Chapter.2
過去に戻った日から数日経った土曜の午後。月に一度、午前中だけの憂鬱な授業を終えた遼太は、自由になった午後を美術準備室で過ごしていた。美術準備室の窓は他の教室よりも大きく、おかげで空をよく見ることができる。考え事をするのに最適な場所だった。
「支倉と仲良かったのか」
窓の外をぼんやり眺めていた遼太は、副担任の田中の声で現実に引き戻された。
「最近仲良くなった」
「へえ、珍しいな。早瀬の友達にしては」
田中は手を止めずに鉛筆を動かし続けている。真っ白だったスケッチブックに遼太の横顔が浮かび上がっていく。あと少し影をつければ、田中の満足のいく出来になるだろう。
「秘密の共有。だから秘密」
遼太の言葉に田中は楽しそうに笑った。デッサンのモデルをしている時、田中は多少なら動くことを許してくれる。モデルの依頼は久しぶりだ。石膏相手ではなく、たまには生きた人間を描きたくなったらしい。
「俺と石膏像ってそんなに違う?」
「そりゃあ、石膏像に血は通ってないからな。肌や眼球とか、やっぱり違うよ」
「通ってるみたいに描けはいいじゃん」
「見たまんまに描くのがデッサン。そんなことできないよ」
そう言って掻き上げられた田中の髪は以前よりも伸びていて、そのことに田中自身も気づいたのかため息を吐いている。高校生活で身だしなみの注意を受けるのは生徒だけではない。教師、特に田中のように二十代後半の男性教諭ともなれば保護者や年配の教師たちからの目も厳しくなる。男子校だからその制限は多少緩いけれど、以前に田中はぼやいていた。
「また作品の出品はしないの?」
「しばらくは無理だな。夏はテニス部の大会についてかなきゃならないし……」
「もうひとり顧問がいるんだからそっちに任せればいいのに」
「そういうわけにもいかないだろ。テニス部がやる気になってるんだから顧問として応援を……早瀬、ちょっと動きすぎ」
咎められて姿勢を正しながら、遼太は疲れた顔の田中をじっと見つめる。硬式テニス部は例年、テニス経験の無い顧問の指導のもと、いたって平凡な成績を残してきた。それがどういうわけか、今年は関東大会へ出場することになってしまった。おかげで部員も顧問も大忙しだ。
「美術部だけ見てればいいのに」
そう呟いた遼太に、そういうわけにはいかないとまた田中は言った。
「教師って困ること多すぎない?」
「大人は困ることばっかりだよ」
田中のこういう姿を見るたびに、教師になるのは大変だなと思う。スケッチを続ける田中のため、遼太はまた窓の外へと顔を向けた。
肘をつこうとした時、机の上に出していたスマートフォンが振動した。秘密を共有する友達、蒼壱からの連絡を告げる通知が入ったのだ。
「もう終わりそう?」
「あとちょっと……何だ、予定あるのか?」
「いや、まあ……」
遼太が答える前に、大きな音を立てて美術準備室のドアが開けられた。突然の登場に遼太は驚いたが、蒼壱も遼太以外の存在がいることに驚いているようだ。今日の放課後は美術準備室に用事があるとだけ伝えていたため、まさか硬式テニス部兼美術部顧問の田中が一緒だとは思いもしなかったのだろう。こんな光景が現れるとは思いもしなかったのだろう。
「……すみません、急に」
「ああ、気にするな。俺がいて驚いたよな」
田中は蒼壱を気遣って笑いかけ、こちらへ来るように手招きした。
「あと少しで終わるから、ちょっと待っててくれるか? 」
「え、続けんの?」
困惑しながらも田中に促されるまま、仕方なく遼太も窓の外を見つめる。田中のデッサンモデルは何度も引き受けているので慣れているのだが、第三者がいるのは初めてだ。それに蒼壱に見られているというのも居心地が悪い。ちらりと視線を投げかけると、蒼壱は表情を変えることなく、射抜くように遼太を見つめていた。あまりにも強い視線に遼太が落ち着きなくそわそわしていると、田中は苦笑して「今日はもう止めにしよう」と言って鉛筆を置いた。
「え、まだ終わってないだろ?」
「いや、今日は大丈夫だ。また近々頼むよ」
田中はスケッチブックを閉じて席を立ち、蒼壱に「悪かったな」と声を掛けた。
