第5話:後方腕組みモブ、百合ハーレム勢に憤る
朝の光というものは、時として暴力的なまでの残酷さを孕んで降り注ぐ。
聖アングレカム学院、寄宿舎の三階にある、私の慎ましい個室。そこは本来、私が一日の終わりに「観測データ」を整理し、誰にも邪魔されずに推したちへの尊さを反芻するための、唯一の絶対防衛圏であったはずだ。
だが、今。私の視界に広がる光景は、その聖域が完全に蹂躙されたことを示していた。
「……ん、……瀬良? 起きたの?」
耳元で、鈴の音を転がしたような、けれど微かに眠気の残った甘い声がした。
頬に触れるのは、摘みたての野花のような、清廉でいてどこか人を狂わせる百合ゲーの主人公・真白様(ヤンデレルートVer.)の香り。彼女の細い腕が、私の胴をしっかりと、まるで自分の所有物を確かめるように抱きしめている。
そして、反対側。
重みを感じて視線を向ければ、そこには銀色の糸をぶちまけたような美しさで、クラウディア様が眠っていた。彼女の長い睫毛が、朝日に照らされて影を落とし、陶器のような肌は微かに上気している。彼女の手は、私の寝巻きの裾をぎゅっと握りしめたまま、離そうとしない。
(……なんで。なんで、こうなったのよ……!!)
私の脳内では、昨日の「完全勝利」の記憶が、ガラガラと音を立てて崩れ去っていた。
私は確かに、二人に「真実の百合」を説いたはずだ。二人が向き合うべきはお互いであり、私のような目隠れモブではないと、聖典(原作)の知識を総動員して論破したはずだった。
その結果、二人は情熱的な接吻を交わし、私は「壁」へと帰還した……。
だが、それは大きな、あまりにも大きな計算違いだったのだ。
オタクという生き物は、時として「解釈の解像度」を上げすぎてしまう。
私が提示した「二人への理解」は、彼女たちにとって、自分たちの孤独な魂を完璧に救済してくれる「聖母の宣託」のように響いてしまった。
結果、二人はこう結論づけたらしい。
「真白(クラウディア様)との愛は深まった。……そして、それを導いてくれた瀬良結衣は、私たちの愛を完成させるために絶対に手放してはならない、唯一無二の宝物である」と。
「……解釈違いなんて、そんな生温い言葉じゃ足りない。これは、神話のバグ。公式による、観測者への嫌がらせだわ」
私は震える手で、顔を覆った。
二人の体温が、寝巻き越しにじりじりと伝わってくる。
真白様の規則正しい呼吸が、私の首筋を擽る。
クラウディア様の、無意識に漏れる小さなくぐもった吐息が、胸を締め付ける。 この状況、全人類の百合オタクが「代わってくれ」と血涙を流して懇願するであろう、文字通りの『
私は、あくまで「観測者」でありたかった。
二人の輝きに焼かれるのは本望だが、それは遠くから、遮光フィルター越しに眺める時の話だ。
今、私は、太陽の核に直接放り込まれている。
熱い。暑苦しい。尊すぎて、魂が蒸発してしまいそうだ。
「……瀬良。あまり、暴れないで。……まだ、夢の続きを見ていたいの」
クラウディア様が、薄く目を開けた。
その青い瞳は、寝起きゆえの混濁を含みながらも、私を捉えた瞬間に、陶酔しきったような、深い、深い悦びに染まった。
彼女は、私の胸元に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。
「……ああ。……本当に、貴女の匂い。……嘘じゃなかったのね。昨日の貴女の言葉も、あの、神々しいまでの導きも。……私、今なら、貴女のためなら、どんなことだってできる気がするわ」
「……クラウディア様。それは、その。過大評価でございます。私はただ、お二人の幸せを……」
「……分かっているわ。貴女は、自分の功績を誇らない。……そこがまた、私たちの心を惹きつけるのよ、結衣」
(名前。今、名前で呼んだ!? 下の名前で!?)
