Chapter.3




「遼太くん、ひとつのこと集中しすぎだよ」

 遼太の目の前には積み木が散らばっていて、それを持つ遼太の手はとても小さかった。積み木でお城を作りましょうという、幼稚園の頃の遊びだ。城壁をずっと作り続けていた遼太に、同じ組の女の子が不満げにしている。それが遼太の覚えている限り、人生初めての記憶だった。この時は言われた言葉がどういう意味なのかを理解できなかったし、ひとつのことに集中しすぎることが変なことだなんて遼太は思いもしなかった。

「また大きく描いてる。早瀬くんの絵って変だね」

 ふたつに結んだ髪の毛を楽しそうに揺らしながら話しかけてきたのは、小学校に上がったばかりの頃のクラスメイトだ。背後にクラスの女子を従えながらよく遼太をからかいに来ていた。遼太はこの女子が苦手だった。

「大きく描くのって変なことなの?」

「変だよ。皆はそう描かないもん」

 そう言って笑う女子たちも、それを聞いてからかう男子たちも、きっと間違ってはいないのだと思う。それでも自分の〝変〟を指摘される度に、遼太は申し訳なくて、やるせない気持ちになった。

「遼太は夢中になると他のものが見えなくなるから、だから心配なの」

 母親はよくそんなことを言っていた。電話で親戚に話していたのを遼太は聞いたことがある。背中いっぱいのランドセルを背負っていたから、これも小学生の頃の記憶だ。この記憶を思い出すたびに遼太は申し訳なく思った。




 変に思われないようにしよう。皆の真似をすれば、皆と同じになるんじゃないか。その考えは功を奏し、変だと言われることは少なくなった。それでも絵だけは、誰の真似も上手くできないままだった。

 描いているものが分からないと言われたこともある。人を描いてみてもバランスは悪いし、他の生徒たちのように上手く描けない。一番記憶に残っているのは夏休みの思い出の宿題だ。仕方なく遼太は画用紙いっぱいに、木に捕まるカブトムシとそれを捕まえようとする手の影を描いた。存在しない夏休みの思い出はなぜか担任に気に入られ、どんなに褒められても嬉しくなかった。虚しくなって絵を提出することはやめてしまった。

 人が描けないのは人に興味を持っていないからだと言われたこともある。冷たい人間だと言われたみたいでそれにも傷ついた。もっとたくさん、色んなことに興味を持たなければ。やればやるほどそれは上手くいかなかった。

 周りの音が聞こえなくなって、次にそれしか見えなくなる。描くものは画用紙いっぱいのひとつのままで、遼太は絵を描くと変な奴のままだった。

「空を描いてみたらどうかな」

 真っ白な画用紙の前でぼんやりしていた遼太に、大学生だったそう声を掛けたのが田中だった。田中はキャンバスを窓際に立てて遼太を座らせた。窓を開け放した空には夏の大きな入道雲が伸びていて、気がつけば遼太は空を描くのに夢中になっていた。空の色は見上げる度に違う。どうしたらあの色を作れるのかと、いつも考えていた。かわれることもまだまだあったけれど、それはもう遼太にとってどうでもいいことだった。

 空を見るのが好きだった。空の色を作りたいと思った。それが残せたらいいのにと願って、画用紙やキャンバスを筆で撫でた。誰に何を言われても、自分だけが分っていればいい。ようやく、小学生の遼太は思うことができたのだ。




 目を覚ますといつもと変わらない天井が見える。アラームの音は聞こえなかった。遅刻をしたかと飛び起きたが、今日が日曜日であることを思い出して遼太の体はふたたびベッドへ沈んだ。かざした手は子供の手には見えない大きさで、今、自分は高校生の早瀬遼太なのだと思い出す。左のこめかみ辺りがまたずきずき痛んだ。

「……久しぶりだ」

 いつからか見るようになった、昔のことを思い出すと必ず見る夢だ。いつも決まって遼太の幼少期から始まり、空を描き始めるようになった頃で夢は唐突に終わる。起きた後に感じる疲労感は決して心地の良いものではない。

