君はいつかのデラフトブルー
明星
Chapter.1
こんなはずじゃなかったのにと思うことがある。
その日の朝は曇り空で、休日なのに最悪の気分だと少し落ち込んだ。リビングに降りると家族はとっくに自分たちの生活を始めていて、誰も残っていない部屋は天気のせいでより暗く感じた。今思えば、そこでやめておけばよかったのだ。洗面台には数日前に興味本位で買ったヘアカラーの箱が転がっていて、それをまた興味本位で使ってみることにした。いつもの美容院に行こうだとか、姉の帰りを待とうだとか、そういうことを考えもしなかった。
「マジか……」
少しだけ、本当に少しだけ明るくなれば良いと考えて染めた髪は、想像以上に明るい茶色という仕上がりになった。その頃には空もすっかり晴れていて、窓から差し込んだ夏の強い日差しに照らされたせいで余計に明るく見え、幾筋かは金色が混じったように輝いている。傷んでしまったのかもしれない。
「さすがにこれは怒られるよなぁ……」
比較的緩い校則の学校に通っているとはいえ、これは担任から一言注意が入りかねない。ましてや夏休み前ならばなおさら、気が緩んでいるとお叱りを受けるだろう。担任の顔と、ついでに副担任の顔まで思い浮かべたところで嫌な想像をするのをやめにした。右目の瞼に触れて、それから額に手を滑らす。髪を掻き分けたすぐ先にあるそれに触れて、ひとまず、これでいいと思うことにした。リビングで点けっぱなしのテレビが午後の天気を知らせている。自分の心とはうらはらに、雲ひとつない快晴が広がるらしい。
早瀬遼太の高二の夏は、こうして始まった。
今日の空は薄水色で、それに映える巨大な入道雲がひとつ。梅雨明けを告げるのに相応しい空だ。そこに輝く太陽の光は突き刺すように痛い。
「遼太のやつ、なんで頭抱えてんの?」
「髪染めるの失敗したんだってさ。試験前にアホだよな」
「うるせー……」
友人たちの軽口に、遼太は力なく呟いてまた頭を抱えた。担任には既に、テスト期間中に何をしているんだと呆れられ済みだ。今日が期末テストの最終日ですぐに夏休みが始まることは幸運だった。それと、明るい場所で見なければ髪色もそこまでは目立たないことも良かった。今学期は窓際の席だったのもラッキーだ。カーテンを積極的に引いて一日を過ごすことができたのだから。
教室のドアが開き、思い思いに過ごしていたクラスメイトたちはのろのろと自分の席へ帰っていった。ホームルームにあとはテスト期間をやり過ごせば、夏休みという自由が待っている。
友人のからかいがまた飛ぼうとした時、教室のドアが開く音が聞こえて教室のざわめきが少し落ち着いた。担任が入ってきたのだろう。そう思って顔を上げた遼太は予想外の人物が立っていることに驚いた。
「期末試験が始まるから各試験の担当の話はよく聞いておくように。夏休みが待ってると思って頑張れよ」
そう言いながらプリントを回していく副担任の田中は、二十代半ばの美術教師であり、こうしてホームルームに顔を出すことは滅多にない。遼太が高校に入学した頃より日に焼けているのは、今年から硬式テニス部の顧問などという面倒な役回りを押しつけられたためだ。文化部の教師がやったこともないスポーツの顧問をやらされているその姿を見ると、非常に同情したくなると同時に、面白いような面白くないような、そんな複雑な感情を遼太に呼び起こさせた。
遼太の視線に気づいたらしい田中は、遼太の方へちらりと視線をやると、少しだけ咎めるような目つきをした。遼太の髪が以前より明るくなったことに気がついたようだ。とぼけるように遼太が笑うと、田中は呆れを含んだ表情を滲ませながら視線を逸らした。
「来週の水曜に大会があるから、午前中は硬式テニス部の奴らはいないからな。悪いけどノートを取らせてやってほしい。試合に勝ったら午後も来ないから、テニス部が一日教室に顔出さないように祈ってやってくれ」
その言葉で短いホームルームは締め括られた。生徒たちは途端に席を立ったり話し始めたり、教室はホームルーム前のざわめきを取り戻した。その音に紛れて去っていく田中の背中を見送っていると、遼太の肩に手が置かれた。先ほど遼太の髪をからかった城戸だ。
「なぁ、寄り道して行こうぜ」
「お前、今日部活は?」
「今日は全体休みなんだ。高岡と上原も行くってさ」
城戸はもちろん、高岡や上原と遊ぶのは嫌ではない。しかし髪をからかわれた直後では少し気分も落ち込むし、何より今日はどこかに寄ろうという気分でもなかった。
「あー、悪い。今日は帰んなきゃ」
「またかよ。最近忙しいの?」
少し不満げな城戸に、そういえば先週も誘いを断っていたなと思い出す。
「まあ、ちょっと。来週は時間できると思う」
ちょっとした野暮用があるのは事実だった。それももうしばらくしたら落ち着くだろう。もう一度悪いなと伝えると、城戸は脇に従えた友人たちと一緒に手を振りながら教室から去っていった。よし、今日も関係は良好だ。訪れた少しの安堵とともに、遼太も荷物をまとめて席を立つことにした。
遼太の高校は県内では極めて平凡な男子校だ。頭が特別良くない奴と、スポーツがそう得意でない奴と、そのどちらでもない奴で構成されている。遼太がこの学校に通っているのは、遼太もその一員だからだ。窓から見えるグラウンドの運動部員たちもきっとそう。だからこそ、今年の硬式テニス部の躍進に教師たちは色めき立っている。
そんなことを考えている内に、あっという間に昇降口に着いてしまった。まだ帰る気分にもなれず、遼太は昇降口の前を通り過ぎ、廊下を突き進むように歩き出した。すぐ先の階段を上がり三階の廊下へ。さらにそのまま廊下を進み、突き当たりの外階段へ繋がる扉に手を掛けた。この外階段は部室棟への近道なため、以前は利用する生徒も多かったがいつからか鍵が掛けられるようになった。しかし空気の入れ替えのために時々、鍵が開けられていることを遼太だけは知っている。ドアノブは簡単にするりと回った。
「あれ、早瀬?」
まさに扉を開けようとした瞬間、背後から声を掛けられ思わず振り向いた。そこにはクラスメイトの城戸が、きょとんとした顔で立っていた。
「何でこんなとこにいんの?」
「あ、いや……そっちこそ何で?」
「部活行くんだよ。ここからだと部室まで近いからさ」
