Chapter.4
夏休み前の最後の登校を終えた遼太は、市内にある図書館に訪れていた。テスト期間の終わった今は静かなもので、遼太も滅多に立ち寄ることはないのだが、今日は明確な目的があるのだ。
蒼壱の家を訪れた時、リビングの写真の中には額に入った新聞の記事が飾られていた。蒼壱について書かれているのだろうと考えて、そういえば小学生の頃、自分が生まれた日の新聞を読もうという授業があったことを思い出した。図書館へ来れば過去の新聞記事が読めることを知ったのはその時だ。リビングに飾られていたのは地元の新聞だったから、それならばインターネットで検索するよりもこちらの方が確実だ。
目星をつけてそれらしい日付の地元の新聞紙をいくつか借りた。それを三回繰り返し、ようやくひとつの紙面で手が止まる。市内の活躍する学生を特集するコーナーに見覚えのある顔があった。グローブをつけさせられ、カメラに視線を向けて立たされた表情はぎこちなくい。仕方なく笑ったような顔だ。リビングに飾られていた他の写真はすべて真顔だったことを思い出し、遼太は思わず笑いそうになった。
「……支倉、蒼壱くん」
写真の横に書かれた名前を呟く。間違いなく蒼壱の名前だ。写真を挟んだ反対側には蒼壱について詳しいことが書かれている。野球は八歳の頃に、両親の勧めで始めた。身長はすぐに同世代よりも高くなり、体格にも恵まれて肩も強い。ポジションはピッチャー。生まれ持った天性の才覚。それが備わっていると、蒼壱は思いつく限りのあらゆる言葉で褒められていた。
「すげえ期待されてんじゃん……」
蒼壱は野球が楽しくなかったわけではないのだと思う。こうして期待までされた人間が、そのすべてを捨てて生きていることが不思議だった。持っていないものの僻みと言われればそれまでなのだが、その理由を知りたいと遼太は思った。
制服のポケットが振動し、連絡が入ったことをスマートフォンが知らせる。差出人の名前を見て、どきりと胸が鳴った。それは蒼壱からだった。
蒼壱に指定されたのはふたたび日曜の午後。もう夏休みなのだから会うのなら平日でも良いと言ったのだが、写真を撮るからと言われて過去に戻るために落ち合うのだと理解した。指定されたのは市営のグラウンドだ。今日も少年野球のチームがボールを追いかけている。遼太の姿を見つけた蒼壱はすぐさま遼太を物陰に引っ張っていった。
「ここで何が起きるんだ?」
スマートフォンをちらちらと覗き込みながら、蒼壱はもう少し待てと遼太を制した。蒼壱の覗き込んでいる画面は何でもない、初期設定のままのロック画面がずっと映されているだけだ。蒼壱は時間を気にしていて、それはその時間に何かが起こるということなのだろう。
「そろそろ教えろよ。何が起こるんだ?」
遼太の問いかけにも蒼壱は簡単な相槌でしか答えてくれなかった。付き合ってくれと頼んできたのだから、少なからず蒼壱に関係していることなのだろう。少し遠くなったグラウンドでは小学生たちが元気に走り回っているのが見え、遼太は地元新聞の記事のことを思い出した。
「俺、新聞読んだよ。地元の、支倉が載ってるやつ」
「え?」
「あ、いや、悪いと思ってる。支倉ん家のリビングに飾られてたの見て、それで気になって市立図書館に行って……」
素っ気な調子で返されると思っていたのだが、蒼壱は驚いたような声を上げて遼太をじっと見ており、何だか途端に申し訳なくなってしまった。
「こそこそして悪かったよ」
「いいよ、何も言ってないだろ。どうしてそんなことしたんだ? いや、責めてるわけじゃない」
どうしてと聞かれると遼太も分からなかった。ただ蒼壱のことを知りたいと思ったのだ。しかしそれを口にするのは何だか憚られた。
「……興味があって?」
「野球に?」
「いや、まあ、そう……」
蒼壱はリュックからカメラを取り出した。どうやら蒼壱の戻りたい時間が迫っているようだ。
「期待された野球少年って感じで、かっこよかったよ」
「そう良いもんでもないよ」
蒼壱はそう言って遼太に手を差し出した。その手は小さく震えていて、何かを怖がっているようだった。
「早瀬は前に言ってたよな。五年前の早瀬を見に行った時、変な奴だと思っただろって」
「ああ……」
「今日、五年前の俺を見たらそうなるのは早瀬だ。たぶん、幻滅すると思う」
ようやく、蒼壱がなぜいつもと違うのかを理解した。蒼壱は怯えているのだ。過去の自分と、自分に起こった出来事に。
「しないよ。しないと思う」
震える手を、遼太はしっかり包み込んだ。怯えていても蒼壱の手は温かく、触れた遼太の心の奥も温かい気持ちに溢れていく。大丈夫、大丈夫だ。そんな気持ちを込めて蒼壱の手を強く握った。
「俺、お前のことちゃんと見てるよ。だから大丈夫」
強い日差しは容赦なく照りつけて暑い。緊張で蒼壱の手が冷えてしまわないように願いながら手を重ねる。蒼壱は息を呑んで、遼太に向けてシャッターを切った。
キーンというボールを打つ気持ち良い音が辺りに響いた。前にものこんなことがあったなと周囲を窺うと、グラウンドには人が集まっていた。
「今のホームラン?」
「いや、違うと思う」
