第7話:後方腕組みモブ、かつての敵は今日の友

 自由だ。


 早朝の冷たい空気が肺を満たすたびに、私はその事実を噛み締めていた。ガタゴトと揺れる馬車の中、私はアングレカム学院の制服を脱ぎ捨て、予備として持ち出していた地味な旅装に身を包んでいる。


 アングレカムでの日々は、私にとって甘美な、あまりにも重すぎる悪夢だった。だが、私は「壁」であることを選んだ。あのお二人は、今頃二人きりで傷を舐め合い、私が介在しない純粋な二人の世界を構築しているはずだ。……そうであってほしい。いや、そうでなければ困る。


「……ふふ、ふふふふ。ようやく、ようやく私は『背景』に戻れるのね。あのお二人の、互いしか見えない狂おしい情愛を、遠く離れた地から想像の翼で観測する……これこそがオタクの隠居生活よ」


 窓の外を流れる見知らぬ景色。ここ『私立ルピナス女学院』は、アングレカムの華やかさとは対照的な、規律と冷徹さが支配する「鉄の園」だ。他家の勢力圏が複雑に絡み合い、名門ローゼンブルク家の権力であっても、容易には干渉できない不可侵領域。私にとっての、完璧な潜伏先だ。


 だが、正門に到着した私を待っていたのは、予想だにしない「残骸」だった。


「……あ、あんた……。よくも、よくも私の人生をめちゃくちゃにしてくれたわね……ッ!」


 門の隅で、ボロボロになったトランクの上に座り込み、今にも行き倒れそうな少女が私を指差していた。


 カトリーヌ・ド・ヴァロワ。あのアングレカムでの自信満々だった金髪は見る影もなくボサボサになり、目の下には深い隈ができている。彼女は這いずるような動作で私に近づくと、私の靴を掴んで叫んだ。


「あんたがあんな正論ぶちかますから! あの悪役令嬢、私を『結衣をたぶらかした害虫』扱いして、一晩で私の実家の利権を三つ潰したのよ!? 分かる!? この速さ、バグじゃないの!? しかもここへの転学だって、実質的な島流しよ!」


「……左様でございますか。彼女たちの執行能力を甘く見た貴女の敗北ですね。というか、私のせいにするのはお角違いです。自業自得という四字熟語を辞書で引いてから出直してください」


「他人事みたいに言わないでよ! あんたも同じとこに飛ばされてるじゃない! 転学届を自分から出したなんて、狂気の沙汰だわ!」


 私は、ゼーゼーと肩で息をする彼女を冷めた目で見下ろした。


 だが、ふと思う。この世界で、この物語が百合ゲーであることを理解し、かつてのシナリオを知っている人間は、私と彼女しかいない。……不本意だが、共通の言語を持っているのは強みだ。


「……カトリーヌさん。貴女、まだ『百合ハーレム』なんて寝言を言っているのですか?」


「当たり前でしょ! 私はこの学園の女たちを、私を中心とした百合の楽園で跪かせるために転生したのよ! スキルは封じられたけど、私の執念は課金アイテムより重いわ!」


「……はぁ。救いようがありませんね。……でも、いいでしょう。貴女が私の『観測』を邪魔しないというのなら、一時的な休戦協定を結んであげてもいいです。情報交換の相手くらいには、なってあげますわ。一応、この『ルピナス編』のデータも、私は貴女より詳細に把握していますから」


「……なんですって? 私だって全ルートクリアしてるわよ」


「甘いわね。私は全台詞、全スチル、没プロットの脚注まで網羅しているの。……ルピナスのヒロインたちの特性を分かっていないわね。あの子たちの愛は、アングレカムの二人よりもずっと『閉鎖的』なのよ。特に、あの三人一組トロワにはね」