そう言って城戸は遼太が先ほどまで手を掛けていたドアノブを回した。もちろんそれはするりと回り、開かれた扉の先から強い夏の日差しが差し込んできた。
「この時間ならここ、空いてんだよな」
じゃあなと手を振り、城戸は扉の先の外階段を軽快に降りていった。前言撤回。遼太だけが知っていると思っていたこの扉の秘密は、どうやら一部の生徒には常識であるようだ。
城戸の姿が見えなくなったのを見届けてから、遼太は扉を一歩踏み出した。コンクリートでできた味気ない階段ではあるが踊り場は広く、なかなかの開放感が味わえる。そこからの光景はこの学校の全体がなんとなく見渡せ、おかげでグラウンドでボールを追いかけるサッカー部の姿がよく見える。今日はサッカー部がグラウンドを広く使う使用権を獲得したらしい。地上の刺すような暑さはここでも健在だが、高さがある分、風が吹いていく涼しさがある。ここで時間を潰すのが、遼太は好きだった。
深く深呼吸をしてから階段を降りる。手に触れる硬いコンクリートは遼太を優しく受け入れてはくれないが、ひんやりとした冷たさが心地よい。地上まであと一階分というところで、遼太はぼんやりと空を見上げた。
たまに、この高校での生活を味気なく思うことがある。遼太の通うこの男子高は、そこそこのところに進学できればいいという奴と、残りは挫折した奴らが集まる場所だ。一年の最初の自己紹介で、トップバッターが「どこどこ高校に落ちました」なんて言ったものだから、それが定型文みたいに続き、五人目が別の高校の名前を口にしてようやく担任がその流れを止めた。遼太も例に漏れず志望校に落ちてここに来たクチだ。そのことを公表せずに済んだので、その時の担任には心から感謝している。そして自分の人生には、常に挫折や諦めがついて回っているのだなと思った。
そんなことを考えていたら、強い風が踊り場を吹き抜けていった。夏の心地よい風が遼太の頬を撫でていく。暑い陽射しは痛いくらいなのに、地上から離れたこの場所には心地よい風が吹く。この瞬間がたまらなく好きだ。だから遼太は、この平凡で味気ないと思えるこの学校の夏が嫌いではない。空には教室の窓から見たのと変わらない、高く遠く伸びる入道雲と、突き抜けるような青。狭い窓枠の中よりも自由な夏空がいっぱいに広がっている。
今日はとりわけ、過去のことを思い返す一日だった。時間が戻ればいいと思ったことは一度や二度ではない。たとえば寝坊した今日の朝、髪を染めようとした昨日の午前中、受験で落ちた中三の冬──
「戻れんならあそこがいいなぁ……」
空を見上げる度に遼太の心は〝あの日〟に戻っていく。あの日の空はどんな色だったのだろう。永遠に見ることは叶わないけれど。そんな空に思いを馳せて、遼太は静かに目を瞑った。
カシャッ、という音が聞こえたのはちょうどその時だった。
はっと目を開いて辺りを見回す。近くには誰もいなかった。そのはずだ。だって音がしたのは少し遠く、さらに言うならばもっと下の方だった。
胸の高さまであるコンクリートの手すりから身を乗り出すと、地上に立つ男子生徒と目が合った。正確にはその男子生徒の持つカメラのレンズと、だ。男子生徒はカメラを構えたまま、遼太から視線を外さなかった。カメラは両手で支えるタイプの、古い映画にでも出てきそうなかしこまったやつだ。スマートフォンに搭載された便利な機能のひとつとしてではなく、写真を撮るという目的のためだけに作られたカメラ。そのカメラのレンズは遼太を捕らえたままで、そして男子生徒の指は、再びシャッターを切るために動こうとしていた。
「あ……」
遼太がそう声を漏らしたのと、カメラの向こうの男子生徒が少し顔をずらしたのはほぼ同時だった。目が合っていることに気づいた男子生徒は、シャッターを押すことなくその場で固まった。
「……なに撮ってんの?」
男子生徒はしばらく呆けたような顔で遼太を見上げながら、「ごめん」と口を動かした。遼太が投げかけた言葉は純粋な疑問からのものだったが、男子生徒には責めるように聞こえたのだろう。訂正しようと身を乗り出した遼太に、男子生徒ははっとしたように言葉を続けた。
「悪い、ごめん。たまたまなんだ。データは消すから」
「え、いや、そんなことしなくても……」
下ろされてしまったカメラを覗き込むように視線を動かすと、男子生徒はカメラをひっくり返し、裏蓋に手をかけようとするところだった。
「……なあ! それ、デジカメ?」
「違うけど」
「データ消すって……ストップ! 待て! 何もしないでちょっと待ってろ!」
意図を理解し、遼太は男子生徒を制しながら慌てて階段を駆け下りた。きっとあれはフィルムカメラだ。使い捨てのものなら、少し前に流行ったから遼太も使ったことがある。あの男子生徒はおそらく〝フィルムを取り出して日光にあてる〟つもりだ。そんなことをすればフィルムが駄目になることは遼太だって知っている。古そうなカメラだった。きっと遼太を撮る前にもそこらへんの花だとか鳥だとか、友人とか、彼なりの思い出が残っているはずで、そんなことをさせる権利は遼太にはない。
最後から三段残して階段を蹴り、難なく地上に駆け下りる。男子生徒は動きを止めたまま遼太のことを見つめていた。時間が、止まったように感じたのはそのせいだ。
「あのさ、さっきのは別に怒ったわけじゃないんだ。何を撮ってるのか気になっただけで、お前のことを責めたかったわけじゃないんだけど……」
歩み寄りながら話しかける遼太を、男子生徒は変わらず見つめている。初めてまともに視線を合わせることができた。そのおかげで、目の前の人物が隣のクラスの生徒であることに遼太はようやく気づいた。
すらりと伸びた身体は遼太よりも頭ひとつ分大きい。髪は遼太の明るい色とは違い黒く、遼太のように教師に呼び出されるようなことはないだろう短さだ。夏服のシャツの上からジャージを羽織っていて、右胸には「支倉」と刺繍がしてある。ああ、確かにそんな名前だった。合同の体育の授業で同じチームになったことがある。首からは美化委員が仕事をする時に付ける名札が下がっていて、ジャージと同じ苗字と、初めて知る名前が書かれていた。
支倉。支倉、蒼壱。
「ごめん、本当に」
蒼壱は表情を崩さずにそう遼太へ謝罪した。落ち着いた声の奴だなと遼太が思った次の瞬間、蒼壱は再び指先をカメラの裏蓋へと伸ばした。
「いや、俺の話聞いてた!? フィルムはそのままでいいんだって!」