目立たないようにグラウンドへ近づきながら、遼太は注意深く辺りを窺った。グラウンドには先ほどとは違うユニフォームを着た少年たちがいて、母親と思しき集団も一箇所に固まっていた。どうやらここで試合が行われているようだった。
赤い線の入った方のユニフォームには見覚えがある。写真の中の蒼壱が着ていたものと同じだ。バッターから少し離れた場所にしゃがんでいた少年が立ち上がる。バッターボックスに立っている少年よりも背が高く、がっしりした体格をしているように見えた。表情の少ない顔のままヘルメットを被り直す彼は、小学生の頃の蒼壱だ。
「俺が次のバッター。投げてるのは何回か試合したことあるピッチャーで、ポジションも同じだし、お互い何となく意識してた」
相手ピッチャーは背こそ蒼壱より小さかったが、なかなかの体格に恵まれている。真面目な野球少年といった感じだ。
「それであの球が肘に当たって、俺は怪我をするんだ」
振り被った相手ピッチャーの球は気持ちの良い音を立ててキャッチャーミットに吸い込まれていった。
「……やばい怪我?」
「肘が曲がらなくなる。一時的にだけど」
淡々と答える蒼壱はなぜか他人事だ。肘の怪我はピッチャーにとって致命的ではないのだろうか。
「それを止めるのか? どうやったらタイムになる? あ、野球ってタイムあるんだっけ!?」
「落ち着けよ。そんなことしなくていい」
蒼壱はまたマウンドに立つ十二歳の自分を見つめた。緊張はしていないようだが、これから起こることを考えると遼太はどうしても落ち着くことなどできなかった。
「肘の怪我が原因で俺は野球は辞める。中学に上がったらそんなこと無かったみたいにバスケ部に入るんだ。通ってた中学で一番緩い運動部だったから」
蒼壱が話しているのは蒼壱自身のことのはずだ。それなのにまるで、知らない少年の話をしているように聞こえる。蒼壱の言葉の意図が掴めず、遼太はただ黙ってフェンスの向こうにいる蒼壱を見つめた。
「あ……!」
ピッチャーの投球は真っ直ぐだったはずだ。けれどボールがピッチャーの指に引っ掛かった。手を離れた球は妙なカーブを描き、そして蒼壱の腕に当たった。鈍い音とともに母親たちの悲鳴が上がる。蒼壱は痛みに顔を歪めていたが、決して膝をつこうとはしていなかった。
「あいつが今、何考えるか分かるか?」
十二歳の自分に人が集まっていくのを、蒼壱はただじっと見つめていた。
「ああ、これでもう野球しなくていいんだって。そう思ってる」
かつての自分から視線を逸らすことなく、蒼壱はそう言った。
うずくまっていた十二歳の蒼壱は、チームメイトに支えられながらバッターボックスから去っていった。
「誰にも言ったことない。だから秘密な」
蒼壱の手が遼太の手を掴み、遼太が蒼壱と視線を合わせた瞬間にシャッターが切られた。また遼太は、それをぼんやりと見つめることしかできなかった。
「もともと肘は調子悪かったんだ。野球肘、って分かるか?」
右手でボールを投げる仕草をした蒼壱はそう言って遼太を見た。五年前から戻ってきたふたりは、商店街のファーストフード店で昼食を取っている最中だ。
「聞いたことはある」
「俺の肘は軟骨がすり減ってて、今も調子は良くない」
また球を投げる仕草をしてから、蒼壱は自分の右肘にゆっくり触れた。
「まだ痛いの?」
「いや、たまにかな。体調と天気に寄る」
ボールがぶつかる前からおかしくなっていたんだと、蒼壱は静かにそう言った。
「ちょうど良かったんだ」
蒼壱がまた小さく拳を握る。自嘲するその姿に、遼太は自分の心に靄がかかっていくのを感じた。遼太がひしゃげた紙のストローを噛むと、中に残った氷がカランと音を立てた。
「相手のピッチャー、可哀想だったな」
ぽつりと呟いた遼太の言葉に蒼壱は驚いたようだった。
「相手ピッチャーはあの後、俺に謝りに来て、大丈夫だってちゃんと伝えた。野球も続けてほしいし、何も気にするなって」
「それでも責任は感じるだろ。支倉は皆が注目する同じ歳の選手なんだから、そいつの選手生命ってやつ? それを終わらせたのが自分なんだって一生何かあるたびに思い出すと思う」
あの相手ピッチャーのギラギラとした目には焦りも滲んでいた。自分より優秀な相手に少しでも勝ちたいと思うその気持ちは、遼太には痛いほど分かる。
「支倉は気にしすぎないところが良いところだと思うよ。でも支倉が気にもしないことで病んじゃう奴もいるんだって」
支えられて去っていく蒼壱を、相手ピッチャーは呆然と見送っていた。遼太にだってあの少年が実際何を考えていたのかは分からない。けれど動くこともできずに立ち尽くす姿に、誰か駆け寄ってやってくれと思わず願ってしまった。
「考えたことなかった」
蒼壱は膝の上で組んだ自分の手を見つめながら、考え込んむように俯いた。
「そいつは今も野球やってるんだ。だからちゃんと、気持ちの整理がついたんだと思ってた」
「いや、色々言ってごめん。俺が勝手にそう思っただけで……そいつはそんなこと全然思ってないかも。それに、これはそいつの問題だから支倉が気にすることじゃないよな……変なこと言って悪かったよ」