クラウディア様のような高潔な貴族が、モブの私を「結衣」と呼ぶ。
それは、彼女のこれまでの人生におけるルールを完全に踏み外した、異常事態の宣言だった。
「……クラウディア様。抜け駆けはいけませんよ」
反対側で、真白様が完全に目を覚ましていた。
彼女は私を抱きしめる力を強め、クラウディア様を挑発するように、私の頬にちゅり、と小さな音を立てて口づけをした。
「瀬良さんは、私たち二人で導き出した『答え』。……朝の挨拶も、平等に行わなければ。……ね、瀬良さん?」
「…………」
私は、言葉を失った。
昨夜の真白様。私の部屋に忍び込み、クラウディア様に内緒で私を汚そうとした(未遂だが)、あの黒い情熱を孕んだ瞳。
それが今、目の前にある。 そしてクラウディア様は、そんな真白様の不穏な動きを知ってか知らずか、私を「自分たちの守護聖人」として崇拝し始めている。
二人のヒロイン。
一人は、不器用な愛を捧げる「崇拝者」。
一人は、すべてを支配しようとする「略奪者」。
その二人の愛のベクトルが、私という一点に集中している。
私は、仰向けに天井を見つめた。
シミ一つない、白い天井。
それは、私が昨日までに積み上げてきた「モブとしての平穏」そのもののように見えた。
そして今、その白地は、二人の美しすぎる色彩によって、二度と元には戻らないほどに塗りつぶされようとしていた。
◇◆◇
「……さて。結衣、お腹が空いたでしょう? 私、貴女のために最高の朝食を用意させたわ」
クラウディア様は、私の困惑など一切意に介さず、優雅にベッドから立ち上がった。
彼女は、自分の乱れたシルクのパジャマさえ気にせず、私の部屋のドアを開け、外に控えていたであろう侍女たちに合図を送った。
数分後、私の六畳一間(比喩だが、それくらい狭い)の個室は、高級ホテルのスイートルームか、あるいは王宮の晩餐会場かと見紛うばかりの変貌を遂げた。
古びた木製の机には、真っ白なリネンが敷かれ、銀の食器が並べられる。
焼きたてのクロワッサンの芳醇な香りと、完熟した果実の甘い匂い。
そして、最高級の茶葉から抽出されたダージリンの蒸気が、狭い部屋を白く染め上げていく。
「……さあ、座って。今日から、貴女の食事はすべて私が管理するわ。……貴女のような尊い存在が、学院の食堂で、あんな味の薄いスープを啜っているなんて、私のプライドが許さないの」
「……クラウディア様。ここは寄宿舎です。外部の料理を持ち込むのは、規則違反では……」
私が必死に正論で抵抗しようとすると、隣で真白様が、私の皿に手際よくオムレツを取り分けながら、クスクスと笑った。
「瀬良さん、無駄ですよ。クラウディア様は、昨夜、寮監の先生を『説得』して、ここの特別使用許可を取ったんですもの。……もちろん、私も協力しました。……貴女を、誰にも邪魔されない場所で、私たちが独占するために」
(……寮監を説得。いや、それ、買収か脅迫じゃないの?)
私は、震える手でフォークを握った。
目の前には、絵画から抜け出してきたような、この世のものとは思えないほど美しい二人の少女。
彼女たちは、お互いに料理を取り分け、微笑み合いながら、その視線のすべてを私へと注いでいる。
「……食べて、結衣。貴女が一口食べるたびに、私の魂が救われるのよ」
「……瀬良さん。これ、私がアッサムで淹れたの。貴女の唇を、温めてあげたくて」
一口食べるごとに、二人の言葉の重みが胃に溜まっていく。
本来なら、これは「真白とクラウディアの、幸せな朝食」であるべきだった。
そこに私が混ざることで、物語は完全に別の形へと変質している。
私は、クロワッサンを噛み締めながら、懸命に頭を回転させた。
(どうする。どうすれば、この『溺愛ルート』から脱出できる? ……昨日の正論攻撃が裏目に出たなら、次はもっと根本的な……そう、私の『幻滅させる行動』が必要なんじゃないか?)
そうだ。彼女たちは私を「高潔な理解者」だと思い込んでいる。
ならば、私が救いようのないクズ、あるいは、彼女たちの美学を根底から破壊するような低俗な存在であることを示せば、彼女たちの熱も冷めるはずだ。
私は、口いっぱいにオムレツを頬張り、わざと汚らしく咀嚼音を立ててみた。
「……はあ。うめぇ。このオムレツ、マジで最高っすね、お嬢様方」
言葉遣いを崩し、モブどころか、粗野な男のような態度をとってみせる。
これでどうだ。高潔なクラウディア様なら、この「不潔な挙動」に眉を顰め、一気に興ざめするはず――。
「……っ、……なんてこと。……なんて、野性的で、純粋な……!」
クラウディア様は、私の汚い食べ方を見て、あろうことか感極まったように瞳を輝かせた。
「飾らない貴女。……形式に囚われず、生命の喜びを全身で表現するその姿。……ああ、結衣。貴女はどこまで私を驚かせ、魅了すれば気が済むの!?」
「……え、いや、不潔じゃないですか? これ」
「いいえ。……私には見えるわ。貴女が、この社会の欺瞞に満ちた礼儀作法を、あえて破壊することで、私たちに『自由』を説いているのだということが……!」
(違う! ただの行儀の悪さだよ! 解釈をねじ曲げないで!)