カメラに手を伸ばす遼太から逃れるように蒼壱は身を捩った。
「大丈夫。さっきのが最初の一枚なんだ」
「だったら余計に勿体無いだろ? 俺は気にしてないからフィルムはそのままにしとけばいいよ」
「俺が気にするんだ。データは消す」
伸ばす手を次々と躱され、強情で頑固な奴という印象が蒼壱に加わる。言い争いは熱を上げていき、一向に話を聞き入れない蒼壱に焦れた遼太はようやくカメラを持つ蒼壱の手を掴むことができた。
遼太が触れた瞬間、びくりと跳ねた蒼壱の指がカシャッ、とカメラのシャッターを切る。階段の踊り場で聞いたあの少し重い音だ。違ったのはただひとつ。
「あ……?」
ずくんと空気が揺れる感覚がした。それは遼太の肌を舐めるように這い、身震いする暇も与えずに消えてしまった。
「な、んだ……?」
肌にわずかに残る感覚に気を取られながら、遼太は辺りをキョロキョロと見回した。そこは先ほどと変わらない校庭の片隅で、遼太は蒼壱の手を掴んでいた。空を仰ぐと大きな入道雲が突き抜け、夏の澄んだ青空が広がっている。キーンという音が聞こえ、思わずその音が聞こえた方角を見る。グラウンドにはボールを追い掛ける野球部の姿があり、先ほどの音はボールが打たれた音のようだった。遠くへ打たれたボールは空に溶けるように飛んでいき、誰も捕ることは出来ず地上へ落ちていった。
「……あれ?」
何も変わらない、夏の放課後の光景だ。けれど妙な違和感がある。訝しみながらグラウンド、校舎、そしてまたグラウンドへと目を移していると、グラウンドのフェンスの向こうに〝あるもの〟を見つけた。
「あ、なあ! あれ!」
掴んでいた蒼壱の手を引き、フェンスの向こう側を指さす。
「なあ、あの犬見えるか?」
遼太が指さした先には、道路を歩く犬とその飼い主がいた。大型犬に分類されるだろう真っ白な犬の足は細く、さらさらとした絹のような毛を靡かせながら優雅に歩く姿は人間でもたじろぐくらい気品に満ちている。
「あの犬が何?」
「あれ、あの犬の犬種分かる?」
放課後、いつも見掛けるあの犬が遼太は気になっていた。友人が近くにいれば必ず今と同じ質問をするのだが、遼太の望む答えは一度も返ってきたことはない。
「たまにこの時間に散歩してるんだけどさ、あの犬の種類って分かったりするか? 何て探せばいいのか分かんなくてさ」
「サルーキだろ」
だから蒼壱の返答に、全く期待などしていなかった。驚いて顔を上げると、蒼壱は「グラウンドでやってるスポーツ、あれ何?」と聞かれたような顔で遼太を見つめていた。
「嘘だろ。なんで分かるんだよ?」
「嘘じゃない。サルーキだって」
遼太も蒼壱の顔をまじまじと見つめた。相変わらず、表情は変わらない。冷たいような印象も受けるが、どちらかというと感情を表に出していないように見えた。そしてどこか信頼できるような温かさも感じる。カメラの一件から思っていたが、やっぱり少し変わった奴だなと遼太は思った。
「あの犬の犬種だよな? 何で知ってるんだ?」
「何でって……たまたまだよ」
「俺、今まで色んな奴に聞いたんだ。でも知ってる奴なんて誰もいなかった。検索もしたし……足の細い大型犬とか、海外の女の子みたいな犬とか」
「海外の女の子……?」
遼太の言葉に少し考えるような素振りを見せた後、動きの少なかった蒼壱の頬がひくりと動き、引き結ばれた口から小さな笑い声が漏れた。遼太が言わんとしていることを理解したらしい。笑いが堪えきれないといった感じで、手の甲で口を覆っている。口元を緩めたまま、蒼壱は遼太を可笑しそうに見つめた。
「良かったな。もう妙な言葉で検索しなくて済むから」
蒼壱の言葉に、遼太も驚く。なんだか、やっと支倉蒼壱という奴の本質に出会えたような気がしたのだ。こんな皮肉じみた会話もできる奴だったのかと、どこか安堵したのかもしれない。この数分で変化する蒼壱の印象に、遼太はひどく戸惑っていた。
「ちょっと待て。お前が言ってることが合ってるか検索するから……」
動揺を悟られないよう、制服のポケットからスマートフォンを取り出す。そして蒼壱が教えてくれた言葉を検索窓に打ち込んだ。解くことを忘れた右手は今も蒼壱と繋がれたままで、今更振りほどくこともできずに左手でスマートフォンを操作する。ずっと、支倉蒼壱という人間性に振り回されっぱなしだ。そう考えると操作する指先が少し震える。それに応えるように、スマートフォンの画面では検索中であることを示す小さな丸が、遼太の思考と同じようにぐるぐると回る。──いや、それにしても遅い。一向に検索結果が出てこない。訝しみながら画面を観察すると、電波状況が圏外になっていることに気がついた。
「え、嘘だろ……?」
遼太たちのいる敷地は学校内で、今まで一度も圏外なんて示されることはなかった。考えられるのは電波障害だが、それを確認する術もない。
混乱しながら周囲を見渡すのはもう何度目だろう。やはり何も変わらない、いつもどおりの学校だ。変わらないのだが、やはり遼太はどこか妙な感覚にずっと囚われている。いったい、何が起きているのだろう。
「なあ、支倉……」
「何で俺の名前知ってんの?」
「いや、ジャージに名前書いてあるし……」
気の抜けるような返答に呆れながら蒼壱の胸元を指さすと、なるほどと言った感じで蒼壱は自分の胸元を見つめた。本当に掴めない奴だなと遼太が考えたのを知ってか知らずか、蒼壱は突然、遼太に向かってカメラを構えた。
「撮っていい?」
「は……? 俺を?」
頷いた蒼壱は片手で器用にカメラを構えている。きちんと断りを入れたのは先ほどの一悶着の反省だろうか。レンズ越しに蒼壱が見つめると、遼太はそわそわと落ち着きない気持ちになる。おかしいと思いながらも、促されるまま遼太はピースをしてみせた。スマートフォンを持っているから歪な形になったが、蒼壱は満足したようだ。そういえば、蒼壱の右手は遼太が掴んだままだ。このままシャッターを切るのは大変だろうと、遼太が手を離そうとしたその時、またあの肌を舐められるような感覚が遼太を襲った。それは蒼壱がシャッターを切った、その瞬間のことだった。ぞくりと肌がざわめき、空間が歪むような目眩。不快なような、心地良いような、相反する感覚が混ざり合い、体中を駆け巡っていく。しかしまた、その感覚は唐突に終わった。自分に何かが起こったことは理解できる。けれどその原因が何なのか、遼太には分からなかった。