持っていたドリンクを置いてひとつ息をつく。蒼壱の目の前のハンバーガーはひと口も減っていない。蒼壱の心はまだ晴れてはいないようだ。
「野球、嫌だったのか?」
蒼壱に幻滅などもちろんしないが、遼太は蒼壱がなぜ野球をやめたがっていたのかというところは聞けていない。蒼壱は顔を上げると自分のドリンクを一口飲んだ。
「何か習い事をさせたいって親は思ってたみたいで、八歳の時かな…いくつか試したんだ。その中で野球に向いてるって特別褒められた。それが俺の才能なんだって、親も俺もそう思ってた」
「実際そうだったわけだろ? でも期待されて嫌になった?」
「チームの中での温度差みたいなの、感じたんだ。俺は野球は好きだけど熱中できなかった。でも体はでかくなって背も伸びるし、やっぱりお前には才能があるってまた期待されて……」
そこまで話して、蒼壱は黙った。その沈黙は永遠にも感じたが、遼太はただ静かに蒼壱がふたたび喋り出すのをじっと待った。
「皆が期待するほど好きじゃなかった」
ようやく言葉が絞り出され、蒼壱ははくはくと唇を動かし、それから頭を抱え俯いた。
「初めて言った……」
「そんなに落ち込むことないって。やめて何年も経つんだろ」
「言ったら皆を傷つけるって思ってたから」
蒼壱は相手ピッチャーの抱えたかもしれないものを、考えたこともなかったと言っていた。けれど期待がどれだけ蒼壱のことを傷つけたのかを遼太も考えてやれなかったのだと後悔した。
「俺は〝将来有望な支倉蒼壱くん〟を知らないから、野球が好きじゃないって言われても傷つかないよ」
すっかりひしゃげた紙ストローでドリンクを掻き回す遼太の言葉に、蒼壱はようやく顔を上げてくれた。
「ありがとう」
悲しそうに笑う蒼壱は、まだ心の整理が必要なのだろう。ふと、自分は蒼壱にありがとうと言ったことがないと、そんなことを思った。
夏の日差しが容赦なく照りつける。夏休み中の校舎はひどく静かだ。運動部は汗を流しながらグラウンドや体育館を駆け、文化部は冷房の効いた室内に籠もって出てこない。遼太は遮るもののない外よりはいくらかマシで、教室から漏れる冷房のわずかな恩恵を受ける廊下を歩き、美術準備室に向かっていた。デッサンモデルとして久しぶりに田中に呼び出されたのだ。
ドアにつけられた窓から中を覗き込むと、田中はひとりで道具の整理をしていた。何も言わずにドアを開けると田中は驚いた顔をしたが、すぐに教師の顔になって「ノックをしろ」と遼太を咎めた。
「美術部は?」
「午前で終わらせた。お盆休みが明けたら忙しくなるからな」
そういえば去年の今頃も、美術部は文化祭の出展準備で慌ただしくしていた。一方、硬式テニス部は見事快進撃を続け、全国大会へと駒を進めている。
「テニス部、凄いじゃん。五年前より既に良い成績だってクラスの奴らも喜んでる」
「ほんとにな。あいつら凄く頑張ってるよ」
人がいないと半ば無理やり充てがわれた顧問業だったらしいが、今の田中は硬式テニス部の顧問であることに楽しさを見出しているようだった。
「まあ、顧問としては嬉しいけどさ。それはそれとして息抜きも必要だ」
座るように促され、遼太はいつもの場所に腰掛けた。窓に近いこの場所は、モデルをしている間も空を眺めることができる特等席だ。今日の空は突き抜けるような高い青で、飛行機雲の通った跡が点々と残っていた。
「なんで空を描けって言ったの?」
「ん? 何だよ、突然」
スケッチブックを開いた田中はこちらを向くよう遼太に指示を出す。言われたとおりに遼太は田中へ顔を向けた。
「そうだなぁ……人とか思い出とか、描かなきゃいけないものが多すぎるテーマはお前には難しいんじゃないかと思ったんだ」
「そう、俺の絵は下手ってことだよ」
「違う。得意と不得意の話だ。お前はごちゃごちゃした景色を描くより、何かひとつを大きく描いた方がいい。カブトムシの絵を描いてたよな。あれはよく描けてた」
苦笑しながら遼太はふたたび窓の方を向いた。ありもしない思い出のカブトムシの話はいつだって遼太を憂鬱にさせたが、今は少し誇らしくも感じている。そんな自分に驚きつつ、観覧車での蒼壱とのことを思い出した。
「単純なものっていっても教室の中だとデッサン用の球体くらいしかなかったから、そういうのにお前が興味を持つとは思えなかったし」
だから空だったのだと、そう言って田中も窓を見上げた。今日の空は晴天とはいかないけれど、地平線の色を少しだけ青白く変えている。まだらに散る小さな雲を、搔き分けるように伸びた飛行機雲はまだ消える気配がない。今日の空も綺麗だと、遼太は思った。
「あとはもっと単純なことだけど……」
田中が可笑しそうに笑ったので、遼太は不思議そうに田中に顔を向けた。
「お前、よく空を見てたよ。何に惹かれてたのかは分からなかったけど、興味が持てるものは大切にした方がいい」
興味が持てるもの。遼太にとってのそれは何だったか。空を見ることや絵を描くこと。そして──
「支倉とは仲良くやってるか?」
「え? ああ、うん……何、突然」
「別に? あいつは良い奴だよな。人も物も大切にできる良い生徒だと思うよ」