「何だよそれ……じゃあ俺、支倉と行くから」
立ち上がって荷物をまとめ、蒼壱の方へ歩みを進める。美術準備室を後にしようとした時、「支倉」と田中が蒼壱を呼び止めた。
「早瀬のことよろしくな」
蒼壱は言葉の意味を考えるように沈黙した。それから「はい」と返事をしたのだが、その視線は強く、射貫くような視線なのだが、田中に向けるそれは攻撃の色が滲んでいるような気がした。蒼壱は困惑している遼太の腕を掴み、まるで連れ去るように美術準備室から飛び出した。
「支倉! 何なんだよ!」
大きな音を立てて閉められたドアに驚きながら、遼太は蒼壱に引きずられるように廊下を歩いた。蒼壱は無愛想たが乱暴な奴ではない。それなのに今は遼太の言葉に耳も貸さず、ただ廊下をぐんぐんと進んでいく。
「なあ、俺のことよろしくだってさ。田中、おせっかいだよな。俺が友達いないと思ってるんだ」
軽口を叩いてみたが蒼壱の態度は変わらなかった。待たせたことが相当気に障ったのだろうかと戸惑っていると、下駄箱の前まで来たところでようやく蒼壱は歩みを止めた。
「……怒ってる?」
「怒ってない」
「気分悪くさせたんなら謝るよ。俺のせいだよな? それとも田中が余計なこと言ったから?」
「違う。ごめん、悪かったよ。もういいから」
視線も合わせずにそう言うと、蒼壱はさっさと靴箱から靴を取り出して履こうとした。その態度に思わず遼太も苛立つ。突然人を連れ出して、何も答えずにここまで引っ張られた理由を遼太には聞く権利があるはずだ。
「いいわけないだろ。俺、支倉を怒らせたんだよな? 理由言ってくれなきゃ分かんねえよ」
「ほんとに何でもない。落ち着けよ」
「俺は落ち着いてる。お前だろ、落ち着いてないのは」
「だから悪かったって。そんな突っかかることじゃないだろ」
振り返った蒼壱の表情に遼太の体は強張った。もううんざりだと言うような、冷たい視線だ。遼太の悪い癖が出た。気をつけていたのに、どうしてまたやってしまったのだろう。遼太の頭の中で一瞬、別の景色が映し出された。蒼壱の視線は遼太に、屈辱の気持ちを思い出させたのだ。
「しょうがないだろ! 俺は気になったらずっと気になるんだから!」
遼太の声は昇降口に響き渡った。幸い、生徒はほとんど校舎からいなくなっていた。蒼壱と遼太と、ふたりの間に重苦しい沈黙が流れる。やってしまった。うまくやれていたのに。また人に、蒼壱に、変な奴だと思われる──
「何やってんの?」
止まってしまった時間に、突然、第三者の声が入ってきた。昇降口へと視線を向けるとクラスメイトの城戸が下駄箱の影から顔を覗かせていた。着ている野球部のユニフォームには泥がついていて、どうやら今日は部活がある日のようだ。
「どうした? 喧嘩?」
「違うって。ちょっと、意見が合わないだけ」
城戸は遼太の喧嘩相手が誰なのか確かめるために視線を泳がせ、それが蒼壱だということ気づくと「あっ」と声を漏らして黙ってしまった。
「喧嘩じゃないなら大丈夫か。邪魔してごめんな」
気まずそうに蒼壱から目を逸らし、そう告げると城戸は乱暴に靴を脱いで校舎の中へ走っていった。城戸と目が合った時、蒼壱も一瞬目を見開いていたのだが、それが意味するものが何なのか遼太には分からなかった。
「城戸と仲良いの?」
「別に……そういうわけじゃない」
バツが悪そうに頭を掻き、蒼壱はまた黙ってしまった。蒼壱について知っていることは決して多くない。交友関係もそうで、遼太のクラスの中で蒼壱と交流がある生徒も特に思い浮かばなかった。不思議そうに顔を覗き込まれ、蒼壱は観念したように口を開いた。
「城戸とは昔の知り合いなんだ。少年野球の」
「あ、そうか……」
蒼壱の家で見た写真を思い出して納得がいった。小学生の頃から野球をやっていたと城戸が話していたことを思い出した。
「それから、さっきはごめん。自分でもよく分からないけど、でも早瀬に、怒ってるわけじゃない。田中にも」
「いや、俺が突っかかったから……そうじゃないな。ごめん。俺も変なこと気にして」