「支倉!」
背後から聞こえた呼び掛けに、遼太の体はようやく反応した。掴んでいた蒼壱の手を慌てて振り解き、声の方を見上げると、先ほど遼太が降りてきた外階段の踊り場に男子生徒が立っていた。蒼壱と同じように制服にジャージを羽織ったその生徒は、遼太に軽く会釈してから蒼壱へ視線を向けた。
「美化委員のレポート出したか?」
「あ、悪い。まだ」
「早く出した方が良いぞ。田口、今日は早く帰るってよ」
田口とは隣のクラスの担任で、美化委員は彼の受け持ちだ。なるほど、蒼壱の着こなしにも納得がいった。少し意外なような気もするが。踊り場の男子生徒は大きく手を振り、蒼壱と同じ委員会であろう彼は校舎へと戻っていった。
「じゃあ、俺行かないと」
蒼壱はそう言うと、花壇の隅に置かれていたレポート用紙の挟まったバインダーを手に取った。
「あ、おう。じゃあな」
蒼壱は何事もなかったかのように外階段を上がっていき、遼太をちらりと見ることもなく校舎へと入っていった。それに一抹の寂しさを覚えてしまったことを振り切るように、遼太は蒼壱の手を掴んでいた自分の手のひらをぼんやり見つめた。状況を整理しようとするのだが、果たして何について考えればいいのだろう。聞きそびれてしまったが、蒼壱も遼太と同じ感覚に陥っていたのだろうか──
ガシャンという大きな音で遼太は我に返った。フェンスに当たったボールを、サッカー部の生徒が回収していく。やはり何てことない、いつもの放課後だ。
「ん……?」
やはり何かが引っ掛かる。頭の中で、またぐるぐると思考が巡り始める。遼太が腕を組んだその時、手の中のスマートフォンが震えた。画面を見ると教室で別れた友人からの通知だった。ロックを解除すると、パッと画面が明るくなり、待受ではない画面が表示された。
「サルーキだ……」
電波は戻ってきたらしい。画面に映し出された犬の画像は、遼太がよく目撃するあの犬だった。蒼壱の答えは合っていた。やはり先ほどはここ周辺がおかしくなっていたのかもしれない。そう思いながら遼太はスマートフォンの画面をじっと見つめた。
ずっと知りたかった答えが目の前に広がっている。いつか知れるだろうとぼんやりと思っていた答えは、よく知りもしない同級生からもたらされた。なぜ、こんなに気持ちが昂っているのだろう。また自分の手のひらを見つめる。蒼壱の手の熱が、自分に移ってしまったように熱かった。
早瀬遼太は自分自身について、誰よりもよく理解しているつもりだ。昔からイマイチ冴えない人生で、肝心な時に必ず失敗するということ。さらにそれを補強するような欠点が、気掛かりなことがひとつでもあればそれに熱中して周りが見えなくなってしまうことだ。だから、やはり今からでも合流しないかという友人の誘いも断り、真っ直ぐ家に帰ってベッドに体を投げ出している。天井を睨みつけながら、考えているのは先ほど自分が感じた違和感と妙な感覚についてだ。
あれは一体何だったのだろう。何か、おかしな体験をしたはずなのだ。この思考はもう何度も堂々巡りを繰り返し、ずっと蒼壱の無愛想な顔が浮かぶ。それから、なぜか触れ続けていた蒼壱の腕の感触も。遼太は自分の右手を翳し、天井を仰いだ。
あの感覚を体験したのは遼太と蒼壱だけだ。ヒントはきっと互いの中にある。ずっと気に掛かっていた答えをくれたように、蒼壱はきっと、これにも明確な答えをくれるのではないかと思うのはおかしな考えだろうか。
「あー、クソッ……」
体を這っていく謎の感覚と、突然入らなくなった電波。このふたつは関係があるはずだ。それを確かめる方法はただひとつ。蒼壱ともう一度接触し、カメラについて尋ねることだ。
しかし遼太と蒼壱には接点など無いに等しい。そもそも今日初めてまともに喋ったのに、どうやって接触を図るべきか。悩んだ末、クラスメイトの美化委員に話を取りつけてもらうという結論にようやく達し。いつの間にか遼太は眠ってしまった。
また、夢を見る。夕焼けの、オレンジの空だ。遼太はただ空を見ながら走っている。最高の気分を味わっているのは、これから起きることを知りもしないからだ。これが夢だということを遼太は知っていた。そしてこの場所にやって来るたびに、頭が一部がズキズキと痛む。右のこめかみの近く。そこに触れるとこの夢は終わる。これも遼太の知っている、自分についての大事なことだ。
話があると、蒼壱が遼太のクラスへやって来たのは翌日のことだった。
「昨日のことで話がある」
朝のホームルームが始まる前の、まだ少しだけ騒々しい教室。そこへつかつかと乗り込んできた蒼壱は、遼太の席まで一直線に歩みを進めてそう言った。堂々とした態度にクラスメイトたちも興味深げに遼太たちに注目している。自分に視線が集まるこういう状況が、遼太は特に苦手だった。
「お前、よく別のクラスに入って来れるな……」
「どういう意味だよ?」
「ちょっとは遠慮するだろって……いや、分かった。放課後に話そう。予定ある?」
「ない。じゃあ放課後にまた迎えに……」
「いやいやいや! あー、じゃあ昨日のところに集合で!」
放課後まで注目を浴びるのはごめんだ。慌てて約束を取りつけ、教室の外へと蒼壱の広い背中を押し出していく。
「ほら、ホームルーム始まりそうだからもう帰った方がいいって、な?」
「何で追い出すんだよ」
「追い出してない。俺も話したいことがあるから、続きは放課後に話そう」
尚も不服そうに蒼壱が口を開いたその時、ホームルーム開始の五分前を告げるチャイムが教室に鳴り響いた。渋々と廊下に足を踏み出した蒼壱をできるかぎりにこやかに隣の教室へと送り出したし、遼太もそそくさと教室へと戻った。
「何かあった?」
一部始終を見ていたらしい城戸が遼太に話し掛けてきた。席の周辺の生徒もこちらを気にかける素振りをしている。この空気も苦手だと思いながら、ひとまず肩を竦めてみせた。
「何も。ちょっとあいつの委員会の手伝いをして、それのレポートを出すとか出さないとか……そういう話だよ」
「ああ、美化委員の? 支倉って美化委員だもんな」
「何だ、支倉と知り合いだっけ?」
「ああ、まあ……そっか。なるほどな」
城戸は納得したように頷いて自分の席へと戻っていった。城戸の様子を見て、周囲で聞き耳を立てていたクラスメイトたちも各々の席へと戻っていく。