頭の中を見透かされたのかと思うほど、タイミングよく蒼壱の名前が出て遼太は驚いた。田中はそれ以上は何も言わず、スケッチブックに向き合い始め、美術準備室に静かな時間が訪れる。遼太はまた、考え事の続きに戻っていった。
出会ってからの短い間で、蒼壱はたくさんのことを遼太に教えてくれた。遼太が気づきもしなかったことに気づけるようになったのも、周りの目は気にするなと励ましてくれるのも、無理に踏み込んでこない優しさや、遼太を尊重しようと努力することもそうだ。そのどれもが遼太が子供の頃から探していたもので、そんな遼太の手を蒼壱はいつだって引いてくれた。また、空の記録を残してみようかと思っている。昔のように母親に頼まなくても写真は撮れるし、田中に話して、また絵を描いてみてもいい。そう思えるようになったのも蒼壱のおかげだった。
力になってくれた分だけ、遼太も蒼壱の力になりたいと思っている。蒼壱の気づかないことに気づいてやりたいし、不安があるなら励ましてやりたい。蒼壱の戻りたい過去には自分も必ず着いていくつもりだ。それを見届けて、その時に「ありがとう」と言おうと思う。それが最後の過去への旅だとしても、決して後悔しないように。
もし、蒼壱の目的が達成できたら、自分たちはどうなるのだろう。
何事もなかったように話さなくなるのか、あるいは友達のままか。そもそも今の関係は友達と言えるのだろうか。蒼壱と遼太の関係は、過去に戻るために必要な、いわばトリガー同士だ。ただそれだけの関係に果たしてこの先はあるのだろうか。手を繋ぐこともなくなって、話すことも、並んで帰ることも、蒼壱の家に行くこともなくなるとしたら、それは遼太にとって何を意味するのだろう。
ポケットが振動で遼太は現実に引き戻された。田中に視線を送ると、動いても良いという目配せが返される。通知に表示された名前を見てすぐにメッセージを開いた。話したいことがあるから今日会えるかと、そう短く綴られた言葉に遼太はすぐ返事をした。
「もしかして彼女もできたのか? 友達だけじゃなくて?」
「はあ!? そんなわけないだろ!」
遼太の裏返った声に田中は楽しそうに笑った。
「ごめん。待たせた」
蒼壱から少し遅くなると伝えられていたので、商店街の辺りをぶらついて時間を潰していた。蒼壱に指定されたのは以前訪れた市営グラウンドだった。辺りは夕暮れを超えて、空には小さな星がちらほらと輝き始めている。近くにあるテニスコートでは照明が点き、ボールを打ち合う音が聞こえてきている。
「全然。ちょうど良かったよ。夕方まで学校にいて……」
美術準備室にいたと言えば、田中と一緒にいたと伝えなければならない。また蒼壱の機嫌を損ねるのではと口をつぐんだことを蒼壱は察したらしい。何も追求することはなく、リュックを下ろした。
「また付き合ってほしいんだ。写真を撮ってもいいし、このままでもいい」
そう言って取り出されたカメラを構えた蒼壱を、しばらく見つめてから遼太は手を差し出した。
「行こう。テニス部が練習してるみたいだから」
「夜に撮るのは始めてだな」
繋いだ手は心地よい温さだった。空気はいくらか涼しくなって混じり合い、風がふたりの間を駆け抜けていく。ふいに遼太が蒼壱の手をじゃれるように引くと、蒼壱は驚いて目を丸くした。
「何だよ」
「いや? そういう気分」
「おい、やめろって」
繋いだ手がじゃれ合う拍子に、シャッターの切られる音がした。景色が変わったように感じないのは夜だからか。辺りはただ静かで、この世界には自分たちしかいないのではないかとさえ感じる。
「そういえば、支倉って部活入ってんの?」
「入ってない。今更だな」
「初めて会った時、写真部なのかなって思ったの思い出した」
蒼壱を待っている間中、遼太はふたりの間で起こったことをひとつひとつ思い返していた。あの外階段の踊り場で出会っていなかったら、遼太と蒼壱はこうしてここにはいないだろう。
「今日、人と会ってきたんだ」
繋がれたままの手が強く握られる。それに遼太は何も言わなかった。
「あの時のピッチャーに連絡取って話してきた。俺の肘はもともと限界で、ボールが肘に当たったのも本当に偶然で、だからお前が気にすることは何もないって。野球も辛かったって言った。そしたら……」
また強く手が握られる。今度は遼太もその手を握り返した。
「そいつ、凄い泣いてた。あの時、俺に謝りに来た時だって泣かなかったのに……いつも自信満々って感じの奴だったから驚いたよ。それで、俺はこいつを、俺の人生に巻き込んでしまったんだって思った」
場所は商店街の喫茶店で、高校生が突然泣き出したものだから周囲の人はちらちらとふたりの様子を窺っていたらしい。遼太ならば泡を吹きそうな場面だが、もちろん蒼壱はそんなこと気にもせず、それから相手ピッチャーと色々なことを話したらしい。
「そのピッチャーってさ……」
「城戸だよ。お前のクラスの」
「やっぱり! 似てると思ったんだ!」
蒼壱と口論した時に出くわした城戸の顔と、マウンドで立ち尽くす少年が遼太の中でぴったり重なった。