 すぐ起き上がる気になれず、遼太は天井を見上げたまま深く息を吸った。最近は上手くやれていると思っていた。だから自分がどういう人間なのかを忘れていたのだ。蒼壱も周囲から変わった奴と言われる奴だ。遼太もそれに安心して、蒼壱がその言葉を耳に入れて傷つかないようフォローしていた。そのつもりだった。けれど実際はどうだろう。蒼壱は誰に何を言われようといつも堂々としていて、それはあの体格の良さももちろんあるだろうが、周りのことなど気にせずに〝支倉蒼壱“のままでいる。

 そんな奴が、何故遼太のことを気にするのか。もし遼太が急すぎると断っていなかったら今日の今頃は駅前で待ち合わせをしていただろう。交流をするようになってひと月も経っていないが、蒼壱はいつだって遼太の気持ちを優先してくれた。手を躊躇いもなく繋ぐし、遊園地に男ふたりで行こうなどと誘う。それって、一般的な男子生徒同士の距離感なのだろうか。

「わっかんねぇ……」

 両手で顔を覆いながら呻く。今までしたことがないタイプの交流に、少なからず遼太は混乱しているのだ。蒼壱は平気な顔をしているが、いつまで気づかない振りを続けていられるだろう。

「支倉は変わった奴、変わった奴なんだって……」

 そう何度も自分に言い聞かせ、来週の日曜日をどう迎えるべきか考えながら、遼太はふたたび眠りに落ちていった。




「よお」

 集合場所の駅前にはもう蒼壱の姿があった。蒼壱のことだからジャージか、あるいは独特のセンスで身を包んで来てもおかしくないと覚悟していたのだが、案外普通の格好に遼太は拍子抜けした。むしろセンスの良ささえうかがえ、ついまじまじと蒼壱を見つめてしまった。

「服に興味あんの?」

「どういう意味?」

 遼太の言葉を不思議そうに聞きながら、「マネキン見て買うことはあるけど……」と蒼壱は呟いた。そういえば蒼壱は背も高いしスタイルも良いのだった。周囲には無頓着なくせに、こういう奴は何を着ても決まってしまうものだ。何か言いたげな顔をしている遼太を気にも留めず、蒼壱はリュックから何かを取り出して遼太に見せた。それには電車で数十分行ったところにある遊園地の名前が書かれた一日パスポートだった。

「買ったのか?」

「親父が仕事の関係でもらってくるんだ。先週のうちに頼んどいた」

 大事そうにパスポートを仕舞うと、蒼壱は遼太を促して改札に向かった。

 休日の朝九時ともなると電車内は平日よりも人が少なく、遼太は蒼壱と並んで席の端に座った。電車に揺られる間、遼太は蒼壱と確認した今日の目的を思い返していた。今日の目的は過去の他者との接触についてだ。ついでにどれくらいの時間まで過去に存在することができるのかも調べたい。

 ちらりと蒼壱に視線を送ると、蒼壱はやはりいつもと変わらない表情で窓の外を見つめていた。蒼壱に感じるものを、遼太は最近明確にすることができた。遼太はどんな服でも似合う体格は持っていないし、遊園地のパスポートを用意してくれる父親がいるわけでもない。蒼壱の家に訪れた時、息子を愛する母親の存在をたくさん感じたし、そういう環境が周囲の目を気にせず堂々とする蒼壱を作り出しているのだと思う。

 遼太だって持っているものはたくさんある。父親は寛大だし母親も優しい。姉だって何だかんだ遼太を気にかけてくれる。けれどそれは十分なものではないのかもしれないと、蒼壱といると思わされるのだ。これは蒼壱に対する劣等感だ。そう考えてしまう自分にも嫌気が差した。