「支倉ってちょっと変わってるよな」
ふと、そんな言葉が耳に入って、遼太も心の中で同意する。同時に何か、そんなことはないと言い返してやりたくなる気持ちも芽生えた。蒼壱のことになると妙な感情に苛まれるなと唇を噛んでいると、担任が教室へ入ってくるのを横目で捕らえた。教室のざわめきも徐々に小さくなっていく。
窓の外に目をやると、昨日と変わらない青空に安堵する。嫌な気分も呆れた気持ちも、全てリセットしたかった。どうしても浮かんでしまう蒼壱の顔を振り払いながら、目を閉じて静かに深呼吸をすふ。ホームルームを開始するチャイムが教室に鳴り響いて、教壇に立った担任が口を開いた。
放課後の騒々しい教室を出て、ひとつ階段を上がり三階の廊下に出る。そのまま真っすぐ進んで反対側の階段へ。外階段へ繋がる扉を抜けると、気持ちの良い風が吹き抜けた。今日の空は快晴。雲一つない澄んだ青空だ。朝の妙な気分も今はすっかり晴れている。リズムをつけながら階段を降りていくと、二階の踊り場に差し掛かったところで蒼壱の姿を地上に見つけた。
「お前さ、俺に用があるんなら適当な奴捕まえて呼べよ」
頭上から聞こえた声に振り返った蒼壱は、相変わらず変化の乏しい表情で遼太を見上げている。
「何で?」
「入りにくくないか? 他のクラスってさ」
「別に……そんなことないけど」
踊り場から身を乗り出しながら手すりに肘をつく。返答からして、蒼壱はやっぱり変わった奴なのかもしれない。
「支倉の話って長くなる? 長くなるなら俺の話からしたいんだけど」
「長くなるかは……早瀬次第だな」
「俺次第?」
蒼壱は手に持っていたカメラを遼太に掲げて見せた。カメラのレンズが太陽光を反射し、遼太は思わず目を瞑りそうになった。
「モデル、やってほしい」
「はあ……?」
予想もしなかった言葉に、遼太は思わず間の抜けた声を出してしまった。
「モデルって……何の?」
「撮りたい写真があって、それのモデルやってほしいんだ」
「何で俺が?」
「俺が早瀬を撮りたいから」
照れる様子もなくそう言い切った蒼壱に遼太は口籠ることしかできなかった。蒼壱はなぜ、昨日今日話した人間にそんなことを頼もうと思ったのだろう。いくつかの想定が頭を過ぎり、思わず守るように身構えてしまった。蒼壱の言葉にどんな真意があるのか、用心深く聞き出さなくてはならない。
「……俺を撮ってどうしたいんだ?」
遼太が訝しんでいることを察したらしい蒼壱は、不思議そうに首を傾げた。
「嫌だったら無理にとは言わないけど」
「嫌っていうか、そんなこと言われたの初めてで……写真撮るってことだよな? どっかに提出すんの?」
「それはモデルを受けてくれたら話すよ」
蒼壱はふっと笑うと、遼太の返答を楽しむように腕を組んだ。何だかその格好もさまになるのは、スタイルが良いからだろう。気づきたくもなかったことに気づいてしまい、遼太はいけ好かないと眉をひそめた。
改めて、こちらを見上げる蒼壱を見つめる。余裕のあるその表情はやはり無愛想の部類に入るだろう。けれどなぜか、遼太には緊張しているようにも見えた。クラスメイトの変な奴という評も、物静かなのに強く残る存在感も、頑固そうなところも、蒼壱は様々な形で構成されている。正直に認めるが、遼太は蒼壱に、強く興味が湧き始めていた。
「いいよ」
遼太の答えはすぐに決まった。
「マジ? ほんとか?」
「やるよ。俺でよければ」
「ありがとう」
遼太の返答に、蒼壱は安堵したように表情を緩めた。やはり緊張していたのかもしれないなと、遼太も思わず口元が緩んだ。そういえば蒼壱には、ずっと気になっていた犬の犬種という欲しかった答えをもらっていたのだった。その礼も兼ねて、モデルくらい引き受けてやるのも悪くない。
「それで、俺は何すればいい?」
「とりあえず降りて来いよ。そしたら話すから」
分かったと手で合図を送り、地上まで階段を駆け下りた。改めて蒼壱と向かい合うのは変な感じで、目が合ってすぐに視線をそらした。
「で、話の続きだけど」
「その前に早瀬の話聞くよ。俺に話があったんだろ?」
「いいよ。まずはお前の方から片付けよう」
どうぞという遼太の身振りを見た蒼壱は、口を開きかけてすぐに黙ってしまった。
「どうした?」
「なあ、この後って予定ある?」
遼太が首を振ると、蒼壱は良いことを思いついたというように笑った。
「じゃあ俺の家に行こう」
「え、お前ん家!?」
「そう。学校から遠くないし、早瀬とゆっくり話したいんだ」
「ゆっくり、って……」
想像していなかった申し出に、遼太は思わず後退った。今まで遼太がされたことのない誘い方だ。何だか、好意を持つ女子を誘うような、そんな感情を含んているように感じてしまったのだ。モデルの件も、そういう意味ならば話は変わってくる。
「やっぱり嫌になったか?」
黙り込んでしまった遼太を覗き込むように蒼壱が屈んだ。視線が真っ直ぐに合って、蒼壱の瞳が遼太を捕らえた。蒼壱に見つめられると、遼太はどうも調子が狂ってしまう。
蒼壱は、多少変わった奴だ。だから伝え方を少し間違えたのだろう。遼太が想像しすぎてしまったような意図はきっとない、はずだ。きっと自分の思い込みだ。そしてそんな偏見で蒼壱を傷つけることはしたくない。遼太は覚悟を決めることにした。
「いや、分かった。お前の家に行こう。電車乗るの?」
「乗らない。いつも自転車なんだ」
取ってくるから待っていてくれという蒼壱と別れ、校門を出たところで待ち合わせることになった。妙なことになってしまったと思いながらも、遼太は少し、胸が弾むような高揚感を感じていた。大きく変化しない日常の中で、ふいに現れた異質さが原因だろうか。蒼壱が遼太のつるむ友人たちとは違うタイプだということもあるだろう。そういった意味で、支倉蒼壱は遼太にとって魅力的だ。
「悪い。待たせた」
しばらくして、マウンテンバイクのような形をした自転車を押しながら蒼壱が現れた。流線型のヘルメットをハンドルに掛け、この学校では珍しい学校指定のリュックを背負っている。
「歩かせて申し訳ないけど」
「いや、俺だってお前を歩かせてるし」
「悪いな。歩いたら三十分くらいだから、ちょっと付き合って」