「瀬良さん……。そんなに急いで食べなくても、私たちはどこへも行かないわ」
真白様が、ナプキンを取り出すと、私の口元に付いたケチャップを、とろけるような手つきで拭い取った。
「……貴女のその、少し幼い食べ方。……守ってあげたくなるわ。……ねえ、クラウディア様。私たち、もっと瀬良さんの『色々な姿』を、知る必要があると思わない?」
「ええ……。そうね、真白。……まずは、この部屋の改装から始めましょうか。こんな狭い場所では、彼女の魂が萎んでしまうわ。……私の隣の部屋を空けさせて、コネクティングルームにするのがいいかしら」
「いいですね。……それから、制服ももっと……私たちの好みに合った、彼女の肌を引き立てる素材に変えさせましょう」
二人は、私を完全に置き去りにして、私の「改造計画」を熱心に話し合い始めた。
私は、フォークを落とした。
カラン、という虚しい音が、豪華な朝食の喧騒の中に消えていく。
(……詰んだ。……私の行動、すべてが『聖母の思し召し』として、ポジティブ変換されている……!)
オタクとしての「理解の深さ」が、彼女たちにとっての「救済」となり。
モブとしての「無作法」が、彼女たちにとっての「自由」となり。
私は、何をしても、どこへ行こうとしても、彼女たちの愛の引力から逃れることができない。
私は、残りの紅茶を飲み干した。
味は最高だった。……けれど、その香りは、これから私を縛り付ける「黄金の鎖」の匂いがした。
◇◆◇
朝食の後、私たちは連れ立って講義棟へと向かった。
当然のように、私は二人に両脇を固められている。
クラウディア様は私の右腕を、真白様は私の左腕を。
それは、学院の権力と美の象徴に左右を護衛される、異様なパレードだった。
廊下を通るたびに、周囲の生徒たちのどよめきが波のように広がる。
「見て、あのC組の……」
「クラウディア様と真白様に、あんなに密着されて……」
「昨日のお茶会だけじゃなかったのね……」
その視線の中には、昨日よりもさらに露骨な「憎悪」と「困惑」が混ざっていた。 私は、胃が痛くなるのを感じながら、俯いて歩いた。
「コ、……コロ、シ……テ」
(……目立ちたくない。私は、背景の一部でいたい。……誰か、私に石を投げて。私をこの状況から引きずり出して……)
だが、誰もそんなことはできなかった。
クラウディア様が周囲を威圧するような冷たい視線を一瞥するだけで、生徒たちは蜘蛛の子を散らすように道を空けるのだ。
そして真白様は、私に向かってだけ、花が開くような柔らかな笑みを向け続けている。
そのコントラストが、よりいっそう、私を特別で、かつ孤立した存在へと仕立て上げていた。
そんな時だった。
「――あら。ずいぶんと賑やかですこと、お姉様方」
背後から、聞き慣れない、けれど妙に耳に残る高い声が響いた。
鈴を鳴らすような声ではあるが、真白様のそれとは違う。もっと計算された、他人の神経を逆撫でするような、鋭利な響き。
立ち止まり、振り返ると、そこには一人の少女が立っていた。
二年生。私と同じ学年。
緩やかに波打つ金髪をハーフアップにし、短いスカートから覗く脚には、学院指定ではない黒いタイツ。
その端正な顔立ちには、周囲の生徒たちとは明らかに違う、どこか現代的な、冷めた「余裕」が漂っていた。
私の記憶が、激しく警告を発した。
(誰だ……? 原作に、こんなキャラはいない。……隠しキャラか? それとも、追加ダウンロードコンテンツの……?)
「……貴女、誰かしら。私の歩みを止めるなんて、よほどの覚悟があるのでしょうね」
クラウディア様が、一気に氷のような温度を纏って、その少女を睨みつけた。 少女は、怯えるどころか、くすくすと不敵な笑みを漏らした。
「そんなに怖がらないでください。……ただ、少し『懐かしい気配』がしたので、ご挨拶に伺っただけです。……ね、瀬良結衣さん?」
少女の視線が、私に真っ直ぐに向けられた。
その瞬間、私の背筋に、昨夜の真白様の囁きよりもずっと深い寒気が走った。
彼女の瞳。……それは、私と同じだった。
この世界を、現実としてではなく、一つの「舞台」あるいは「ゲーム」として見ている、あの特有の、冷めた客観性。
そして彼女の口元が、私にしか聞こえないような小さな声で、ある言葉を形作った。
『――ヒロインから愛されるのは、一人で十分だと思わない? 転生者さん』
(……!!)
