Chapter.5
野球から離れて少し経った頃、じいちゃんが遊びに連れて行ってくれたことがあった。親父がもらってきた遊園地の一日パスポートを使って、じいちゃんをジェットコースターに乗せるわけには行かないから観覧車に乗ったのをよく覚えている。
その帰り道、絵の展示会がやっていると言ってじいちゃんは寄っていくかと俺に尋ねた。これはじいちゃんの気まぐれで、それに俺は頷いて、中に何があるのかも分からないまま会場に入っていった。
一枚の絵に心を奪われた。まったく同じこの子はもうどこにもいない。この瞬間が収められているのだと思った。その絵の前から動かない俺に、じいちゃんは明日また来ようと言ってくれた。
展示会へ通い詰めて一週間が過ぎ、開場期間ももう終わろうとしていた。じいちゃんは事前に係の人に交渉していたらしく、その絵の写真を一枚だけ撮影してくれた。現像されたその写真を受け取った時、じいちゃんはこんなことを言っていた。
「これは大事な写真だから、大切にとっておきなさい。このカメラもいずれ蒼壱にやるから、いつかまたこの絵に会えたら写真を撮ってみるといい」
じいちゃんの言葉の意味は分からなかった。でもその写真は俺の大切なものになった。
今度は絵の写された写真を眺めるようにって、写真そのものに興味を持った。あの絵を描いた人のように描き移すことはできなくても、その瞬間をカメラに収めることはできるはずだ。バイト代で初めて買ったカメラは老舗メーカーの最新式だった。凝り性の親父が助言してくれたもので、俺はそのカメラでたくさんの写真を撮った。
あの日、じいちゃんから譲り受けたカメラを持っていたのは偶然だった。何かが起きるという予感があったわけでもない。レンズから空を覗いて、校舎やグラウンドを見ていた。その延長線上にあった外階段の踊り場。そこに風が吹くみたいに誰かが現れた。夏の始まりの温い風を気持ちよさそうに受けたそいつは、遠くを眺めた後ゆっくりと目を瞑った。染められた髪の毛は風を受けて流れ、日差しを吸ってきらきら輝いていた。綺麗だと、そう思った。
視線が合ったのは思わずシャッターを切ったその瞬間だ。体の奥から震えるような衝撃におそわれる。今目の前にいるのは、あの絵の、あの写真の中の、あの子じゃないか。思い出の中の記憶が現実として目の前に現れたのかと動揺した。諦めと罪悪感と、希望と、どうしてか分からず騒ぐ胸の鼓動と。固まってしまった俺に、心底驚いたような顔をしてその生徒は口を開いた。
「なに撮ってんの?」
飽きるほど見つめたその少年の、声を聞くのは初めてだった。
「随分、派手に壊したもんだな」
持ち込まれた古いカメラをまじまじと見つめながら、目の前に座るその人は言った。
「ごめん」
「いい、いい。ちゃんと直すツテはある」
からからと気持ち良い笑い声が和室に響いた。年齢は七十を過ぎているというその老人は、笑うともう少しだけ若く見える。遼太は蒼壱と並んでその老人に向かい合って座っていた。
「じいちゃんがくれたもの壊して、本当にごめん」
「そんなこと気にするな。俺がこれを何度壊したと思ってる」
そう言って目の前の老人、もとい蒼壱のじいちゃんはまた楽しそうに笑った。
「生きてるのかよ……」
遼太の呟きはどちらにも聞こえないまま空中で消えていった。
「このカメラってさ……」
「どういう理屈なのかは俺にも分からん。俺もこのカメラは人からの貰い物でな」
蒼壱の祖父はカメラを見つめながら、何かを思い出すように目を細めた。
「このカメラでシャッターを切ると昔に戻れる。でもただ撮るだけじゃ駄目だ。その時にこのカメラで撮った写真と、その写真に関わる何かを持っていたらその頃に戻るんじゃねえかと思う」
初めて会った時、最初の一枚は遼太に触れないまま撮影されたがそれでは過去には戻らなかった。蒼壱が遼太を描いた写真を持っていたこと、その描かれていた遼太と触れ合っていたことで起きたことなのかもしれない、というのが蒼壱のじいちゃんの結論だ。