そう言って蒼壱は遼太の左側を陣取ると、家へと案内するために少し前を歩き出した。途中、車がふたりの横を走り抜け、蒼壱が遼太の左側を歩く理由を察してまた妙な気分になる。この親切もたまたまか、あるいは蒼壱がとびきり良い奴だからだ。そう自分に言い聞かせながら、遼太も黙って隣を歩いた。蒼壱の押す自転車の、車輪が転がる音が心地よくて耳を傾ける。しばらくはそうやって、どちらも喋らずに歩き続けた。
「髪は染めてんの?」
沈黙を破ったのは蒼壱だった。
「ちょっとな、ちょっとだけ。あんまり目立つと呼び出されるから」
校則では許されていないのだが、もともと周囲より明るい髪をしているおかげか遼太が指導を受けることは今までなかった。蒼壱に指摘されるなんて、さすがに今回は明るくしすぎてしまったかもしれない。そういえば蒼壱は、そんなことを考えたこともなさそうな黒い髪をしている。だから気になるのかもしれない。蒼壱は歩みを止めることはないが、ずっと遼太の髪に視線を落としていた。
「やっぱ変か? ミスって明るくしすぎたかも」
「いや、そういうわけじゃない」
蒼壱はそれ以上何も言わず、遼太の髪に視線を落とし続けている。また妙な沈黙の時間が訪れたことに耐えられず、遼太は何か話題を振ろうと頭を動かした。
「支倉ってなんでうちの高校選んだの?」
遼太の問い掛けに、蒼壱はようやく視線を遼太の髪から顔へと移した。
「受かったから。あと家から近い」
「へぇ、いいな。俺は電車で片道三十分かかるから羨ましいわ」
「早瀬は? なんでうちの高校を選んだんだ?」
「第一志望に落ちたから。でもまあ気に入ってるよ」
会話は遼太が思っていたよりもずっとスムーズに続いた。そういえば、今日の蒼壱はカメラを持っていない。背負ったリュックにもそれらしき形は浮かんでおらず、ついでに気にかかっていたことも聞いてしまおうと遼太は思った。
「そういえば、支倉って写真部だっけ?」
「いや、帰宅部」
「なんだ、俺と同じじゃん。持ってたカメラは自分の? 趣味で撮ってんの?」
「あれは貰い物。趣味かは……どうだろうな」
どうやらカメラのことに触れると蒼壱は回答をはぐらかしてしまうようだ。何とか答えを引き出せないかと話題を振っているうちに、蒼壱がぴたりと足を止める。支倉と書かれた表札が目に入り、いつの間にか蒼壱の家に到着したことに気がついた。
蒼壱の家は二階建ての一軒家で、門扉から玄関に続く敷石が何枚かあるくらいの庭があった。その一角にある小さな家庭菜園では真っ赤なトマトが葉の隙間からいくつか成っているのが見え、家族の誰かが丁寧に世話をしていることが分かった。
「親いないから、気遣わなくていいよ」
蒼壱は門扉を開けて自転車を庭の端に停め、背負っていたリュックから鍵を取り出した。鍵を開けて遼太を家の中へと促す。遼太も促されるまま、蒼壱の後へ続いた。
「お邪魔しまーす……」
蒼壱が靴をきちんと揃えて玄関を上がったので、慌てて遼太もそれに続いた。ふと目に入った靴箱の上のスペースには、色々な形の鍵が入れられている小さなトレイと、その隣には楽器を持ったうさぎの小さな人形が並べられている。蒼壱の家族がどういう人なのか分かったような気がした。
「とりあえずここにいてくれるか?」
そう言って蒼壱に通されたのはリビングだった。蒼壱はキッチンがあるだろう奥へと進み、冷蔵庫を開けて何かしている。リビングの中央にはソファもあるのだが、座って待つのは少し気が引けた。手持ち無沙汰にリビングを見渡すと、棚の上に飾られた写真が目に入った。家族旅行で撮られたと思われるものや小さな子供(おそらく蒼壱だ)がアップになっているもの。その中に、野球のユニフォームを着た子供たちの集合写真が飾られていることに気づいた。写真の後ろには額に入れられた新聞の記事も立てかけられている。記事を読もうとしたところで蒼壱がリビングに現れた。
「支倉って野球やってんの?」
「やってた。小学生の時」
遼太の指さした写真を見た蒼壱は、少し言い淀みながらそう答えた。意外だなと思いつつ、確かにスポーツをやっていそう体格ではあるなと考え直した。写真が飾られているということはこの中に蒼壱がいるはずだ。どこだろうかと写真を見ていると、最後列の左端で直立する少年に目が留まった。こちらを真っ直ぐ見据える、少し無愛想な表情の少年には蒼壱の面影がある。そして横に並ぶ仲間たちと比べても頭ひとつ分背が高かった。
「これが支倉だろ?」
「当たり。よく分かったな」
「分かるって。どのポジションだったの?」
「ピッチャーやってた」
へぇ、と思わず感嘆の声が漏れてしまった。野球の経験はないが、ピッチャーが野球の花形ポジションであることは遼太にだって分かる。
「すげえじゃん」
「凄くない。たまたまでかくて、投げるのが早かっただけだよ」
蒼壱は素っ気なくそう答えると、上に行こうと遼太を促した。いつの間にか手にはお茶が入ったボトルとコップをふたつ持っている。ふたり分の重みで小さくきしきし鳴る階段を上りながら、遼太は蒼壱について考えていた。蒼壱のことを知るたびに意外な一面に興味を持ってしまう。階段を上がってすぐの部屋に入っていく蒼壱の背中は自分よりも広く、それに続く自分は何も持っていないんじゃかいかと、何故か不安にも襲われた。
蒼壱の部屋は綺麗に片付いていたが、整えられたタオルケットの端が丸まっていたり、ぞんざい積まれた本だったりが生活感を出していた。しかし壁にポスターやCDを飾るわけでもなく、蒼壱という人間の中身が現れているというわけでもない。リビングの一角で存在を放っていた野球の痕跡がひとつもないことも気に掛かった。
「俺、人の部屋入るの久しぶり」
「俺もあんまり連れて来ない」
「なんだ、俺たちって急に関係が進みすぎだよな」
冗談めかして笑った遼太に同意した蒼壱は、突然真剣な顔で遼太に向き直った。
「早瀬、話したいことがある」
遼太を見つめる目は射抜くように真っ直ぐで、遼太の心はまたざわついた。その言い方があまりにも真剣だったので、ここに来るまでに何度も過ぎった考えを振り払い、努めて明るく返事をする。
「ああ、モデルの話だよな? どうやって撮影するかとか、そういう話をするんだよな?」
動揺を悟られないようにしながら、遼太も姿勢を正した。
「今年の文化祭の展示するための写真とか? 写真部じゃないって言ってたけど、何かのコンクールに出すっていうんならそこらへん話し合わないとな。相談にも乗るし、協力できることは何でもするよ」