私の心臓が、一気に跳ね上がった。
転生者。
この世界に、私以外の、前世の記憶を持つ存在。
しかも、彼女は私の正体を一目で見抜き、あろうことか「敵意」を向けてきている。
「……何、を」
「おっと。今の話は、お二人には内緒ですよ。……私は、カトリーヌ・ド・ヴァロワ。今日からこの学院の平穏をかき乱す……じゃなくて、彩るために、海外校から編入してきましたの」
カトリーヌと名乗った少女は、優雅に、けれど挑発的なカーテシーを披露した。
彼女の視線は、クラウディア様や真白様ではなく、常に私を射抜いていた。
その瞳には、「推しを愛でる」という純粋なオタクの情熱ではなく、もっとどろりとした、自分の思い通りに世界を書き換えようとする「改造者」の野心が燃えていた。
「瀬良さん。……貴女のその『後方腕組み』、随分と滑稽に見えますわよ。……神を崇拝するだけの信者に、何ができるっていうのかしら」
「……カトリーヌ、と言ったかしら。貴女、結衣にこれ以上の無礼を働くなら、私が黙っていないわよ」
クラウディア様が、私の肩を抱き寄せ、カトリーヌを威嚇した。
真白様も、いつもの微笑みを消し、射殺さんばかりの鋭い視線で彼女を凝視している。
だが、カトリーヌはそれを楽しそうに眺めるだけだった。
「ふふ。……愛されているね、瀬良さん。……でも、その愛がいつまで『貴女の思い通り』でいられるかな。……物語の
カトリーヌはそう言い残すと、軽やかな足取りで廊下の向こうへと消えていった。
◇◆◇
カトリーヌが去った後、廊下には不自然な沈黙が流れた。
「……何なの、あの子。不愉快極まりないわ。結衣、あんな女の言うこと、気にしなくていいのよ」
クラウディア様が、私の手を握りしめる。その手は、少しだけ怒りで震えていた。 「貴女は、私が守る。……あの女が何を企んでいようと、ローゼンブルクの権力にかけて、貴女に指一本触れさせないわ」
「……ええ。私も、あの子のことは……少し調べておくわね」
真白様が、昏い瞳でカトリーヌが消えた先を見つめていた。
「……瀬良さんに近づく毒虫は、一匹残らず排除しなきゃ。……ね、瀬良さん」
(……怖い。二人とも、怖すぎる。……でも、それ以上にカトリーヌが不気味だ)
カトリーヌ。 彼女は明らかに、この世界の「攻略」を狙っている。
そして彼女の言葉を借りるなら、彼女は「プレイヤー」としての意識が非常に強い。
私のように、推したちを尊び、壁になりたいと願う「観測者」とは、根本的に相容れない存在だ。
私は、二人に支えられながら、講義室へと向かった。
だが、その足取りは、今朝よりもずっと重かった。
(……転生者。……もし彼女が、この世界のシナリオを強引に書き換えようとしているのだとしたら。……私の、大好きなこの『百合ゲー』の世界が、彼女の手によって破壊されてしまうのだとしたら)
私の胸の奥で、小さな、けれど消えない怒りの火が灯った。
私は、自分が愛されるのは困る。 彼女たちの執着に翻弄されるのも、望んでいない。
だが。
それ以上に、この美しい世界が、「自分勝手なプレイヤー」によって汚されることだけは、絶対に許せなかった。
(……カトリーヌ。……貴女がこの物語を壊そうとするなら。……私は、全力で貴女を叩き潰す)
それは、モブとしての生存戦略ではなく。
一人の「百合オタク」としての、意地だった。
私は、後方で腕を組む権利を死守するために。
そして、クラウディア様と真白様が、本来の「あるべき姿」でいられるように。
私は、初めて自分から、この「脚本」に介入することを決意した。
◇◆◇
その日の授業は、一文字も頭に入らなかった。
隣の席のクラウディア様は、授業中もずっと私の手を机の下で握り続けていたし。
後ろの席の真白様は、時折、私の首筋に視線を這わせていた。
だが、私の思考は、カトリーヌ・ド・ヴァロワという闖入者へと向いていた。
放課後。 私は、いつものお茶会を早めに切り上げようとした。
カトリーヌの動向を探り、彼女が何を目論んでいるのかを調べる必要があったからだ。
「……あら、結衣。もう行くの? 私、もっと貴女と語り合いたいことがあったのだけれど」
クラウディア様が、寂しそうに私の袖を引く。
その瞳は、まるで飼い主に置いていかれる子犬のように、潤んでいる。
(……悪役令嬢が、なんでこんなにチョロいのよ。……私のせいだけど!)