 かつての宿敵と、まさかの「オタ友」結成。


 私たちは互いに薄汚れた制服を整え、ルピナス校の重厚な鉄門をくぐった。その瞬間――私の「百合アンテナ」が、落雷に打たれたかのような激しい衝撃を感知した。


「……っ!! 来たわ、これよ……この重圧、この芳香……至高の栄養素よ!!」


 私が足を止めると同時に、カトリーヌもまた顔を引き攣らせた。


「……何よこれ。アングレカムより『濃度』がおかしいじゃない。……なにあれ、三人でくっついて……」


 校庭の中央、巨大なルピナスの花壇の前に、三人の少女が立っていた。


 設定資料集のページをめくるまでもなく、私の脳内に彼女たちのプロフィールが奔流となって溢れ出す。


 中央に座すのは、透き通るような銀髪を揺らし、今にも消えてしまいそうなほど儚げな深窓の令嬢――エレーヌ・ド・ギーズ。その右側で、剣を携え、氷の瞳で周囲を威圧する騎士――セレナ・フォン・リリエンタール。そして左側で、エレーヌの肩に甘えるように寄り添い、不敵な笑みを浮かべる桃色の小悪魔――ミミ・ラ・フォール。


 三人は互いの指を絡ませ、あるいは肩を寄せ合い、奇跡のような、しかし今にも壊れそうな薄氷の均衡バランスでそこに存在していた。


「……三人。一人の令嬢を巡り、正義の騎士と悪徳の小悪魔が火花を散らしているように見えるけれど、その実態は全員が『別の穴』を埋め合うための共依存……!!」


 私は反射的に後方へと下がり、腕を組み、鼻腔から溢れそうになる鮮血を精神力でせき止めた。


「素晴らしい……。あのセレナ様の、ミミ様への隠しきれない嫌悪は、裏を返せば『彼女がいなければ自分は正義の騎士という役割を維持できない』という恐怖。ミミ様のセレナ様への加虐心は、『彼女に拒絶されることでしか自分の存在を定義できない』という空虚。そしてエレーヌ様は、そんな二人を『争わせることでしか、愛されている実感を得られない』という孤独。……尊い、尊すぎて魂がルピナス畑に埋まりそうだわ……!!」


「あんた、いきなりキモい顔に戻らないでよ! ……それより見なさいよ、あの子たちの目。……私たち、完全に『不審者』として処理されてるわよ」


 カトリーヌの言う通りだった。三人の視線が、同時に私たちへと向けられた。そこにあるのは、底冷えするような「拒絶」と「排除」の意思だった。


「……アングレカムからの転校生が二人。……一人は追放された詐欺師、もう一人は……女王の寵愛を捨てて逃げ出した、薄汚れた小鳥かしら」


 セレナが、氷の刃のような声を放つ。ミミが、クスクスと不気味に笑いながら、私を値踏みするように見つめる。


「ねぇ、エレーヌ様。どう思う? この地味な子。アングレカムの空気に耐えられなくて、こちらへ這い出してきたんですって。私たちの聖域に、こんな雑草は不要よね?」


 中央のエレーヌが、弱々しく、けれど残酷なほど無垢な瞳をこちらに向けた。


「……汚れているわ。……アングレカムの、あの独善的な薔薇の匂いが染み付いている。……不愉快。消えて、くださる?」


 親密度、マイナス一万。


 出会った瞬間に「消えろ」と言わんばかりの最悪の洗礼。だが、私は狂喜した。


「……っ、……あ、最高。最高すぎるわ……っ!」


「嫌われている……。完全にゴミを見るような目で見られている! これよ! これこそが、モブの、観測者の正しい立ち位置!」


「あんた……マジでカウンセリング受けなさいよ……」


 カトリーヌは絶望に顔を歪ませたが、すぐにプレイヤーとしての「欲」が戻った。


「……でも、いいわ。この冷たい女たちを、私の足元で泣かせて、私の百合ハーレムに加えてみせる」


「どうぞご自由に。……私は、あのお三方を地べたから観測させていただきますから」


 私とカトリーヌ。全く正反対の目的を持ちながらも、私たちはこの新しい迷宮――至高の聖域に足を踏み入れた。


 だが、結衣は気づいていなかった。私を隣で見つめるカトリーヌの瞳が、少しずつ、変化していることに。


(……でも、この瀬良結衣……。あのアングレカムの怪物を二人も手玉に取って、挙句に自分から捨てるなんて、どんな化け物よ。……もし、こいつを私の百合ハーレムに入れたら……。最強の『参謀』にして、最高の『モブ系ツンデレヒロイン』になるんじゃないかしら? もしくはNTRも楽しめそうね)