深く頭を下げられ、遼太も慌てて謝罪をする。蒼壱がそう言うのなら問いただすことでもないのだろう。蒼壱と遼太はまだ交流間もない。全てを聞く必要はないのだ。そして全てを話すこともないと、遼太は頭に浮かんだ疑問を奥の方へと仕舞い込んだ。
「で、今日はどうする? また支倉の家に行くのか?」
校門へ向かいながら遼太が訪ねると、蒼壱は悩むように視線を泳がせた。放課後に落ち合う約束はしたが、何をするかは具体的に決めていなかったのだ。
「俺の家だと早瀬の帰り遅くなるし……早瀬は行きたいところないの?」
「俺?」
「そう。俺みたいに自分の家……だと遠いか。五年前だから、通ってた小学校とか」
「俺、小学生の頃に一回引っ越してるんだ。今住んでる家とは違うし、通ってた小学校もちょっと遠いしなぁ……」
蒼壱は遼太の言葉に、少し驚いたように目を丸くした。
「引っ越してきたって、県外から?」
「いや、隣町に住んでたんだ」
「隣町なら何かしら一緒になりそうなもんだけど」
「学区が違うからかもな。父親の仕事が忙しくなってさ、ちょっとその関係で……あの頃は皆余裕なくて、家族で出掛けるとかなかったなぁ。遊園地とか動物園とか行きたかったけど」
蒼壱は何か考え込むように視線を逸らせたが、「そうか」と呟いて黙ってしまった。その表情が気になったが、また口論になることは避けたい。ひとまず、自分が五年前の今に戻るのならばどこに行きたいかを、遼太は考えることにした。前回の経験を踏まえるなら、戻れる過去は五年前のその場所であるはずだ。
校門をくぐったところで足を止める。土曜ともなると辺りはいつもより静かで、今の時刻は十五時三十分を少し回ったところだ。五年前、十二歳の自分は何をしていただろう。記憶を頼りに過去を遡っていると、あることを思い出した。
「俺の行きたいところでいいんだよな? そしたらさ、商店街に行こう」
「商店街って、駅前の?」
「そう。小学生の俺が馴染みのある場所って、この辺りだとそこくらいなんだ」
高校から商店街まではそう遠くない。駅の目の前と言っていい立地だ。多少賑わっているだろうから注意をする必要はあるが、どちらかの家よりも確認できることがたくさんある。蒼壱も納得したように遼太の案に賛成した。
「早瀬って美術部だっけ?」
商店街へ歩く道すがら、突然、蒼壱はそう尋ねてきた。
「いや? 部活は何も入ってないけど……」
なぜそんな質問をするのか意図が分からなかったが、蒼壱は先ほどの一悶着の原因について知りたいのだと察した。確かに、美術準備室を訪れるのは美術部員くらいかもしれない。ましてや顧問のモデルを引き受けるなんて状況はほぼないと言っていいだろう。
「たまに田中のデッサンモデルしてるんだ。田中って本当は絵を描いて暮らしたかったんだってさ。親が反対して、美術の大学に進む代わりに教師の資格取るって約束して、それで教師やってるらしい」
遼太の言葉にふたたび蒼壱が黙ってしまった。空気を変える世間話のつもりだったのだが、遼太も蒼壱の態度が気に障った。
「何だよ? 支倉が気になってるのって準備室のことじゃないのか?」
「田中と仲いいんだな」
「田中と?」
蒼壱の言葉の真意を掴めず、遼太は思わず口籠った。
「仲いいっていうか……」
田中は生徒からそこそこ人気のある教師だ。歳が生徒と近いほど親近感を持たれるものだし、人当たりも良いから遼太も気兼ねなく話すことができる教師のひとりだ。ただ、どうやら田中にとっては違うらしい。それかは、遼太にとって田中が話しやすい理由はもうひとつある。それを伝えるべきか少し迷ったが、蒼壱の知りたい答えであればと遼太は口を開いた。
「田中って、俺が小学生の時に通ってた絵画教室の先生だったんだ。あの時はまだ大学生で、アルバイトだったらしいけど」
それは五年も前のことで、そこで遼太は田中にかなり世話になった。このことはもちろん友人たちにも言ったことはない。妙な贔屓をしていると誤解されることも避けたいので、高校では他の教師と生徒と変わらないように接している。おかげで仲の良さを指摘されることは今までなかったのだが、さすがに美術準備室でのやり取りは関係を疑われる一因になってしまったようだ。
