第8話:後方腕組みモブ、平穏な生活は終わりを告げる

 胃の辺りが、重鉛を飲み込んだようにじわりと重い。


 ルピナス女学院の放課後、オレンジ色に染まる廊下を歩きながら、私は自分の「解釈違い」を呪っていた。


 平穏なモブ生活。それは、私がこのゲーム『ルピナスの箱庭』に転生した際、喉から手が出るほど欲した唯一の報酬だった。アングレカムでのあのお二人の「愛の重力」から逃れ、今度こそ、美しい百合カプを後方から眺め、尊さのあまり静かに消えていく塵になるはずだったのだ。


 それなのに。


「……瀬良結衣。貴様、またその『腕を組んで納得したような顔』をしているな」


 背後から低く、けれど鈴を転がすように凛とした声が響く。


 振り返るまでもない。銀髪の騎士、セレナ・フォン・リリエンタール様だ。彼女は、学院の規律を守るためだけに鍛え上げられたしなやかな肢体を、夕闇に溶け込むような紺碧の制服に包み、真っ直ぐに私を見据えていた。


「……セレナ様。お約束ご命令通り、参りました」


「殊勝なことだ。貴様のような、どこにでもいる雑草のような女が、なぜ私の心の最深部に土足で踏み込めたのか……。それを解明するまで、私は貴様を放さないと言ったはずだ」


 彼女の瞳は、鋭い剣先のように私を貫いている。だが、その剣先は微かに震えていた。


 昨日の放課後、私は彼女に「ミミ様という悪を飼うことで、正義の騎士という役割を維持している」という、設定資料の裏プロットを突きつけてしまった。それが、彼女にとっての「誰にも暴かれたくなかった、最も醜悪で最も純粋な秘密」であったとは知らずに。


「さあ、続きを話せ。貴様には、私のこの『欺瞞』がどう見えている? 私がエレーヌ様を騙し、ミミを利用しているこの卑怯な魂が、貴様の目には……どう映るのだ」


 彼女は私を壁際に追い詰め、逃げ道を塞ぐように腕をついた。


(……セレナ様から壁ドンされちゃってるよ!)


 鼻をくすぐる、ルピナスの香油と、鉄の匂い。私は逃げ場を失い、観念して後方腕組み――はできないので、せめて精神的な腕組みをしながら、彼女の瞳の奥を覗き込んだ。


「……セレナ様。貴女はご自分を『卑怯』だと仰いますが、それは大きな誤解です。貴女がミミ様を排除しないのは、ミミ様を愛しているからでも、自分を守るためでもない。エレーヌ様という、あまりにも壊れやすい太陽を『誰からも傷つけられない場所』に隔離するために、貴女はあえてミミ様という汚れ役を傍に置き続けている。……それは愛を超えた、信仰に近い自己犠牲ではありませんか?」


「――っ」


 セレナ様の喉が、小さく鳴った。彼女の長い睫毛が、激しく、痛々しいほどに揺れる。


「信仰……? 私のこの、泥沼のような共依存を……貴様は、そう肯定するのか」


「肯定などという安っぽい言葉では足りません。……尊いのです、セレナ様。貴女がご自分の手を汚しながら、聖母のような顔をしてエレーヌ様に跪くその背中。……それは、この世界で最も美しい『欺瞞の百合』です。貴女が孤独であればあるほど、その百合は白く、清廉に咲き誇る。……私はただ、その光景を、永遠に観測し続けたいだけなのです」


 私は、自分の内側から溢れ出すオタク的情熱を、そのまま言葉にして叩きつけた。彼女を救うためではない。ただ、私の見たかった「完璧な解釈」を彼女に押し付けたに過ぎない。


 だが、その言葉は、セレナ様にとっての「聖書」となってしまった。


「……狂っている。貴様は、私以上に狂っている……。……だが」


 セレナ様の手が、私の頬に触れた。剣を握り、豆ができたその指先は、ひどく熱く、そして縋るように私の肌をなぞる。


「……初めてだ。私の、この内側の黒い澱みを……美しいと言ったのは。エレーヌ様には見せられず、ミミには嘲笑われるこの魂を……。貴様だけだ。貴様だけが、私という人間を『見た』のだな」