 カトリーヌは誰にも悟られないようにニヤリと笑う。



 ◇◆◇



 ……一方、その頃。主を失ったアングレカム学院の、瀬良結衣の自室。


「……逃げたのね、結衣」


 クラウディアは、主のいないベッドに横たわり、結衣の匂いが残る枕を抱きしめていた。その瞳は、もはや正常な光を失い、どろりとした漆黒の執着に染まっている。


「……逃げられると思っているの? 私たちの世界から。……ねえ、真白。準備を整えましょうか」


 影の中から、真白が音もなく現れる。


「ええ……。学園同士の交流夜会。……彼女を捕まえて、今度こそ、二度と歩けないように黄金の鎖で繋いであげましょう。……私たちの愛を、完成させるために」


 アングレカムの怪物たちは、まだ、牙を収めてはいなかった。



 ◇◆◇



 ルピナス女学院での生活が始まって1週間。


 私は、かつてないほどの充実感の中にいた。


 アングレカムでは、朝起きた瞬間から二人の美少女に抱きつかれ、食事は口に運ばれ、常に「愛の重圧」で窒息しそうだった。だが、ここでは違う。私は教室の隅、誰の視界にも入らない最果ての席で、一人静かに教科書を広げている。


 そして、その視線の先には――。


「セレナ、そんなに強引に引っ張らないで。エレーヌ様が困っているわ」


「……黙れ、ミミ。貴様こそ、いつまでエレーヌ様の背後に張り付いている。離れろ」


「あら、エレーヌ様は私の指が一番落ち着くって仰っているわよ? ねえ?」


 あぁ、今日も今日とて素晴らしい。図書室のテラスで繰り広げられる、三人の痴話喧嘩。騎士道精神と独占欲の板挟みになるセレナ。それを嘲笑いながら懐に潜り込むミミ。二人を競わせることで悦に浸るエレーヌ。


 私は図書の棚の隙間から、その光景を「後方腕組み」で凝視していた。これだ。これこそが、私が求めていた『観測』だ。


 私は彼女たちの視界に存在すらしていない。ただの背景、ただの壁。その絶対的な孤独の中で、彼女たちの輝きを一方的に搾取する快感。


「……はぁ。たまらんわ。あのミミ様がセレナ様の耳元で囁く『貴女がいなくても、私一人でエレーヌ様を愛せるわ』という呪詛……設定資料以上の解像度……!」


「……ねぇ、いつまでそこに突っ立ってるのよ。ストーカーで通報されるわよ?」


 背後から、呆れたような声がした。カトリーヌだ。彼女はこの1週間、持ち前の行動力でルピナス校の下層令嬢たちを籠絡し、着々と自分の勢力を築いていた。流石は百合ハーレムを志すプレイヤーである。


「カトリーヌさん。通報されるような野暮な真似はしませんよ。私は今、空気に擬態しているのです。貴女こそ、あの三人への接触はどうなったのです?」


「……最悪よ。あのセレナって女、私の『人心掌握』のきっかけになる言葉を投げても、全部『エレーヌ様の教えに反する』で切り捨てるのよ! 脳みそがエレーヌで埋まってんのよ、あいつ!」


「ふふふ。当然です。セレナ様は、幼少期にエレーヌ様に命を救われたという刷り込みがある。彼女にとって、エレーヌ様以外の言葉はすべて雑音なのですよ」


「あんた、本当に何でも知ってるわね……。っていうか、その知識があれば、あんたがこの学園のトップに立てるんじゃないの?」


「馬鹿なことを。私がトップに立ってどうするのですか。私は、彼女たちが頂点で美しく散る、あるいは永遠に絡み合う姿を、最底辺から眺めていたいだけなのです。それがオタクの美学です」