写真コンクールというものには明るくないが、自分がモデルを務める以上はどんな協力もするつもりだった。しかし何でもは言いすぎた。緊張と恐怖が少しだけ、心臓に垂らされてトクトクと跳ねている。脱いでくれなんて言われないように祈るしかない。いや、きっと大丈夫。不安は残るが、蒼壱の要望に応えたいと思う気持ちは本当なのだから。
「普通のモデルじゃないんだ」
蒼壱の言葉に、遼太は頭を抱えたくなった。
「……ちょっと待て」
「ちょっと、いや、かなり変わってる。お互いどうなるか分からないし、お前は嫌がったり傷つくかも……」
「なあ、俺何させられんの!?」
もはや疑いようのない事実が近づいている気がした。蒼壱と遼太では体格が違う。壁に押しつけられたら逃げ出すのは困難だろう。そんなことを考えているの間にも、蒼壱はまた体を遼太へとと近づけた。
「でもお前がいい。早瀬じゃないと駄目だ」
「お、落ち着かない……? ちょっと近いっていうか……」
蒼壱は言葉を発するたび度に遼太へとにじり寄ってくる。距離の縮め方が変わった奴だと思ってやりたかったが、もはや決定的な事実が目の前に近づいている。もしもの時を想定し、遼太は蒼壱を突き飛ばす覚悟を決めた。
「あのさ……」
いよいよ目の前まで迫った蒼壱に、遼太は強く拳を握った。
「過去に戻れるって言ったらどうする?」
「……お前、大丈夫か?」
あわや振り被ろうとした遼太の拳は行き場をなくした。仕方なく自分の太腿を打って後退ると、そんな遼太に構うことなく、蒼壱は机からカメラを取ってきた。初めて会った時に持っていた、少し古いそのカメラを大事そうに抱えながら、蒼壱はふたたび遼太へと詰め寄った。
「このカメラを使うと過去に戻れるかもしれない」
「何言ってるんだ? そんなことは起きない」
呆れと憐れみが滲んだ遼太の声が聞こえないのか、蒼壱は構わずに話を続ける。
「シャッターを切った場所の過去に行けるんだ。またシャッターを切れば元の時間と場所に戻る。昨日、俺たちは一瞬だけ過去の校庭にいたんだ」
「何かのアニメか映画の話?」
「なあ、ちゃんと聞いてくれ。昨日あったこと、覚えてるよな? 早瀬がカメラに触って、俺がシャッターを切った。その時に変な感じがしただろ?」
蒼壱はそう言って机の上から一枚の写真を取り出した。写っていたのは見慣れた校舎を背景にした遼太の姿だった。撮ってもいいかという蒼壱に応えて撮影した写真だとすぐに分かった。写真の中の遼太は呆れた顔でピースをしている。右下には昨日の日付がきちんと印字されていた。
「よく見て」
蒼壱に促されるまま写真を見つめる。背景は学校、グラウンドと校舎が見える。校舎からは誰が有名大学に進学しただとか、卒業生が海外で活躍しているだとかが書かれた垂れ幕が何本が掛けられている。蒼壱はその中のひとつを指さした。
「硬式テニス部の関東大会初出場。この掛かってる垂れ幕、分かるか?」
「知ってるよ。五年ぶりだって話だろ」
昨日も副担任の田中がホームルームで話していたはずだ。平凡な高校で久しぶりの喜ばしいニュースに、教員だけでなく生徒たちも喜んでいた。
「そう。硬式テニス部が関東大会に行くのは今年で二回目らしい。でも……」
蒼壱の指先が写真の中の垂れ幕を撫でていく。遼太はその文字を目で追った。
「『祝・初出場』?」
写真の中の垂れ幕には確かにそう書かれていた。
「……書き間違いってことはないのか?」
「今日ちゃんと撮ってきた」
蒼壱はスマートフォンを取り出し、写真の隣にそれを並べた。同じ角度から撮られた校舎には同じように垂れ幕が掛かっていて、そこに『初出場』の文字は無い。訝しみながら遼太が顔を上げると、蒼壱は真剣な表情で頷いた。
「つまり支倉は、この写真を見て思ったわけか? 昨日俺たちは、五年前に行ったんじゃないかって」
「確信はない。それにこの写真を撮する前に早瀬を撮ってるだろ。その時は何も起きなかった」
踊り場で切られたシャッター音を思い出し、なるほどと遼太も考え込む。確かに、あの時は妙な感覚は感じなかった。感じたのはあの一回だけだ。しかし本当に過去に行ったのだとしたら、その理由が検討もつかない。
「いや、過去に行っていたとしてだ。それを確かめる方法なんてないだろ?」
「だから早瀬に協力してほしいんだ。その原因の可能性はいくつかある。それもできる限り試したい。俺たちが昨日した、どの行動で何が起きるのか」
沈黙がふたりの間に訪れる。蒼壱の言葉に、遼太の頭は混乱しっぱなしだ。
「俺以外にそれ、言わない方が良いぞ」
「話したのは早瀬だけだし、他の奴に話す気もない」
こういう、真っ直ぐな言葉に遼太は弱い。遼太が蒼壱の言うことを聞いてしまう理由、それはきっと、蒼壱が真っ直ぐな奴だからだ。そのことに気づいてしまい、遼太は深くため息を吐いた。
「五年前に戻れたとして、支倉は何がしたいんだよ?」
「俺は……どうしても戻りたい場所があるんだ」
蒼壱はぽつりとそう呟くと、持っていたカメラを優しく撫でた。それがあまりにも愛おしそうで、遼太はついその手を目で追ってしまった。
「やり直したいことでもあんの?」
「まあ、そんな感じ」
そう言ってまた、蒼壱はカメラを撫でた。
「このカメラは俺のじいちゃんがくれたんだけど、過去に戻れるとか、そんな話は聞いたことないんだ」
淡々と話す蒼壱の声を聞きながら、蒼壱の手から目を離すことができなかった。初めて、蒼壱の内面に触れている気がしたのだ。無愛想で表情をあまり崩さない、隣のクラスの同級生。支倉蒼壱に。
「早瀬は無いのか?」
「何が?」
「やり直したいことだよ」
どくんと心臓が跳ねる。やり直したいことなんて山のようにある。一昨日の髪を染める朝、帰宅部を選んでしまった入学してすぐの頃、高校受験に失敗するその一年前──やり直したいと考えたことは今まで何度もあった。この考えに捕らわれるたびに、右のこめかみ辺りがずきずきと痛んだ。戻れるなら、やり直せるなら、それは──
「分かった。協力する」
遼太の出した答えは、蒼壱の表情を一瞬で明るくした。
「じゃあ試してみよう」
「は、ここで?」