「早瀬のおかげだよ。高校で一緒になって、向こうはかなり気まずかったらしいんだ」
「そっか……良かったな」
昇降口での何か言いたげだった態度にも納得がいく。まさかこんな接点があったとは思いもしなかった。
「早瀬はこういう空は書くのか?」
すっきりした表情で、蒼壱は夜空を見上げた。まだ昼の青がほんのり地平線に残っている空は、小学生だった遼太には馴染みのないものだった。
「夜空は専門外。あんまり考えたことなかったな」
遼太も空を見上げる。今こうして蒼壱の隣にいる自分が誇らしく感じられた。
「支倉と初めて会った時、おしゃべりな奴だと思ったんだ。一瞬だけな。でも全然そんなことなかった」
何を言い出したのかと蒼壱は不思議そうに遼太を見て、それが自分のことだと気づくと心外だという顔をして笑った。
「俺、そんなに喋ってた?」
「喋ってた。カメラ壊す勢いで聞いてもいないことまで喋ってた」
「じゃあ、緊張してたんだ。後ろめたくて……」
「後ろめたい? どういう意味だよ」
蒼壱の顔を覗き込もうとすると露骨に逸らされてしまった。こういう時の蒼壱の表情は面白いから絶対に見ておきたい。遼太は蒼壱の表情が崩れる時が好きだ。悔しそうだったり、動揺していたり、でも出来るなら笑っている方が良い。蒼壱のぎこちない笑顔だって、遼太は好きだと思う。
「……もしかして本当に俺のこと撮りたかったのか?」
「違う、違うって。適当にそこらへんを撮るつもりだったんだ。そしたら支倉がフレームの中に入ってきて、それが綺麗だったからシャッターを……」
自分が何を口走ったのかすぐに理解したらしく、蒼壱はすぐに口をつぐんだ。
「俺のこと綺麗だと思ってんの?」
「支倉じゃない。髪だよ。光が当たって、風が吹くときらきらするのが……綺麗だったんだ」
蒼壱の背中を叩きながら、可笑しくて遼太は笑った。遼太が失敗したものすら蒼壱は肯定してくれるのだから、遼太だってそうでありたい。これ以上蒼壱がそっぽを向かないように、この話はここで止めることにしよう。夜空へと視線を移して遼太は呟く。
「この時間の俺らってちゃんといるんだよな。何してんだろ」
「きっと夏休みの小学生らしいことしてるよ」
「小学生の夏休みかぁ……」
たった数年前のことなのに記憶は曖昧だ。それは今日が何でもない日だからだと思う。蒼壱は何をしていたのだろう。怪我をして、安堵と不安と、そんな感情を渦巻かせながら自分の部屋で過ごしていたのだろうか。
お互いの距離が近づいていることに、気づいているのは遼太だけではないだろう。心の話ではなく物理的にだ。隣に立つ蒼壱の腕が触れる。昼の日差しを吸った体温は生温かく、けれどその温度と触れ合うのは嫌ではなかった。この腕に抱かれるのもやぶさかではないとさえ感じる。
「本来なら俺たちはここに存在してない」
蒼壱の言葉はどういう意味だったのか。存在しないはずの自分たちがすることに意味なんてないという、そういう言い訳じみた言葉だったのだと思う。遼太は笑いながら頷いた。
遼太の髪に何かが労るように触れて、傷つけないように離れていった。その正体に気づかない振りをして、繋いでいた蒼壱の手に唇で触れる。自分がなぜそんなことをするのか、その意味は遼太にも分からなかった。
幼い兄弟がじゃれあうように。あるいは親が子供を慈しむみたいに。ボールを取ってきた飼い犬を褒めるように。お互いのどこかが触れ合うたびにふたりは笑い合った。
きっと十二歳の自分たちはそれぞれの家にいて、遼太は今日の空についてノートに書き込んでいるか、蒼壱はもう嵌めることのないグローブを磨いているのだろうか。子供の頃の自分たちは思いもしないだろう。まだ存在することも知らない自分たちが、こうして子供のように触れ合うことを楽しんでいるなんて。ずっと心細かったのかもしれない。蒼壱の体温が触れるたびに、遼太はそう思った。
「なあ、もうやめよう。帰らないと」
そんなこと微塵も思ってはいなかったが、遼太は蒼壱の肩を押して距離を取った。最後にひとつ、繋いだ蒼壱の親指の付け根に唇で触れる。蒼壱も同じように遼太に触れ、蒼壱がシャッターを切ろうとした時、異変は起こった。
「どうした?」
「悪い、なんか……」
蒼壱が焦っていることはすぐに分かった。シャッターは何度も切られているのはずなのに鈍い音を繰り返すだけで、時間が変わるあの妙な感覚は一向に訪れない。
「壊れたのか!?」
慌てる遼太を落ち着かせようとした蒼壱は、繋いだ手を強く握った。遼太もその手を握り返す。深く息を吸い込んでもう一度。すると今度こそ軽快なシャッター音が鳴り、妙な感覚が遼太の体を過ぎ去っていった。すぐにスマートフォンを確認する。電波は良好で、時刻は蒼壱と遼太の存在する現在の時間だ。遼太もほっと息をつくが同時に不安に襲われる。それは蒼壱も同じようだった。
「カメラ、やばい感じ……?」
「わからない……」
蒼壱の不安げな眼差しはずっとカメラに向けられている。思わず蒼壱の手を撫でてみたけれど、そんなことはきっと励ましにもならなかった。
「あと一回にしよう」
初めて出会った外階段の踊り場に並んでしゃがみこみながら蒼壱はそう言った。遼太もその言葉に頷く。