 カトリーヌは「信じられない」という顔で私を見たが、すぐにその瞳に不気味な熱が混ざった。


「……ねぇ、瀬良結衣。あんた、面白いわ。……正直、最初はただのキモいオタクだと思ってたけど。……あんたのその、自分の欲求に忠実で、かつ徹底して自分を殺す姿勢。……私のハーレムの『右腕』にふさわしいわ」


「お断りします。私は壁です」


「いいえ、決めたわ。あんたも私のコレクションに加える。アングレカムの二人が執着した理由が、ようやく分かってきた気がするわ……。あんたは、誰にも所有されないからこそ、手に入れたくなる『究極のレアキャラ』なのよ」


「……解釈が歪んでいますよ。というか、私に構わずあちらの三人をどうにかしてください。絶対に無理だろうけど」


 カトリーヌを適当にあしらい、再び三人の観測に戻った。


 私は最高に尊い、てぇてぇエネルギーをこれでもかというくらい補充するのだった。



 ◇◆◇



 その日の放課後。私は見てしまった。


 夕暮れの武道場の裏。一人で修練を終えたセレナ様が、自らの剣を見つめ、ひどく寂しげな表情を浮かべているのを。


 私は棚の陰で、思わず呟いた。


「……セレナ様。貴女はミミ様を憎んでいるふりをしているけれど、本当は彼女に『悪役』でいてもらうことを誰よりも望んでいる。……彼女が悪でいてくれるから、貴女はエレーヌ様の『光の騎士』でいられる。ミミ様を排除すれば、貴女はエレーヌ様にとっての『ただの女』になってしまう。……それが怖くて、貴女はわざとミミ様を逃がし続けている……。ああ、なんて臆病で、気高き騎士様……」


 その時。


「――なぜ、貴様がそれを知っている」


 心臓が跳ね上がった。いつの間にか、セレナ様が目の前に立っていた。


 彼女の瞳は、これまでの冷徹なものではなく、自分の魂の醜い部分を見られたかのような、剥き出しの動揺に濡れていた。


「……あ、いえ。これは、私の勝手な、ただの解釈でございまして……」


「解釈だと? ……エレーヌ様は私を『無欠の英雄』として頼り、ミミは私を『退屈な正義』として嗤う。二人とも、私がこの均衡を維持するために、わざとミミを飼い殺していることなど気づきもしない。……なのに、なぜ。今日来たばかりの、名もなき転校生が……」


 セレナ様が、一歩、また一歩と私を追い詰める。彼女の剣を握る手が、微かに震えていた。


「……貴様は、私をどうしたいのだ。その瞳で、私の欺瞞を暴き、私を壊すつもりか?」


「とんでもございません! 私はただの観測者です。貴女様の孤独が尊すぎて、つい口が滑っただけで……!」


「尊い……? ……フフ。欺瞞を尊ぶなど、正気ではないな。……だが、不気味だ。貴様と話していると、私の張り詰めた何かが、瓦解していく……」


 セレナ様は、私を睨みつけながらも、その瞳には抗いがたい「渇望」が宿っていた。  彼女は、初めて出会ったのだ。自分を崇拝するでも、利用するでもなく、ただ「一人の人間」として解釈し、その心の深淵に触れた存在に。


「……瀬良、結衣と言ったな。……明日も、ここにいろ。……貴様のその、歪んだ解釈とやらを、私に叩きつけろ。……これは命令だ」


 ……あ、終わった。「命令」という形をとりつつ、彼女の瞳は「私を見捨てないでくれ」と縋っていた。


 私は、震えながら後方腕組みを解いた。私の平穏なモブ生活。それは、銀髪の騎士様の、重すぎる孤独の共有によって、再び崩壊し始めたのだった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る