蒼壱につられて遼太も立ち上がる。蒼壱はカメラを首から下げると、カメラの調子を確かめるようにつまみや部品の確認をし始めた。さっそく張り切っているところで悪いが、過去に戻れるとしたら考えなければいけないことがたくさんある。五年前に戻れたとして、もしそうなったら五年前の蒼壱と部屋で鉢合わせることにならないだろうか。小学生の子供の目の前に、突然謎の高校生が現れたら何か良くないことが起こりそうだ。けれど楽しそうに準備をする蒼壱に、遼太は何も言えず黙って見つめていた。
「あの時、俺たちがしたことをしてみよう。ひとつずつ。俺たちはどうしてたっけ」
「あー、俺がお前の手に触った。それで反対の手でカメラを取り上げようとして、その時にお前がシャッターを切った……?」
蒼壱が掬うように遼太の手を取った。それからしっかりと繋がれる。昨日はこんな感じじゃなかっただろと言う気は、蒼壱ののあまりにも真剣な表情で失せてしまった。手を繋いでいる間、互いに黙ったままだった。
「やってみよう」
そう言った蒼壱に頷くと、遼太に向かってカメラが構えられる。レンズ越しに見つめ合い、蒼壱がシャッタ押した。
まただ。また、あの肌を舐められていくような感覚。それが遼太の体を一瞬で覆い、そしてすぐに消え去った。
「……戻って来れるよな?」
「もう一度シャッターを切れば戻れる、と思う」
蒼壱は自分の部屋を興味深そうに見渡している。遼太もそれに倣って部屋を観察した。最初に目に留まったのはベッドだ。蒼壱の部屋に置かれていたのは細いスチール製で、少し無機質な冷たさがあった。だが今、遼太の目の前にあるベッドは木製で、端が丸い円柱の子供っぽいデザインだ。それからいかにも小学校の入学祝いで買ってもらいましたという感じの勉強机と、その横に掛けられた黒いランドセル。机の上に置かれたグローブは大切にされているらしく、使い古した感じはあるがよく世話をされていることが分かるくらい綺麗だった。先ほどリビングで見た少年野球の写真も、本棚の一段を使って飾られている。
「俺、子供の頃からこの部屋なんだ。この時間なら俺は部屋にいないから会うことはない」
ごくりと、遼太は息を呑んだ。目の前で起こった変化を、さすがに受け止めなければならない。遼太は蒼壱と、過去に来ている。
「ここ、ほんとお前の部屋? その、小学生の時のお前の……」
興味深そうに部屋を見渡していた蒼壱は、すっと机の横に掛けられたランドセルを指をさした。
「黄色い旗が刺さってるだろ? 俺がここらへんの班長やってたのは小六の時なんだ」
黒いランドセルには蒼壱の言うとおり黄色い旗が刺さっている。ならばこの光景が示すのは、ここが五年前であることと、そしてこの部屋の主は高校生の蒼壱ではなく、小学六年生の蒼壱だということだ。未だ信じられない気持ちのまま、遼太は蒼壱が持つカメラをまじまじと見つめた。
「そのカメラ何なんだ……?」
「分からない。じいちゃんから貰うまではずっとじいちゃんが使ってた。俺が撮ってもらったこともあるけど、こんなこと起きたことなかった」
答えを探そうにもカメラは何も答えてはくれず、じっと蒼壱の手の中に静かにしている。よほど丁寧に扱われてきたのか、光に当たった箇所は磨かれてぴかぴかと光っていた。
「そろそろ戻ろう。戻れるか分からないけど」
蒼壱は遼太の手を躊躇うことなく握ってそう言った。
「やりたかったことは?」
「それは今日じゃない。もしかしたら過去に戻るタイムリミットがあるかもしれないし、色々実験してからその日に行きたいんだ」
タイムリミットがあるかもなんて遼太は考えもしなかった。勉強机の上に置かれた時計は、ここに来てからもう五分が過ぎたことを伝えている。
「行くぞ」
蒼壱のカメラが遼太に向けられる。遼太もレンズ越しに蒼壱を見つめた。繋がれた手の指先がするりと撫でられ、思わず遼太の体が跳ねた瞬間、シャッターを切る音が蒼壱の部屋に響き渡った。
「じゃあ、また明日」
門扉を閉めながら遼太は蒼壱を振り返った。相変わらず無愛想な顔だったが、それでも頬が紅潮しているように見えるのは過去に戻れる証拠を手にして興奮しているからか、それとも夕焼けが赤いせいかもしれない。そんなことを考えながら遼太は自転車の後輪スタンドを外した。
「自転車、ありがとう。明日大丈夫か?」
「ああ、明日は歩いてくから気にするな。自転車は駅の駐輪場に留めて、明日の朝に早瀬が乗って来てくれればいい」
もうすぐ日が落ちるこの時間に駅まで歩けば家に帰るのは何時になるかわからないので、ありがたく蒼壱の言葉に甘えることにした。サドルは遼太には少し高く、爪先で立ってギリギリの高さだ。
「じゃあ、また明日」
蒼壱にそう告げて遼太はペダルを漕ぎ出した。慣れないサドルにふらふらとバランスを崩しながら、踏み出すたびに真っ直ぐ進むようになった。
右に、左に、遼太が漕ぐたびにペダルは軽やかに車輪を回していく。軋むような音もしないのはきちんとメンテナンスをしているからだろう。過去に戻って、勉強机の上に置かれていたグローブも綺麗に磨かれていたことを思い出した。支倉蒼壱は子供の頃から、物を大切に扱う奴なのだ。譲り受けたというカメラも綺麗だったから、その気質は蒼壱の祖父から受け継いだものなのかもしれない。気持ちの良い奴だなと、初めて遼太は清々しい思いで蒼壱のことを考えることができた。
風が背中を押して自転車の速度が速まった。駅まではもうすぐで、この自転車とも明日までお別れだ。それなのに、遼太は蒼壱のことばかり考えていた。変な奴だと思っていたが、話せば話すほど興味が湧く。同時に手のひらの温もりを思い出し、手が触れて、シャッターが切られる瞬間を反芻した。蒼壱の目的が果たされるまで、これから何回あれを繰り返すのだろうか。蒼壱は色々試したいと言っていた。躊躇いもせず触れてくる蒼壱の感情は、本当にただ過去に戻れる希望と好奇心だけのものなのだろうか──
遼太が昨日と違うこと。蒼壱についてのたくさんの情報を知っているということ。スマートフォンに蒼壱の連絡先が入っているということ。そのおかげで、いつでも蒼壱と連絡を取ることができるということ。違うことが増えるたびに出来ることが増え、もやもやとする考えもまた増えていく。それを振り払うようにペダルを漕いだ。空は夕焼けのオレンジが眩しく、刺すようなその強さに遼太は思わず目を細めた。
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