「支倉の目的を果たしに行こう」
「付き合わせて悪いけど」
「そんなこと言うなよ」
この場所なら座ってしまえば外からふたりの姿が見えることはない。先日の一件から、蒼壱と遼太はこうして外階段で落ち合うようになっていた。ふたりの家の中間地点は高校がちょうどいいことに気づいたのだ。夏休み中の今は生徒の数もずっと少なく、部活動のある生徒に紛れて登校するのは簡単だった。
「それっていつなんだ?」
「今週の金曜」
今日は水曜だから明後日。頭の中で日付をめくって、遼太ははっと息を呑んだ。
「午後の三時。校門前で落ち合おう」
「……分かった」
今、無性に遼太の手を繋ぎたくなった。代わりに遼太は拳を握る。タイムリミットが近づいていることにも改めて恐怖と寂しさを覚える。
「俺は最後までお前に付き合うよ」
ようやくそれだけ伝えて、蒼壱の肩に手を乗せた。蒼壱の目的を果たしたその先の自分たちはどうなるのか。今は何も考えたくなかった。
約束の金曜日はすぐやって来た。蒼壱は既に待っていて、遼太は思わず苦笑した。
「支倉って五分前行動やばいよな」
「なんだよそれ」
不安を誤魔化すように笑う遼太はいつもより不自然だったかもしれない。蒼壱は気づかなかったようだ。
「行こう」
蒼壱の言う展示会はおそらく市立のホールで行われる。それならばここから十分ほどだ。歩き出した遼太の後ろを蒼壱がついてくる。少し近くないかと遼太が諌めようとしたその時、蒼壱が遼太の手に触れた。進むべき方向を見つめたまま、遼太は振り返った。
「早瀬」
蒼壱の声はひどく優しかった。そしてどういうわけか、蒼壱はカメラを構えてシャッターを切った。
「え……」
あの一瞬の感覚が過ぎ去り、遼太は自分たちが過去に戻ったことを理解した。
「行こう」
カメラを下ろした蒼壱は、遼太に呼びかけた声と同じくらい優しい声でそう言った。蒼壱は黙ったままら遼太の手を引いて歩き出した。
「支倉、こっちで合ってんの?」
なぜか蒼壱は展示会の会場とは反対の方向に歩き出している。遼太の問いかけにも答えないまま、ずんずんと進む蒼壱に遼太は不安を覚えた。
「なあ、支倉!」
行き交う人が何人か手を繋ぐふたりに好奇の目を向けたが、そんなことはどうでもよかった。変わっていく風景に、やがて遼太は蒼壱の行こうとしている場所を理解した。
「嫌だ。俺はそっちに行かない……支倉!」
蒼壱はその言葉にも反応せず、足を止めようともしなかった。蒼壱の歩幅に引きずられて駆け足になりながら、そして蒼壱がようやく足を止めた。そこは駅前の交差点だった。
「お前のしたかったことって、嫌がらせだっけ?」
遼太の皮肉も無視して、蒼壱は遼太を物陰に引っ張り込んだ。
「なあ、何とか言えよ! 支倉!」
蒼壱の戻りたかった日。その日は遼太が怪我をした日だ。これからあと数十分したら、十二歳の遼太はあの歩道橋から足を踏み外す。偶然居合わせた田中のおかげで助かるが、これがきっかけで絵を描くことも、空を見上げることもしなくなるのだ。
「田中は来ない」
ようやく蒼壱はそう言うと、遼太に紙を差し出した。それは遼太が遊園地で取り戻した、蒼壱の大切な写真だとすぐに分かった。
「田中の絵だよな」
そこに写っていたのは、一枚の絵だった。
遼太もすぐに理解した。大学生だった頃の田中の作品だ。見覚えがあるなんてもんじゃない。この作品が完成した場面を遼太は見ていたのだから。
「展示会の最終日、じいちゃんが係の人に話して撮ってくれたんだ。作者もいるから確認するって言ってくれて、それって田中のことだよな」
遼太はその写真から目が離せなかった。蒼壱の言葉は続く。
「スタッフは作品を作った大学生で、最終日だから会場の片付けがあるって言ってた。夜遅くまでかかるって。だからここに田中は来ないんだ」
顔を上げた遼太の目に、真剣な眼差しの蒼壱が飛び込んでくる。嘘を吐いているようには見えなかった。
「じゃあ、俺はどうやって……」
「分からないけど、でも田中がここに来ないことは確かだ。そしたら早瀬がどうなるか分からない。だから俺が助ける」
蒼壱の出した結論に遼太は啞然とした。それは蒼壱の本来の目的を諦めるということだ。
「……俺が電話して田中を呼ぶ」
「電話は使えないだろ」
「じゃあ俺が助ける」
「駄目だ。自分で自分に会うのか? どうなるか分からない」
「じゃあどうしろって言うんだよ!」
遼太が怒鳴っても蒼壱は表情を変えず、遼太はそれにひどく苛立った。
「何で初めに、そのことを俺に言わないんだ! そしたら他に方法があったかもしれない!」
「早瀬、話を聞けって。絵のことはもういいんだ。そう俺が決めたから」
「勝手に決めるなよ! 俺は、お前を過去に戻るのを応援してたんだ……だからお前に協力してきたのに、俺の気持ちはどうなるんだよ!」
「分かってる。早瀬、ちゃんと聞けよ」
「分かってねえよ! 俺のことなんか放っておけよ! なんで自分のために使わないんだよ! この一回が最後なんだろうが!」
「俺は自分のために使ってる! お前を……」