「早瀬、大丈夫か?」

 心配させるような顔をしていたらしい。大丈夫だと答えて遼太は窓の外を見た。それ以上、蒼壱は何も聞かなかった。電車の心地よい揺れに微睡みながら、遼太はまた今日の目的を思い返すことに集中した。




 入場ゲートを潜ると開けた広場に出た。小銭を入れたら動き出す動物の乗り物や、ポップコーンを売る屋台、それを見てはしゃぐ家族連れやカップル……学生の集団は何組か見えるが、男子高校生の二人組は蒼壱と遼太だけだった。

「で、どうする?」

「早瀬は何か乗りたいのあるか?」

「乗りたいのって言ってもなぁ…」

 遼太の遊園地の記憶は幼稚園まで遡らなくてはいけない。その時はメリーゴーラウンドやゴーカートが楽しかったが、蒼壱と楽しむには少し幼すぎるアトラクションだ。

「ジェットコースターとか……?」

「あんまり乗ったことないな……でも早瀬が乗りたいなら」

「いや、俺も乗ったことない」

 遼太が悩んでいると入場前に渡されたパスポートが目に入り、あることに気づいた。

「そういえば、パスの日付って今のだよな?」

 この遊園地では一部の乗り物は有料になっていて、その分のチケットを買うかパスポートを見せなければいけない。ほとんどの来場者は事前にパスポートを買うことになっている。昔ながらの遊園地らしいシステムなのだが、遼太の記憶では入り口にスタッフがいて、チケット回収やパスポートの日付を確認をしていたはずだ。過去に戻った時、遼太たちの持つパスポートは未来の日付が印字されていることになる。

「これ見せて、乗せてくれると思うか……?」

 蒼壱も遼太と同意見のようで、首を横に振った。

「見せなくて済むのに乗るしかないな。それか過去に戻ってからチケットを買うか」

 せっかく過去に戻ったのだから試せることは試したい。乗り物を楽しむのはパスポートの正しい期日である現在に戻ってからにするとして、パスポートを見せなくて済む乗り物などあっただろうか。遼太はすぐさまスマートフォンを取り出して検索する。ジェットコースターといった人気のアトラクションはパスポートの提示が必須で、それ以外は小さな子供が楽しめるようなアトラクションしかない。ぐるぐる辺りを見渡していると、あるアトラクションが目に留まった。

「あれとか?」

 遼太が指さした先を蒼壱も目で追いかける。そこには遊園地の真ん中に鎮座する、大きな観覧車がゆっくりと動いていた。


 この遊園地の観覧車は日本で何番目かの大きさで、一周するのにそこそこの時間を要する。パスポートの提示は求められるが、乗り込んだ後で過去に戻ればいいのだ。繋いだ手を誰かに目撃される心配もない。なかなか良い選択ができたと、遼太たちは早速小さく揺れる球体の中に乗り込んだ。

「名案だろ。ここなら時間も図りやすいよな」

「俺は考えつかなかった。早瀬、凄いな」

 係員の頭が見えなくなったところで、遼太と蒼壱は手を繋いだ。この流れにも慣れたもので、蒼壱は首に下げていたカメラを構えてシャッターを切った。

「……戻ったのか?」

 過去に戻る前の妙な感覚にもすっかり慣れてしまった遼太は、代わり映えのしない景色を訝しげに眺めた。座席のソファが少し新しくなったような気もするが、それは明確な答えにはならない。

「地上に降りたら確認しよう」

 そう言って窓の外を眺める蒼壱は、案外、遼太よりもこの状況を楽しんでいるように見えた。

「支倉、すげえ楽しそうだな」

 からかいの気持ちで言ったのだが、蒼壱は「そうかもな」と笑って遼太に向き直った。

「でも早瀬が楽しめればそれでいいよ」

「俺? もしかして、この間俺が言ったこと気にしてくれてんの?」

 十二歳の遼太を絵画教室で見に行った日、遼太は引っ越した経験があると蒼壱に話した。父親の仕事がごたついて遊園地に行く余裕もなかったとも言った気がする。本当に些細な、何気ない言葉だったのだが、遼太の問い掛けに蒼壱は頷いた。