「早瀬って絵描くのか?」
蒼壱は驚いたように目を丸くした。言葉の険が取れたことに安堵し、返事の代わりに首を横に振った。
「小学生の時な。中学に上がって辞めた。引っ越しもあったし……でも一番の理由は、才能がなかったんだ。俺の絵って上手くなくて……」
口をつぐみ、ちらりと蒼壱の表情を窺う。蒼壱は特に表情を変えることもせず、遼太の話を黙って聞いていた。気分を害してはいないらしいことにまた安堵し、話を有耶無耶に切り上げた。遠くに商店街のアーケードの入り口が見えた。その向こうに見える空にはまだらな雲が広がって、とても薄い水色が綺麗だと思った。
「こっちだ」
蒼壱を誘導しながら商店街の入り口のアーケードを潜る。入ってすぐある喫茶店があり、数軒進むとクリーニング屋が見える。その隣には古びた白い壁の画材屋があって、二階部分には絵画教室と描かれた看板が掛かっていた。
「小学生の頃、毎週土曜日の午後にあそこへ通ってたんだ」
そこは画材屋の店主が趣味で間貸ししている絵画教室で、子供たちに絵を描く楽しさを知ってほしいと始めたらしい。市内にある美術大学の学生や教師が講師となって、今も経営は続けられている。その美術大学の学生たちが画材屋の主な客だ。店内には学生らしき人物がふたりほど、商品を吟味している姿が見えた。店の外のガラスに貼られた文化祭のポスターも、その美術大学のものだ。夏休み明けすぐに開かれるらしい。
「五年前の俺に会うならここだ。ここにいるはず……」
「分かった。試してみよう」
蒼壱はリュックからカメラを取り出し、遼太の手を遠慮なく掴もうとした。
「待てって! ここで繋ぐ気かよ!?」
慌てて蒼壱の手を振り払い、知り合いはいないかと周囲を見回した。土曜の授業後は、安くて美味い商店街の肉屋のコロッケを買いに来る学生が多いのだ。同じ高校の制服を着た生徒もぱらぱらと見える。蒼壱と手を繋いでいる姿を見られて妙な噂を立てられるのはどうしても避けたい。
「大丈夫だろ。誰も気にしないよ」
「俺は気にすんの!」
蒼壱の返答に呆れながら、遼太は蒼壱の手首を掴んで画材屋の物陰へ連れ込んだ。遼太の心配を他所に、蒼壱は興味深そうに辺りを見回りしている。
「俺もこの商店街に来たことあるけど、この画材屋は知らなかった」
「まあ用事がなければ気に留めないよな」
そういえば遼太もこの画材屋の存在をすっかり忘れていた。田中との関係を蒼壱に説明するため、記憶の底から取り出した思い出なのだ。どうして忘れていたのだろうかと、遼太はじっと考え込んだ。
「やりたいことは決まってるのか?」
そんな遼太の目の前に、蒼壱の手が差し伸べられる。遼太に怒られると思ったのだろう、蒼壱は手を繋ぐタイミングを遼太に委ねることにしたようだ。それに応えるため、遼太も蒼壱の手を力強く握った。
「どうだろうな。でも昔の俺のことは見たいかも」
互いにひとつ息を吐いて、蒼壱がカメラを構えた。レンズ越しの視線を捕らえて、その瞬間にシャッターが押される。肌を舐めるあの感覚が襲う直前、遼太は思わず身震いした。この場所を思い出さなかった理由。それは遼太がその記憶に蓋をしたからに他ならなかった。
「早瀬……?」
心配そうに呼び掛ける声が聞こえる。気がつくと遼太は崩れ落ちそうな膝を立たせ、俯きながら息を吐いていた。
「……大丈夫」
深く息を吸い込んだその時、子供たちのはしゃぐ声が遠くから聞こえてきた。蒼壱とふたりで息を潜めて物陰に隠れると、画材屋の裏手から小学生たちがどやどやと現れ、画材屋の店主に挨拶をして帰っていくのが見えた。画材屋の正面のガラスが目に入る。美術大学の文化祭のポスターには、五年前の開催日時が記載されている。蒼壱が取り出して見せたスマートフォンの画面には、午後三時を少し回った時刻が映し出されていた。
「この時間だとちょうど絵画教室が終わった頃かも」
遠ざかっていく子供たちの背中を見つめながら、遼太はぽつりと呟いた。そして同時に、ある変化にも気づく。
「支倉、ここ見ろよ」