その時、カランカランというベルの音が聞こえた。十五時ちょうどの商店街のチャイムの音だ。遠くに見える商店街の時計を確認する。怪我をした時間は覚えてはいないが、あと三十分もしたら絵画教室が終わった子供たちが帰ってくる。いつもは残っているくせに、次の日のコンクールが楽しみだった遼太は早く絵画教室を飛び出すのだ。
「カメラが使えるのはあと一回だ。お前が戻りたいのが今日この日なら、もう二度とここには来れないってことなんだぞ……なあ、もう行こう……」
「俺は行かない。俺は、早瀬を助けたいんだよ」
蒼壱は表情は変わらない。遼太はそれが嬉しかった。嬉しかったはずだ。たった数日前まで、蒼壱の真っ直ぐな視線と言葉にどれだけ救われてきただろう。でも今はその全てが腹立たしくて仕方がなかった。
じいちゃんに会いたかったんじゃないのか。あるいはもう一度、写真に撮られたこの絵が見たかったんじゃないのか。どんな理由であれ、それを叶えてやりたいと思った遼太の気持ちや覚悟はどうなってしまうのか。目的は果たせず、明日からはまたただのクラスメイト未満の関係になる。遼太にとっての大切な感情を、全て踏みにじられたような気がした。
「はぐれたらおしまいだ。支倉が言ったんだ」
繋がれた手を解きながら蒼壱と距離を取る。遼太の言葉に蒼壱は眉を潜めた。言葉の意味を探っているのだろう。
「支倉がここから動かないのが支倉の意思だっていうなら、俺だって俺の好きなようにする。俺がどこに行くかは勝手に考えろ!」
そう言って遼太は駆け出した。一瞬、蒼壱に手を掴まれそうになったがそれだけはさせなかった。
「早瀬!」
後ろから投げかけられる蒼壱の声を振り切り、遼太は来た道を駆け戻っていく。
田中が違う場所にいるというのならば、遼太がここに呼んでくればいい。遼太を助けるように頼んで、そうすれば遼太の記憶ともぴったり一致する。過去にいる誰かと接触したことはなかったが、それでも過去の自分に遭遇するよりはマシだろう。駄目だったら、その時はその時だ。遼太の膝はがくりと震えたが、足を止める気はこれっぽっちもなかった。
今まで自分はこんなに早く走ったことはあっただろうか。誰のために息を切らしているのだろう。自分のためだ。田中がいなければこの額の傷よりもっと酷いことになっていたかもしれない。でも蒼壱にためだ。蒼壱の願いを叶えてやりたい。目的を果たしてほしい。それなら、やっぱり自分のためだ。今日初めて見せてくれたあの写真は、ずっと遼太の宝物でもあった。そんな気がする。大切だ。蒼壱の不器用な笑顔も、手の温度も、悲しそうに目を細める顔に胸が苦しくなるのも、全部。
市立ホールに着いた頃には遼太はすっかり疲労していた。ぜえぜえと息を吐きながら中で行われているイベントを確認する。大学生の作品展示、期間は一週間前から今日まで。間違いなく田中はここにいる。入場料は必要ない。遊園地のことを思い出して安堵した。あくまでも大学生の作品のお披露目が目的のようだ。
田中を見つけるぞと意気込み、入り口を通ったところで、受付で仲間と談笑する田中を見つけて拍子抜けしてしまった。田中が仲間に軽く手を上げながらその場を離れ、こちらに向かって歩いてくる。
「田中、さん! 」
慌てて呼び止めると田中は驚いたように足を止めた。知らない高校生に話しかけられたのだから無理もないだろう。
「どうしたの? 受付はあっちだよ」
「あの、俺が……じゃなくて遼太が……」
「遼太?」
田中は途端に訝しげな表情で目の前の高校生を見つめた。
「どうして遼太のことを知ってるの? 君、高校生だよね?」
「あの、絵画教室の帰りに、遼太くんが……」
「絵画教室? どうして知ってるの?」
ますます不審に思われてしまった。当たり前だ。田中の知っている遼太はまだ子供で、そんな遼太に高校生の知り合いがいるなんて田中は聞いたこともないだろう。
「あの、遼太くんが歩道橋から落ちて怪我するんです。絵画教室の帰り道の……」
「どういうこと? 君は遼太とどいうい関係なの?」
「お願いです、友達が遼太くんを助けようとしていて……」
本当のことを言って、信じてもらえるだろうか。遼太だって蒼壱は言葉を最初は信じなかった。けれどどれだけ不審に思われようと、事実だけが伝わればいい。そのために、遼太は何を伝えればいいのか──
「空を見ながら帰って、足を踏み外すんです……今日の空も覚えておきたいから……明日のコンクールも楽しみにしていて……だから……
空の話を聞いて、田中の表情は少しだけ変わった。
「助けてください……」
遼太から出てきた言葉は、もうそれだけだった。遼太をじっと見つめる田中の目は、遼太の言葉が信じるに値するか値踏みしているようだった。信じてくれと願いながら、遼太も田中を見つめ続ける。
「分かった」
田中はそう言うと遼太の肩に手を置いた。もしかして何かに気づたのかもしれないと思ったが、田中はあっという間に走り去って会場を飛び出していった。
「中、見てくの?」
声を掛けられて振り返ると、田中と談笑していたスタッフが立っていた。田中とのやり取りを見ていたらしく、遼太を気遣うように笑顔を向けている。