 蒼壱の真っ直ぐな視線に耐えきれず、遼太は窓の外へと視線を動かした。景色から察するにまだ四分の一も過ぎていない。頂上につくのすらまだ時間がかかりそうだ。地上の売店の屋根が遠ざかっていくのを眺めながら、遼太はぽつりと呟いた。

「小学生の時、親父の仕事が上手くいかなくて大変だったって話はしたよな」

 遼太の父親は小さな会社を持っていたが、遼太が小学校に上がった頃にはもう、その経営は上手く立ち行かなくなっていた。働いている従業員が誰も路頭に迷わないようにと父親も数年は頑張っていたのだが、結局会社は倒産し、父親も今は親戚の会社で働いている。遼太が中学二年生の頃のことだ。

「今は生活も落ち着いてるけど、でも落ち着いた頃には俺も姉ちゃんも家族で遊園地って歳じゃなくなってた」

 きっと蒼壱の家族ならこんな苦労もないのだろう。そう思うと少しだけ、自分が虚しくなった。

「支倉はそんな経験ないよな」

「親と遊園地にってことか? 俺だってあんまりないよ」

「嘘つけ。親父さんが一日パスポートもらってくるんだろ」

「本当だって。もらってきてくれるけど、俺より従兄弟の方が使ってた。小学生の頃は少年野球の練習と、試合と……俺はそんなのばっかりだったから」

 蒼壱はそう言うと小さく笑った。その表情にまた違和感を覚える。小学生の頃の話になると、蒼壱の顔がほんのわずかに曇るのだ。

「野球、楽しかったんじゃないのか?」

「まあ、それなりに」

「俺、野球は詳しくないけどリトルリーグとかあるんだろ? お前の家のリビングに写真とかメダルとかあったし、お前って……」

「待った。なあ、俺たちは昔話をしに来たんじゃなくて、遊園地を楽しみに来たんだろ?」

 蒼壱はまた窓の外を眺め、これ以上の詮索はやめろというように黙り込んでしまった。蒼壱にも知られたくない〝変〟があるのかもしれないと、遼太は何となくそう思った。

「支倉は俺に同情してる?」

「してない」

「じゃあ、小学生の頃の俺だ。そっちに同情してるんだろ」

 ようやくこちらを向いた蒼壱は、それならと言うように遼太の手を掴んだ。

「じゃあ、とりあえず今日は早瀬が質問に答える番な」

「え? そんなの勝手に決めるなよ」

「俺はお前が変な奴だって思わなかったよ。誰が早瀬のことをそんなふうに言い出したんだ?」

「誰がって……」

 遼太にとって避けたい質問だ。しかし蒼壱の真っ直ぐな視線に捕らわれると、逃げることが出来なくなってしまう。これは蒼壱の触れられたくない過去を掘り起こそうとした罰のような気がした。そしてその場限りの嘘は蒼壱に簡単に見抜かれるだろうことも遼太は理解している。

 遼太のその記憶は三歳の頃まで遡るが、そこから話すのは間抜けで滑稽だ。無難なところはないか考えを巡らせて、画用紙いっぱいのカブトムシの絵のことを思い出した。

「……夏休みの思い出って宿題で、俺は夏休みに出掛けたりできなかったから嘘ついて海の絵を描こうとした」

 小学四年生の夏休み。この時は確か父親の会社が一番逼迫していた時だ。もちろん出掛ける余裕などあるはずもなく、さらに無常にもこの夏休みの宿題は廊下の壁に並べて飾られることが決まっていた。クラスメイトの海だ山だ両親の田舎だと、そういった思い出の中で嫌な思いをしないためには嘘の記憶を描くしかなかったのだ。

「でも嘘だから上手く描けなくて、で、何かひとつだけ、それを描けば済むものはないかってカブトムシを描いた。まあ、カブトムシも捕まえてないから図鑑見て描いたんだけど……」