「おかげで俺もフランスとロンドンには何回も言ったぞ。お前も若い内に色んなところに行って写真を撮っとけよ」
和室に似つかわしくないエッフェル塔の置き物に視線投げかける。それを持って過去のフランスに戻る蒼壱の祖父を想像していると、突然蒼壱の祖父と目が合ってしまった。慌てて姿勢を正した遼太に、その目は優しく向けられた。
「蒼壱の後悔は野球のことだと思っていたけど、そういうわけでもなかったんだな」
そう言いながら笑う顔は蒼壱とよく似ていた。やはり蒼壱が物や人を大切にするのは、このじいちゃんが大きく影響しているのだろうなと、困ったように笑う蒼壱を見ながらそんなことを思った。
「五年前のじいちゃんは県外の病院で面会もできないって言ってなかったか?」
蒼壱の祖父の家から帰る道すがら、遼太はそう言って恨めしげに蒼壱を睨んだ。
「でかい手術したんだ。その後はしばらく面会できなくて、でもすぐに退院した。五年前の展示会の時にはもう元気だったよ」
「じいちゃんに会いたいって……」
「そりゃ会いたいよ。一人暮らしになって長いから今もよく顔出すんだ」
「形見みたいな言い方すんなよ」
「してない。早瀬が勝手に勘違いしただけ」
平行線の言い合いを先に諦めたのは遼太だった。まあ、生きていたのならそれでいい。カメラも直せると言っていたし、すべてが丸く収まったような気もする。
「これ」
蒼壱はそう言うと一冊のアルバムを取り出した。めくるように促されて遼太は表紙を捲った。
一枚目は驚いた顔の遼太。背景は校舎で、二枚目はスマートフォンを持った手でピースを作る遼太。ページをめくるたびに確信する。これは過去に戻る時、蒼壱がカメラで撮影した写真だ。そして最後の写真は、涙に塗れた遼太の顔だ。こんな顔をしていたのかと恥ずかしくなったが、その顔を遼太は美しいと思った。造形とかそういう意味ではなく、きっと視線の先にいるのが蒼壱だったからだ。
「いい写真だな」
蒼壱の写真が好きだ。ちゃんと記憶が閉じ込められていて、それが遼太の心を満たしてくれる。心からの称賛の言葉だったのだが、蒼壱は浮かない表情で遼太を見つめていた。
「どうした? 俺は本当にそう思って……」
「聞きたかったんだけどさ」
そう言って蒼壱は顔を歪めた。
「田中のことが好きなのか?」
「は……? そりゃ好きではあるけど……」
ふと遼太の足が止まる。つられて蒼壱の足も止まった。遼太の頭の中で今までの出来事が早回しのように流れていく。それは主に、田中について遼太が口にした時のことだ。絵画教室の教師と生徒。今は高校の教師と生徒で、未だにデッサンモデルをする間柄──
「ちっげーよ!」
遼太の叫んだ声にも顔色ひとつ変えず、蒼壱はいつもの調子で遼太を見つめていた。
「俺が男が好きで、その相手が田中だって言いたいのか!?」
「だってそうだろ。じゃなきゃどうしてデッサンモデルなんて引き受けてるんだよ」
「支倉、違うって。自分が何言ってるか分かってるか?」
「違わない。お前が小学生の頃から懐いてて、今でもモデルを引き受ける教師がいることは事実だろ」
そう言って歩き出した蒼壱に慌ててついていく。饒舌になった蒼壱は、田中と遼太のことを咎めるように言葉を並べ立てて。こちらと目も合わせようともしないその姿に、遼太は半ば呆然として口を挟むことができなかった。
「美術準備室で、ああいうの学校でやるのはよくないだろ。そもそも絵画教室に通ってる小学生の教え子をモデルにするなんて、あんまり言いたくないけど変だからな」
「いや、それは……」
「もしかして自分の気持ちに気づいてなかったのか? 大切なことに気づけて良かったな」
そのひと言にさすがに遼太も声を荒げた。
「だから! 田中は俺のいとこなんだって!」
ぴたりと蒼壱の足が止まり、ようやく遼太と視線を合わせてくれた。挑発するような態度は大人しくなり、今なら遼太の話をちゃんと聞いてくれそうだった。