蒼壱のスマートフォンに映し出された画面を指さす。現在の時刻が映し出される画面の右上。電波状況を示すその場所には『圏外』と表示されていた。
「最初に過去に飛んだ時、ほら、散歩してた犬のこと調べただろ。あの時も圏外になってたんだ」
どうやら過去に戻るとスマートフォンは使えなくなるらしい。これはひとつ、得られた成果ではないだろうか。
「過去に戻ったら離れない方がいいな」
蒼壱の言葉に遼太も頷く。はぐれてしまえば連絡手段がなくなる。手を繋がなければ過去に戻れないと仮定したら、ふたり揃って過去に取り残される可能性がある。
「あの中に早瀬がいたのか?」
蒼壱は子供たちが去っていった方角を見ながらそう尋ねた。
「……いない」
蒼壱の手を引きながら、画材屋の裏手に続く細い路地を歩いた。そこは小さな庭になっていて、白いペンキが塗り重ねられ壁に、ステンドグラスのようになった小窓が取りつけられた扉があった。そこが絵画教室の入り口だ。
「俺は、中にいると思う」
胸にこみ上げる感情は確かに懐かしいのに、それを上書きするように塗り替えるてしまいそう感情がある。その感情が蘇らないように、遼太はずっと、この場所に蓋をしていたのだ。
音を出さないように扉を開けた。この扉はキィと小さく軋むから、できるだけ力をかけずにドアノブを回さなくてはいけない。その力加減を、遼太はまだ覚えていた。
「入って大丈夫なのか?」
「大丈夫。たぶん教室には俺しかいないから」
扉の先にはすぐ、二階へ続く階段がある。絵画教室は画材屋の二階と、一階の一部が使われていた。入ってすぐ左の部屋が講師たちが休憩するスペースだ。ここには大人がいるかもしれない。音を立てないよう伝え、蒼壱の手を引きながら階段を上がる。急だと思っていた階段は、今はむしろちょうどいい高さに感じた。二階はふたつの部屋で構成されている。少し広めの生徒たちが絵を描くための部屋と、画材や道具をしまっておく少し狭い部屋。遼太は手前の、画材がしまってある部屋の扉をそっと開けた。
中にはキャンバスや石膏像、絵の具やスケッチブックが敷き詰められるように置かれていた。もしも誰か入ってきても、身を隠すものはたくさんある。遼太は静かに扉を締めると、蒼壱に向こうの壁を見るよう促した。そこには隣の部屋へと繋がる扉がある。普段は使われないその扉は半分が小さな棚で塞がれていて、扉に取りつけられた小窓から隣の部屋の様子を覗き見ることができるのだ。
「向こうから俺たちの方は見えにくいんだ。ちょうどキャンバスが立て掛けられてて、影になってるから」
「何で分かるんだ?」
「教室が始まるギリギリまでここに隠れてた」
あ、やってしまった。
遼太の頭の中に浮かんだその言葉は、きっと表情にも出ていたはずだ。押し寄せる後悔を誤魔化すために、遼太は小さく笑って隣の部屋を見つめた。
「入り辛かったんだ。馬鹿にされるから」
蒼壱はいつもの無愛想な表情で遼太を見つめた後、小窓から隣の部屋を覗き込んだ。
教室の隅には少年が座っている。窓に向かってキャンバスを立て、ぼんやりと空を眺めていた。キャンバスは真っ白で、その一部にはぞんざいに塗られた青い線が走っている。空とは似うかない、絵の具をそのまま絞ったような色だ。窓から差し込む強い光が少年を照らすと、薄茶色の髪の毛がよく目立った。
「あの髪も、からかわれる原因のひとつだったな……」
間違いなく、目の前の少年は子供の頃の自分だ。この場所は遼太にとって、大切で、愛おしくて、そして自分の惨めさを思い出す場所だ。情けなくて悔しくて、先ほどの言葉にはそれが滲んでしまった。
「遼太」
突然名前を呼び掛けられ、遼太の肩はびくりと跳ねてしまった。蒼壱も驚いたようだが、そっと隣の部屋を指さして遼太二見るよう促した。呼び掛けられたのは十二歳の自分のようだ。
隣の部屋に誰か入ってきて、子供の遼太に話し掛けている。その横顔は紛れもない、大学生の頃の田中だった。まだ教師という仕事に疲れ切っていない、溌剌とした笑顔が今は懐かしく思えた。
「あれ、田中」
「ああ、そうだな」