 嘘の思い出を塗り潰した画用紙を、大人たちはよく描けていると喜んだ。その絵はしばらくは校長室の掲示板に、他の優秀者の作品と並べて飾られた。

「何でそれが嘘の思い出なんだ?」

 不思議そうに首を傾げる蒼壱に、遼太はため息を吐いて答えた。

「だって嘘だろ。俺はカブトムシを取りに行ってないし、そもそもどこにも行かなかったんだ」

「図鑑を見てカブトムシを描いた。それが夏休みの思い出なら何も間違ってないだろ」

「でも、だったら〝図鑑を見ながら描く俺〟を描くべきで……」

「描いてるものにズームして、そこにピントを合わせたってことだろ? カメラで撮るならそれもおかしくない。全部を描く必要なんてないし、そもそもそれって悪いことなのか?」

 蒼壱の言葉に、びりびりとした衝撃が遼太を襲った。

 「……そういうふうに考えたことなかった」

 俯いた視線の先には遼太に掴まれた自分の手が見える。この手はろくなものが描けないと、何度後悔したか分からない。蒼壱の与えてくれた答えは遼太の思いもしなかった答えで、写真に例えてくれたおかげで、それはすんなりと理解することが出来た。

「俺は人が描けなくて……」

「描かなくちゃ駄目なのか?」

「駄目だと、思ってた。けど……」

 窓の隙間から入る風が遼太の頬を撫でた。冷たく感じたそれにつられて空を仰ぐと、地上で見た時よりもずっと近くに青があった。もうすぐ頂上に到達するのだろう。

 思い出は誰かと、家族や友人と楽しんでいるところを描かなければいけないと思っていた。けれど遼太の〝しなければ〟は、案外そういうものではないのかもしれない。否定される中で自分を縛りつけて見えなくなっていたものが、靄が晴れていくようにすっきりと見えてくる。遼太が悩んでいたことはこんなにも単純なことだっただろうか。

「なんか、すっきりした。嫌な思い出って、どれだけ忘れようとしてもどこかで必ず思い出すんだよな……」

「それなら上書きすればいい。今日は早瀬が遊園地を楽しむ。そしたら嫌な思い出がひとつ上書きになるだろ」

 蒼壱の言葉に笑い掛けようとしたその時、ガタンと観覧車が大きく揺れた。バランスを崩してふたりの距離が少しだけ近づく。蒼壱の手が遼太の頬に伸び、遼太は思わず仰け反った。

「おい、頂上だからってキスする気か?」

「そんなわけないだろ」

「分かってる。冗談だよ、支倉って!」

 蒼壱は心外だという感じで、遼太を向かい側の席に押しつけた。妙な疑いを掛けられたことに拗ねているのが面白く思え、遼太はけらけらと笑ったり蒼壱の過去や遼太へ向ける感情、分からないことはまた増えてしまったが、蒼壱について改めて分かったことがある。蒼壱はいつも、遼太の望む、知りたかった答えをくれる奴のようだ。




 約十五分の空中浮遊は、過ぎてみればあっという間だった。地上に戻ってまず、遼太と蒼壱は園内の掲示物を確認することにした。日付はやはり五年前の今日だ。

「とりあえず、一時間はここにいようと思う」

「それで、帰れなかったらどうするつもりなんだ?」

「何となくだけど、時間制限はないんじゃないかと思ってるんだ。多分だけど、じいちゃんはこのことを知ってたんじゃないかって思うことがあって、それなら大丈夫なはずだ」

 蒼壱は首から下げたカメラをじっと見つめながらその縁をなぞった。

「ふらっといなくなって、何時間かしたら突然ひょっこり出てきたり……思い返したらそういうことが結構あった」

 よくよく話を聞くと、蒼壱のじいちゃんがいなくなる時間というのはかなりブレがあったそうだ。旅行に行くという書き置きを残して丸一日いなくなったこともあったという。

「病気してからはそんなこともなくなったけど、じいちゃんが過去に戻るのを楽しんでたら良かったって思うんだ」

 蒼壱がカメラと祖父の話をする時、その表情は遼太が見たこともないくらい優しく緩む。遼太はふたりがどんな関係を築いていたのかを知り、そして同時に、今は遠い距離があるのではないかと感じた。