「あ、はい……」
「良かった。五時に終わるからゆっくり見て回って。楽しんでいってくれたら嬉しいからさ」
手渡された入場の印のシールを受け取り、それを胸に貼って遼太は会場内に足を踏み入れた。
入ってすぐのところに見覚えのある作品があった。これは田中が大学時代に描いていた作品だ。入ってすぐのところに掛けられているのだから、そこに飾るに相応しいと判断された作品なのだろう。期待されていた人間が、そういえばここにもいたなと、遼太は蒼壱と田中の顔を思い浮かべた。
遼太は歩みを進めていく。会場にずらりと並べられた作品は絵だけでなく、彫刻や立体物もあって迫力があった。渾身の作品群に圧倒されながら歩いていると、隅の方に少年が立っていることに気がついた。中学生かと思ったが、その顔はもう少し幼い。十二歳くらいだろうか。同年代よりは高そうな背のその少年は、一枚の絵の前にじっと佇んでいた。
子供の頃の方が素直そうだ、と遼太は思った。少年に近づいていくたびに胸の鼓動が早くなる。早く会いたいような、絶対に会いたくないような、そんな気持ちを抑えつけて遼太もその絵の前に立った。
その絵に描かれている少年は強い眼差しでこちらを見ている。手は固く前で組まれ、その理由は緊張で強張った表情から察せられる。髪の毛は窓から差し込む光を受けて光り、元から明るい髪がより明るく輝いている。その少年は十二歳の早瀬遼太だった。
あの頃もよく田中のデッサンのモデルを手伝っていた。そういえば展示会に出してもいいかと尋ねられた気がする。その一枚が、蒼壱の手元に写真として残っていたその作品だった。
「お前のじいちゃんは?」
突然話しかけられた蒼壱は怪訝そうに遼太を見た。知り合いではなさそうだと判断したらしく、面倒くさそうにまた視線を絵へと戻した。
「今はいない」
「どっか行ってんの?」
「写真撮ってもいいか聞きに行ってる」
遼太の質問に答えてはくれるが、視線を絵から逸らさなかった。この絵の何がそんなに気に入っているのだろう。ただ人間がひとり描かれているだけだ。モデルをしている間も遼太は考えていた。この絵は何が面白いかと、田中に直接尋ねたこともある。聞かれた田中はただ笑っていた。
「この絵の何がいいの?」
「別にいいだろ」
その言い方が高校生の蒼壱にそっくりだったので、遼太は思わず笑ってしまった。いつでも遼太に必要な答えをくれる蒼壱なら、こんな質問にも答えてくれるかもしれないと思ったのだ。しかし相手は小学生で、遼太のこともこの絵の中でしか知らない蒼壱だということを忘れていた。
「いや、悪い。ごめんな、変なこと聞いて」
不機嫌そうに顔を歪めた蒼壱の視線が、ゆっくり絵の中を動き回り始めた。どうしたのかと遼太が声を掛けようとすると、蒼壱はぽつりと呟いた。
「髪の毛」
「髪の毛?」
「色が薄くてかっこいい」
また蒼壱の視線が動く。最後にじっと絵を見つめて、蒼壱は小さく笑みを浮かべた。
「目も強くて好きかも。この絵、強くて、綺麗だと思う」
蒼壱の言葉に、遼太は体の力が抜けていくような衝撃を感じた。蒼壱は遼太に、この絵の何が好きなのかを言葉にして伝えてくれたのだ。蒼壱はいつだって、遼太の探していた答えをくれる。どんな蒼壱であっても。
ひとつ肯定してくれるだけで良かった。髪の毛の色や描く絵、性格も、変わっているとか周りと違うとか、そう言われるのが怖かった。それに悩む自分も、誰かとの間違い探しをする自分も大嫌いだった。十二歳の蒼壱の言葉に、何かがすべて報われる気がした。
理由もなく涙が溢れて、涙が頬に広がってゆき、悔しいとか悲しいとか嬉しいとか、そういう感情までもが広がっていく気がした。これ以上は駄目だと、もう何も溢さないように天を仰ぐ。それでも顔を覆った手は解くことができなかった。
「俺さ、この頃にお前と会いたかったよ……」
思わず溢れたものは、遼太の心からの本音だった。
もしこの頃、蒼壱と出会えていたら、諦めたたくさんのことは今も遼太の手の中にあっただろうか。
「いいんだよ」
懐かしい低い声が聞こえた。振り返ると会いたかった人がいた。涙で霞む目を凝らすと、高校生の蒼壱は息を切らしてそこに立っていた。涙に塗れた遼太の頬を蒼壱にお構いなしに触れられ、遼太はまた涙が止められなくなった。
「今、会えたんだから。それでいいんだ」
あの外階段で会わなかったとしても、蒼壱とその先のどこかできっと出会うことができるのだと思った。遼太の頭の中に、何通りもの出会いの瞬間が駆け巡った。そのどれでも、蒼壱はきっと遼太に必要な言葉をくれるはずだ。
頬に触れられていた蒼壱の手が遼太の手を取った。優しいその温度を遼太も握り返す。蒼壱の顔がカメラで遮られ、鈍いシャッターの音とともに周りの音が聞こえなくなり、遼太の目の前には蒼壱だけになった。他の全ては白い光に包まれて、遼太も蒼壱の存在だけに集中する。蒼壱もそうならいいと遼太は思った。
俺たちは今、この時間に出会った。それでいいんだと思った。
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