田中は少年の遼太の隣に向かって何か一生懸命に話しかけている。何を話しているのかは聞こえないが、会話の内容はぼんやりと覚えている。今日はどこまで描けたから何を描きたいか、今日の絵は色の使い方が良いな……ひとり教室に残る遼太を、田中はいつも気にかけてくれた。
「俺、いつもひとりだったんだ。田中がああやって声掛けてくれるから、だからよく残ってた」
遼太が感慨に耽っていると、ふいに手が強く握られた。見上げた蒼壱の表情はいつもと変わらない。けれどその表情とは反対に、今まで感じたことのない強さで遼太の手を握っている。遠くに飛んでいきそうな遼太の心を、取り戻そうとしているように感じた。
「もう行こう」
今度は蒼壱が遼太を誘導しながら部屋を出ていく。階段を音を立てないように降り、教室の入り口も静かに開いた。蒼壱のするがままに任せていた遼太は、ぼんやりと目の前の背中を見つめていた。
カランカランと、商店街のアーケード入り口にあるベルが鳴っている。午後四時を回ったのだろう。気がつくと遼太は蒼壱によって画材屋の前まで連れ出されていた。ガラスに張られている文化祭のポスターは今年のもので、遼太は驚いて蒼壱を見上げた。
「戻ってきたのか!?」
「写真、撮っただろ。覚えてないのか?」
まだ蒼壱と手が繋がれていることに気づき、遼太は慌てて蒼壱の手を振り払った。
「大丈夫か?」
「俺が変な奴だってこと忘れてた」
蒼壱の問いかけに、遼太は力なく笑った。
「俺の描いてた絵、見ただろ。いや、絵でもなかったよな。俺の描くもんって皆とは違ってさ、よくからかわれてたんだ」
口をついて出てくる言葉は歯止めが効かず、喋っている遼太もそれに焦りを覚える。また余計なことを言い出してしまいそうで、それなのにどうしても喋るのを止められない。きっと蒼壱は十二歳の自分を見て、変な奴だと思ったはずだ。そしてまた誰かに、蒼壱に幻滅されるために自分のことを喋っている。
「気にしなければいいって、分かってるんだけど、俺はひとつのことが気になるとそればっかりになるんだ。さっき、下駄箱でも言ったよな。俺は、その、だから……」
「早瀬」
蒼壱の手が遼太の手を覆った。その手があまりにも優しい温度だったから、誰かに見られたらどうするんだという言葉を遼太は飲み込んだ。
「遊園地に行こう」
「ゆ、は……?」
商店街を行き交う人々は何人かちらりと蒼壱と遼太を見ていたが、手を握り合う男子高校生という存在を気遣って視線を逸らして通り過ぎていく。そんな状況も気にならないくらい、遼太は蒼壱の提案に呆気にとられていた。
「行けなかったんだろ。なら行こう」
「行こうって、いつ?」
「来週の日曜。あ、明日でもいいけど」
「明日は急すぎるだろ!」
怒る遼太に笑い掛けた蒼壱は、「じゃあ来週」と言った。
「俺たちが遊園地に行って何するんだよ?」
「決まってるだろ。遊びに行くんだよ」
蒼壱はそう言った後、良いことを思いついたという顔をして遼太の手を強く握った。
「ついでに色々確かめよう。今日だって過去では電波が届かないことが分かったし、今度はどれくらい長い時間戻れるのかとか調べよう」
「まあ、いいけど……楽しそうだな?」
「楽しいだろ? 俺たちが遊園地行くなんてさ」
見たことのないような笑顔を見せて喋る蒼壱に、遼太は呆気にとられっぱなしだ。スマートフォンのスケジュールに予定を入れたらしく、蒼壱は楽しそうにその画面を遼太に見せてきた。
「家に帰ったら連絡するから、時間はまた決めような」
そう言って遼太に手を振ると、蒼壱は商店街のアーケードを潜って帰っていった。残された遼太は呆然と商店街に立ち尽くし、蒼壱の言葉を思い返していた。日にちを決めて、行く場所も決めて、おそらく手を繋いで遊園地を歩くことになる。それって──
「デートじゃね……?」
商店街の入口の看板の、古びた電球がパチパチと音を立てて点滅した。暗くなるにはまだ早い、夏の夕方の明るい空を眺めながら、遼太は来週の今日の自分を想像することができなかった。
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