「次はさ、支倉のじいちゃんに会いに行こう」

 蒼壱の肩に手を置き、励ますように遼太はそう言った。

「ありがとな、早瀬」

 蒼壱は悲しそうに笑い、パスポートをしまおうと定期入れを取り出した。その時、突然強い風がふたりの間を吹き抜けていった。その風に誘われ、蒼壱の定期入れから何かが飛び出し、それを見た蒼壱は初めて聞くような声で叫んだ。

「写真!」

「え!?」

 反射的に遼太は駆け出していた。瞬発力だとか足の速さだもか、そういう才能などは持っていない。けれど蒼壱の手から飛び出していった写真を見る蒼壱は、大切なおもちゃを取り上げられて泣き出しそうな子供みたいな顔をしていたのだ。そんな顔を見たら、絶対に取り返してやらなければと、そういう気持ちが遼太を襲った。今日は風が強い。観覧車の中に入り込んだ隙間風も容赦なく吹きつけていた。そのせいで雲は物凄い速さで空を走っている。負けるものと足を上げながら必死に走り、写真は伸ばした遼太の手を一度掠め、そして二度目で確実に掴んだ。

「取っ、た……!」

 勝利の喜びに後ろからついて来ているだろう蒼壱へ振り返る。瞬間、強い衝撃が遼太の体を襲った。

「早瀬!」

 地面に倒れ込む遼太が見たのは血相を変えながら駆け寄る蒼壱と、レトロな装飾の電灯だった。どうやらこれにぶつかってしまったらしい。

 ああ、また俺はやってしまったのか。周りが見えなくなって、結局、何も得られない。あの時と同じだ。

 右手に掴む写真の感触だけは失わないように、それだけを考えて遼太はゆっくり意識を手放した。




 ぼんやりとした意識が少しずつはっきりしていく。最初に感じたのは額に触れる冷たさで、それからじんじんとした痺れと痛みが襲ってきた。目を開けると、遼太を見下ろす蒼壱と目が合った。遼太の額に冷たい何かを当て続けてくれている。触れてみるとそれはよく冷えたペットボトルだった。どうやら遼太はベンチに寝かされてるようだ。

「一応病院に行けよ。頭打ってるんだから」

 遼太の意識が戻ったことに気づいたらしい蒼壱は、そう言ってと頭を冷やす役目を遼太に譲った。冷たいペットボトルを受け取ると、その代わりというように蒼壱が打ちつけた遼太の額を優しく撫でてくれる。冷えたものにずっと触れていたからか、蒼壱の指先はちょうどよい冷たさでとても心地よかった。

「大丈夫だって……」

 蒼壱の指先の感触を追っていると、突っ張った皮膚を撫でられたことに気づいた。はっと起き上がると、蒼壱は気まずそうに目を泳がせた。

「……これ、見ただろ」

「見てない。あ、何を?」

「見たんだな……」

 露骨に泳ぐ蒼壱の目に苦笑しながら、遼太も自分の額のそこに触れた。

 遼太の額には傷がある。今はもうすっかりよくなったのだが、他の場所よりも薄くなった皮膚が数センチ横に伸びている。髪を掻き上げればかつてそこに怪我を負ったことは容易に分かるだろう。蒼壱の指が触れたのはまさにその場所だ。奇しくも遼太はあの時と同じ場所を打ちつけてしまったようだ。

「……絵のコンクールがあったんだ」

 空を描くようになってしばらく経った頃、コンクールに出品したらどうかと田中から進められた。出品条件は提出時に小学生であること。題材は自由。この条件ならば何も気にせずに好きな絵が描けるし、それが遼太の自信になればと思って提案してくれたのだろう。