 セレナ様の瞳に、危険な熱が灯る。それは、忠誠でも、義務でもない。自分のすべてを暴き、そして肯定した者への、狂おしいほどの「依存」の兆し。


「……決めた。瀬良結衣。貴様を、私の『鏡』として、この学園に縛り付ける。エレーヌ様にも、ミミにも、この場所だけは教えない。ここは……貴様は、私だけの告解室だ」


 まずい。非常にまずい。彼女の執着が、エレーヌ様という中心点を離れ、観測者である私へと分岐し始めている。


「……あら、随分と熱心な『告解』じゃない」


 その時、廊下の影から、甘ったるい、けれど猛毒を含んだ声が響いた。桃色の髪を指に巻き付けながら、優雅な足取りで近づいてくるのは、ミミ・ラ・フォール様だ。


「ミミ……!? なぜここに……」


「セレナの匂いを辿れば簡単よ。……最近、私やエレーヌ様を放っておいて、この『泥棒猫の小鳥さん』と会ってばかりでしょう? 正義の騎士様が、こんな薄汚れた雑草と二人きりなんて。……何をして遊んでいるのかしら」


 ミミ様は、不敵な笑みを浮かべながら私の目の前まで来ると、セレナ様を突き飛ばすようにして、私の顎を指先で掬い上げた。


「ねぇ、小鳥さん。貴女、アングレカムで何を教わってきたの? セレナをこんなにトロつかせるなんて。……もしかして、彼女の『騎士様ごっこ』に付き合ってあげているの?」


「ミミ、控えろ! 彼女に触れるな!」


「嫌よ。だって、この子、すごく良い匂いがするわ。……恐怖と、それから……。何、この瞳。私を、観察しているの?」


 至近距離で対峙するミミ様の顔。瞳の奥に蠢く、どろりとした加虐心。設定資料では「セレナの精神を破壊することに喜びを見出す」とあったが、実物はその比ではない。


 だが。


(……ああ。……あああああ! 近い! 小悪魔ミミ様の、この獲物をなぶり殺すような、サディスティックな眼差し! スチルの100倍は邪悪で、1000倍は魅力的……!! 尊い……っ! 今すぐこの視線を額縁に入れて保存したい……っ!!)


 私は、恐怖を通り越したオタク的歓喜に震えた。ミミ様は、私の瞳に「恐怖」ではなく「熱狂」が宿っていることに気づき、初めてその笑みを引き攣らせた。


「……な、に? 貴女、私に睨まれて、喜んでいるの……?」


「当然です……! ミミ様、貴女のその、セレナ様の『正義』を嘲笑いながら、エレーヌ様の『純潔』を汚そうとするその立ち位置。……それは、均衡を保つための『毒』として完璧です。貴女がもっと邪悪であればあるほど、セレナ様の騎士道は輝き、エレーヌ様の儚さは際立つ。……素晴らしいです、もっと、もっと私を蔑んでください……!!」


「……っ……気味、悪いわね。この子……」


 流石の小悪魔も、ガチ恋勢の狂気には引き気味だ。だが、その「気味の悪さ」は、ミミ様にとっての「未知の好奇心」へと即座に変換された。


「……ふーん。面白いじゃない。セレナの『鏡』だなんて言わせないわ。……貴女、私の『新しい玩具』になりなさい。セレナを苛めるよりも、貴女を泣かせる方が、ずっと楽しそうだわ」


「待て、ミミ! 彼女は私の――」


「二人とも、静かに。……私の前で、そんなに騒がないで」


 廊下の空気が、一瞬で凍りついた。二人の背後。夕闇の中から現れたのは、銀糸の髪をなびかせた、深窓の令嬢――エレーヌ・ド・ギーズ様。彼女は、まるでこの世のすべての悲しみと美しさを背負っているかのような、透き通った瞳で私たちを見つめていた。


