ反射した。

 黄金色に輝く光の輪郭。その横を、黄色い傘を差した子供が走っていく。水しぶきが宝石のように跳ねる。

 ――ああ、綺麗だ。

 それはほんの一瞬で、すぐに消えた。以前の能力があれば、この光景を永遠のものとしてフィルムに焼き付けられただろう。でも、今はもうできない。この瞬間は、二度と戻らない。

 だからこそ、尊い。

 俺は、衝動的に新しい一眼レフを構えた。構図なんて考える暇もない。露出もオートだ。ただ、心が動いた瞬間に、指が動いた。

 ――カシャ。

 乾いたシャッター音が、路地に響く。背面液晶を確認する。そこに写っていたのは、平凡な水たまりと、ブレた子供の後ろ姿。ピントは甘いし、水平も取れていない。かつての俺なら、即座に削除していただろう失敗作。

 瑞葉が撮りそうな、下手くそな写真。

 だが、その写真を見た時、俺の胸に、静かで温かい熱が広がった。これは、誰かの心残りを埋めるための写真ではない。俺が、俺自身の心で「美しい」と感じ、俺自身の指で掴み取った、新しい「今」の証だ。


 最高のシャッターチャンスは、奇跡や魔法の中にあるのではない。

 それは、この退屈で平凡な日常の中に、ひっそりと潜んでいる光を、自分自身の目で見つけ出し、愛おしむという行為そのものの中にある。


 雨上がりの風が吹いた。ふと、どこからか青いスカーフが揺れるような気配がした。

 俺は空を見上げる。雲の切れ間から覗く空は、あの日のように、どこまでも高く、青かった。

 俺はカメラを握り直し、歩き出す。ファインダーの向こうには、無限の「これから」が広がっている。

 いつか俺が心から納得する、人生最高の一枚が撮れた時。それが、瑞葉への本当の返事になるはずだ。

 俺は、そう信じている。


(了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

シャッターチャンス 辛口カレー社長 @karakuchikarei-shachou

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画