 それから、遼太は空の記憶を残すようにした。最初はノートに取りながら、気に入った空は母親に頼んでカメラで撮影してもらうこともあった。それでも自分で空を描けた時が一番気分が良かった。たくさんの作品と並んでも遜色ない、そんな作品にするならばどの空がいいだろう。そう思いながら完成したのは、初めて空を描いた日の空だった。

 コンクール前日、明日の空に思いを馳せながらひとりで絵画教室から帰っていた。今日の空も綺麗だから母親に頼んで撮ってもらおう。自分でこの色を作ってみてもいい。明日も、その次の明日もきっとそうする──そんなことを考えながら空を見上げて歩いていた。だから歩道橋の階段から足を踏み外したのは、遼太の不注意だった。

 目が覚めたのはコンクールから三日経った正午だった。真っ白なシーツと見たこともない天井、そして泣き出す母親が視界に入った。遼太が心配なのだと言っていた母親を悲しませてしまったことに、遼太はひどく後悔した。

「傷の周りだけ髪の色がもっと薄くなって、それに合わせて染髪も染めるようにしてるんだ。元から明るいし、もうそれでいいかって」

 コンクールの結果は退院後に教えられた。結局、どの賞にも入らなかった。それを知った時、遼太の中にあった何かがぷつりと切れてしまった。絵画教室には通わなくなり、空の記録をつけることもやめた。空に向けてスマートフォンを向ける人を見かけると、未だにやるせなさと虚しさに襲われる。

 遼太の話を黙って聞いていた蒼壱は、そっと遼太の傷跡に触れた。この傷が嫌いだった。鏡を見るたびに飛び込んでくる傷口が色々なことを思い出すから。自分で触れることも好きではない。それなのに蒼壱の指先が触れるの悪い気がしなかった。きっと指先が冷たいからだと、そう遼太は思うことにした。

「ここだけ変な色だろ?」

「そうでもないよ」

「周りが明るいから今は分かんないんだ」

「ここの色だろ? 他のところより綺麗だと思う」

 蒼壱のむず痒い言葉に思わず苦笑する。でも蒼壱がそう言うのなら、もうそれでいいかと思った。

「コンクールの日にさ、空を見たかったんだ。そうしたら何か、自分のしてきたことが肯定される気がしたんだと思う……結局俺のせいで見れなくて、この傷を見るたびにその時のことを思い出すから、だから」

 また止まらなくなった遼太の言葉を、蒼壱は相槌を打ちながら静かに聞いている。その間も指先は優しく傷跡を撫でていて、そのせいで遼太の目には涙が滲み、それを隠すように涙を拭った。

「痛そうだな」

 蒼壱はぽつりと呟いた。

「もう痛くない」

 嘘だ。本当は今でもたまに疼く。でもそれが傷の痛みなのか、心に刺さった何かのせいなのか、遼太は未だに分からなかった。

「怪我をした時のことも後から色々聞いた。かなりやばかったらしいけど、田中がすぐ救急車を呼んでくれたらしい。絵画教室の帰りだったのが不幸中の幸いだって……」

 うっかり田中の名前を口にしてしまい、遼太は慌てて口をつぐんだ。怪我をした日のことはあまり覚えていないが、田中には感謝している。帰宅途中の田中がすぐに助けてくれなかったら、今頃こうして高校に通えるほど回復ていたかも分からない。けれど田中の話に蒼壱は敏感だ。目を開けると蒼壱と視線が合う。やはりどこか複雑そうな表情をしていた。

「支倉って、田中のこと嫌い?」

 遼太の問いかけに蒼壱は困ったように笑った。

「嫌いじゃないよ」

 少し考える素振りをしてそう言うと、蒼壱はじっと遼太を見つめた。また変なことを言っただろうかと不安になり、遼太の心臓がどくんと跳ねた。

「早瀬は好きなのか?」

「俺? 俺は、まあ、好きだよ」

 長い付き合いの中で、教師と生徒としての交流を持ちながら何度助けられたか分からない。田中は遼太の恩人だ。だからデッサンモデルを持ち掛けられたら必ず引き受けるようにしている。