「エレーヌ様……」


 セレナ様が、咄嗟に膝を突く。ミミ様もまた、その不敵な笑みを消し、神妙に頭を垂れた。


 この学園の、絶対的な中心。だが、エレーヌ様の視線は、二人の忠実なしもべを通り越し、真っ直ぐに私――瀬良結衣へと向けられた。


「……瀬良、結衣。貴女の噂は、風に乗って私のところまで届いているわ」


 彼女はゆっくりと、音もなく私に歩み寄り、私の両手をそっと包み込んだ。その掌は驚くほど冷たく、けれど拒絶できない強制力を孕んでいた。


「セレナを惑わせ、ミミを驚かせた、不思議な小鳥さん。……貴女は、私たちの『円環』を壊しに来たのかしら。それとも……」


 エレーヌ様は、私の耳元で、甘く、けれど逃げ場のない声で囁いた。


「……貴女が、この『箱庭』の、新しい檻になってくれるのかしら」


「…………え?」


「……私の、大切な二人が、私以外の誰かに意識を奪われるなんて……。そんなの、生まれて初めて。……ねぇ、結衣。私、貴女のことが、とても『憎くて』、……そして、とても『愛おしい』わ」


 エレーヌ様の瞳の奥に、真っ黒な独占欲が見えた。彼女は、騎士と小悪魔が結衣という不純物に惹かれていることを察知し、それを排除するのではなく、「二人ごと結衣を自分の愛の中に閉じ込める」という、斜め上の解決策を選択したのだ。


 セレナ様は、私への「理解」を求めて縋り。ミミ様は、私への「加虐」を求めて手を伸ばし。エレーヌ様は、私という「中心」を丸ごと自分の支配下に置こうとする。


 三人のヒロインが、それぞれの依存、加虐、独占という異なる情動を私にぶつけ、私の「壁」としての輪郭を、暴力的な愛で塗り潰していく。


(……おかしい。何かが、決定的に、狂っている……!!)


 私は、三人の美少女に囲まれ、息もできないほどの圧迫感の中で、心から叫びたかった。


 違うんです。私は、貴女たちの織りなす「三人百合トロワ」という至高の芸術を、遠くから拝みたかっただけなんです。


 私がその中心に座らされて、どうするんですか! 観測者が被写体になってどうするんですか! 解釈違いです! 大いなる設定ミスです!!


「……さあ、結衣。私たちの寮へ行きましょう。今夜は、貴女のことをもっと詳しく、三人で、じっくりと解明してあげるわ」


 エレーヌ様が、優しく私の手を引く。右にはセレナ様が、左にはミミ様が、逃がさないと言わんばかりに私の身体を支える。それは、外から見れば、三人のヒロインに愛される幸福な光景に見えるかもしれない。


 だが、私にとっては、出口のない、暗い、暗い「共依存の沼」への入り口でしかなかった。


「……あ、あの、カトリーヌさん! カトリーヌさぁぁぁん!!」


 私は、廊下の角でこちらを呆然と、そして殺意のこもった目で見つめているカトリーヌに助けを求めた。だが、彼女は震える声でこう吐き捨てた。


「……あんた……。全ルートクリアしてるなんて嘘じゃない。……『隠しルート:三人同時攻略』なんて、どの攻略サイトにも載ってなかったわよ……ッ!! この、魔性のモブ女!!」


「違う! 攻略してるんじゃない、攻略されてるの! カトリーヌさぁぁぁん!!」


 私の悲鳴は、ルピナスの重厚な壁に吸い込まれ、消えていった。


 そして。


 アングレカムを離れ、自由を手にしたはずの私は、より強固な、より狂った、三人一組の「愛の檻」の中に、完全に閉じ込められたのだった。


 一方、その頃。アングレカム学院では。


 まだ見ぬ「学園交流夜会」に向けて、着々と準備を進める影があった。


 だがそれを今の結衣は知る由もない。


 今はただ、ルピナスの甘い香りと、三人の少女たちの、底知れぬ愛の深淵に溺れる。


 それが、瀬良結衣に与えられた、過酷で、あまりにも「尊い」罰なのだ。


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後方腕組みモブ女子転生者、勘違いで百合ゲーの推しカプにロックオンされる 駄駄駄(ダダダ) @dadada_dayo

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