「いとこ! 親戚! 正月には集まるし俺の高校の入学祝い買ってくれたのも田中で……遼一兄ちゃんって、昔は呼んでたんだけど、絵画教室だって遼一兄ちゃんがアルバイトしてるからそこに通ってたんだ」
年の離れたいとこが遊びに来ると、俺の顔を書いてとよくねだっていた。気まぐれに描かれただろうその中のひとつが作品になり、展示会に飾られ、それが蒼壱の目に留まった。それがなければ自分たちは今こうして話すこともなかっただろう。
「だから支倉が考えてるようなことは何も起きないし、いや何を考えてるのかは知らないけど……これからも田中と俺は変わんないの! 普通! 普通にするからな!」
そう言って詰め寄った遼太の顔をじっと見ていた蒼壱は、すべてを理解したようにゆっくり右手で顔を覆って俯いてしまった。その姿が情けなくて、遼太の語気も自然と緩んでいく。
「綺麗だと思ったんだ……」
蒼壱はぽつりとそう言った。
「だから、描いた奴もそう思ってるんじゃないかって……」
「田中は絶っ対に思ってない。いや、もう気にするなよ」
遼太の励ましにも蒼壱は顔を上げなかった。他に励ます言葉はないかと思考を巡らせたが、ろくなものが浮かばなくて遼太は天を仰いだ。遼太が田中の名前を出す度に、蒼壱はふたりの関係を想像して悩んでいたのかもしれない。遼太と話している時も、笑っている時も、ずっとそのことが気にかかっていたのだろうか。もうそれは、友達という感情だけで片付けられものではないだろう。
「支倉ってさ、俺のこと好きなの?」
視線を逸らしながらできるだけさりげなく、明日の天気を尋ねるくらいの気持ちで問い掛けた。否定するなら明日からも友人だし、肯定するなら……まだ何も考えていないが、それはその時考えればいい。しかし一向に蒼壱からは何の返事も返ってこない。痺れを切らして蒼壱の方を見ると、蒼壱はぽかんとした表紙で遼太のことを見つめていた。
「……何?」
「いや……考えたことなかった……俺が、お前のこと……?」
「考えたことないって……支倉って、好きでもない奴のために休み潰したり、俺に色々してくれてたのか?」
それはお人好しすぎるだろうと呆れると、蒼壱は首を横に振った。
「違う。嫌だったらそんなこと……え、あ……?」
またぽかんとした表情に戻った蒼壱の視線は髪から額、目へと降りて、遼太と見つめ合う。
「俺……早瀬のこと好きなのか……?」
蒼壱の言葉の意味を理解し、遼太は何だか無性に笑い出したくなった。
「大事なことに気づいて良かったな、支倉!」
「やめろ。調子に乗るな」
「なんだよ、照れるなって。キスしてやろうか」
「いい。やめろ。早瀬、ほんとふざけるのは……」
「いいよいいよ。お前にやるから」
そうからかった唇が、尚も抗議しようとする唇にぶつかる。こんな日が来るのなら可愛い女の子とだと思っていた。それは蒼壱だってそうかもしれない。でも抵抗しようとしていた手が大人しくなって、諦めたように遼太の腰を抱き寄せたのだからもうこれで満足だった。誰かを受け入れる気持ちの良さと、受け入れてくれる心地よさを教えてくれたのは他でもない、目の前の蒼壱だ。過去も未来も、出会いも明日もこれからも、もうそれで良かった。揺れた指先がいつものように繋がれる。シャッターを切る音はいつまでたっても鳴らなかった。
こいつの腕になら抱かれてもいいと思った日のことを思い出す。あの日の空は夕暮れで、オレンジと紫の混じった地平線が綺麗だった。蒼壱が撮ってくれたコンクールの日の空は、まだらな雲が広がる薄水色だった。どんな日でも空は広がっていて、その隣には蒼壱がいてくれればそれでいい。
誰が興味あるんだっていう、記録と思い出。それが重なって、いつか見返すことがなくなって、どこにあるのか分からなくなっても、今日の空が青かったことだけは覚えていたいと思った。
君はいつかのデラフトブルー 明星 @kira_akhoshi
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