「俺も、田中は良い教師だと思う」

 それだけ言うと蒼壱は黙ってしまった。心が触れ合うような交流が途切れてしまったことに、遼太は後悔を覚えた。蒼壱はそんな遼太を落ち着かせるように、額の傷を優しく撫で続けてくれる。その手は変わらず優しかった。そうしてお互い黙ったまま、ただ時間だけが過ぎていった。




 遼太の回復を待ってから過去から戻った遼太と蒼壱は、早めに帰宅することにした。遼太の傷を心配してくれてのことだったが、せっかくパスポートを用意してくれた蒼壱の父親にも申し訳ないと思った。しかし成果はあった。三時間近く過去に滞在していたが、手順を踏めば何事もなく戻ってくることができるということが分かったのだ。蒼壱の考察は当たっている可能性はぐんと高くなった。

「やっぱり、次はお前のじいちゃんに会いに行こう。それで過去には何時間いても大丈夫だって確信できたら、お前の目的を実行する」

 帰りの電車に揺られながら提示された遼太の案は、なかなか良いものだったはずだ。しかし蒼壱は渋い顔をして首を横に振った。夕方のこの時間は遊んで帰るには少し早く、電車内の人も行きよりはまばらだ。先ほど停車した駅で親子が降りて、蒼壱と遼太の乗る車両はふたりだけになった。これで多少は秘密の話をすることができる。

「駄目? じいちゃん、遠くに住んでるとか?」

「じいちゃんは隣町に住んでる。でも五年前の今頃は県外の病院にいるんだ」

「遠いなら泊まりがけで行ってもいいよ。支倉だってじいちゃんに会いたいだろ?」

 それは遼太の素直な気持ちだったが、蒼壱は少しだけ表情を和らげて笑っただけだった。

「会いたいよ。でも面会は……たぶんできない」

 これ以上踏み込むことは蒼壱を傷つけることだと理解し、遼太は黙って俯いた。そんな遼太の肩に手を乗せ、蒼壱は「ありがとう」と呟いた。

「何が?」

「写真を追いかけてくれただろ。どんな写真か見たか?」

「見てない。見られたくないもんだったら嫌だろ?」

 たとえば、それは遼太にとっての額の傷だ。人の秘密に好奇心を持つこともあるが、出来る限り何事にも首を突っ込まないと決めている。

「そういうところ、早瀬って良い奴だと思う」

 そう言うと蒼壱は定期入れを取り出して遼太に見せた。ふたつに折りたたむタイプのそれは片方に定期が入っていて、もう片方には裏返された写真が入っている。

「俺はこの、写真が撮られた場所に行きたいんだ」

 遠くを見つめながら蒼壱は呟く。その場所に思いを馳せているのだと、遼太も理解した。

「五年前にじいちゃんが絵の展示会で撮ってくれた写真で、俺の大切なものがそこにある。それにまた会いたいんだ」

 遼太に向き直った蒼壱は、畏まった様子で遼太を見つめた。

「今度は俺に付き合ってくれるか?」

「その写真の場所に?」

「違う。戻りたい日はまだ先なんだ。でも早瀬に見てほしい場所がある」

 ふたりの手は自然と重なっていた。ここでシャッターを切るのかと遼太は一瞬焦ったが、蒼壱はただ遼太の返事を待っているようだった。遼太が頷くと蒼壱はまた「ありがとう」と言って窓の外に視線を移した。車両には相変わらずふたりだけで、このまま遼太の降りる駅まで、人が乗り込んでくるような大きな駅もない。繋がれた手はこのままにしていようと、遼太はそう思った。


 今週、期末テストの結果が返ってくる。数日の午前登校の後にしばらくはクラスメイトと校内で顔を合わせることもなくなるだろう。夏休みが始まろうとしていた。

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