背中の記憶
ぼくは、ランドセル。
今は押し入れの奥、古い毛布の下で眠っている。
光は届かないけれど、音は聞こえる。
階下から響く笑い声、電子レンジの「チン」、
そして、あの子の声。少し低くなった、あの声。
かつて、ぼくは毎日、彼の背中にいた。
朝の眠そうな肩にかけられ、
玄関のドアが開くたびに、ぼくの中に風が入った。
春の花粉、夏の汗、秋の落ち葉、冬の白い息。
全部、ぼくの中に詰まっていた。
教科書、ノート、折れた鉛筆、友だちからもらった手紙。
ときどき、こっそり持ち帰った石ころや、
先生に見つかったら怒られるような、秘密のメモも。
ぼくの中は、彼の小さな宇宙だった。
雨の日は、カバーをかけられて、
「濡れないようにね」と言われた。
でも、彼の靴下はびしょびしょで、
ぼくの底も、よく泥だらけになった。
それでもいいと思っていた。
だって、ぼくは彼の一部だったから。
六年間、ぼくは彼の背中で、
たくさんの景色を見た。
ランドセル同士でぶつかり合った放課後の帰り道、
運動会の朝、緊張で少し震えていた肩、
卒業式の日、彼の背中は、少しだけ重たかった。
それは、ぼくのせいじゃない。
たぶん、時間の重さだったんだと思う。
卒業してから、ぼくは一度も外に出ていない。
彼は中学生になって、違うカバンを持つようになった。
制服のポケットに手を突っ込んで、
ぼくのことなんて、もう思い出さない。
それが、成長というものだと知っている。
でも、たまに、彼が押し入れを開けるたび、
ぼくは少しだけ期待してしまう。
「久しぶり」と言ってくれないかなって。
この前、彼の弟がぼくを見つけた。
「これ、なに?」と聞いた。
彼は笑って、「昔の俺のランドセル」と答えた。
その声には、少しだけ照れと、少しだけ誇りが混ざっていた。
ぼくはそれだけで、十分だった。
ぼくは、もう背中に背負われることはないかもしれない。
でも、ぼくの中には、あの六年間が詰まっている。
転んで泣いた日も、初めて「ありがとう」と言われた日も、
全部、ぼくの内ポケットにしまってある。
だから、今日も静かにここで待っている。
誰かが、またぼくを開いてくれるその日まで。
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