「……申し訳ございません、クラウディア様。少し、図書室で調べたいことがございまして」
「……調べ物? 図書室なら、私も一緒に行こうかしら」
「いいえ。……一人で、集中したいのです。……すぐ、寄宿舎に戻りますから」
私は、必死に断った。 二人が付いてくれば、目立って仕方がないし、カトリーヌへの接触も難しくなる。
真白様は、私の目をじっと見つめ、何かを察したように微笑んだ。
「……分かったわ。瀬良さんがそう言うなら。……でも、暗くなる前に、必ず帰るのよ? 私たち、貴女の部屋で待っているから」
(待っててくれなくていいんだけど!!)
私は、二人の執拗な視線を背中に浴びながら、逃げるように東屋を飛び出した。
向かったのは、図書室の奥にある「禁書棚」。
真白様が言っていた、歴史の裏側や、この世界の成り立ちについて記された古文書が眠る場所だ。
カトリーヌが「転生者」であるなら、彼女もまた、この世界の「特異点」を探しているはずだ。
埃の舞う、暗い書庫。
私は、一冊一冊、背表紙を指でなぞりながら、カトリーヌの気配を探した。
「――おや。思ったより早かったね」
棚の陰から、不意に声がした。
振り返ると、そこには豪華な装飾の椅子に腰掛け、脚を組んで本を読むカトリーヌの姿があった。
彼女は、私が来るのを確信していたかのように、冷ややかな笑みを浮かべた。
「瀬良結衣さん。……貴女、あのお二人を『正しく導いた』つもりかしら? ……プッ。笑わせないで。貴女がやったのは、ただの『フラグの破壊』よ。……本来、クラウディアとお互いに惹かれ合うはずだったメインヒーローたちの出番を、貴女が完全に奪っちゃったんだから」
「……メインヒーロー? ここは百合ゲーの世界よ。そんなもの、最初からいないわ」
私が反論すると、カトリーヌは肩をすくめて、馬鹿にしたように笑った。
「あはは! まだそんなこと言ってるの? ……このゲーム、『聖アングレカム学院の調べ』はね、隠しルートで『百合ハーレムエンド』が存在するのよ。……私は、それを見るためにここに来たの。……クラウディアと真白、そして他の美少女たちを、私が侍らせて、この学園を私の帝国にする。……それが、私のエンディングよ」
「…………」
絶句した。
百合ハーレム? 帝国の建設? それは、私の愛する「百合」に対する、最悪の冒涜だった。
「……そんなこと、私がさせない」
「あら、どうやって? 貴女、自分をただのモブだと思ってるんでしょう? ……私は違うわ。私は、課金(という名の転生特典)で、この世界の『人心掌握』のスキルを持ってるの。……明日には、あの二人の心も、私のものになってるかもしれないわよ?」
カトリーヌが、椅子から立ち上がり、私に顔を近づけた。
その瞳には、怪しい魔力が宿っているように見えた。
「……瀬良結衣。貴女は、邪魔なのよ。……観測者は、観測者らしく、ゴミ箱の中で震えていなさい。……物語の
カトリーヌは、私の肩を乱暴に押すと、高笑いしながら去っていった。
私は、暗い書庫の中で、拳を固く握りしめた。
震えは、止まらなかった。
けれど、それは恐怖のせいではない。
激しい、煮えくり返るような怒りのせいだ。
オタクの風上にも置けねぇ。
(……カトリーヌ・ド・ヴァロワ。……貴女だけは、絶対に許さない)
私は、棚に並んでいた厚い歴史書を、一冊手に取った。
その表紙には、『愛と執着の系譜』という文字が刻まれている。
私は、後方で腕を組むのをやめた。
その代わりに、私は、自分の中に眠る「百合オタク」の全知識を、今、武器として構えた。
「……私の愛する百合を、汚させはしない。……たとえ、私が主人公になろうとも。……貴女の思い通りには、させないわ」
聖アングレカム学院の夜が、再び深まっていく。
私の自室では、二人の狂おしい愛を抱えたヒロインたちが待っている。
そして暗闇の中では、新たな敵が牙を剥いている。
私は、一歩を踏み出した。
長大な脚本。その序盤戦、私は初めて、「自分の意志」で物語を書き換え始める。
モブの矜持。オタクの意地。 すべてを賭けた、私の戦いが、今、幕を開けたのだ。
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