第3話:後方腕組みモブ、無視することにした
昨夜の私はどうかしていた。
シーツに顔を埋めて悶え、あまつさえ「これはこれでアリかも」などと一瞬でも思考を掠めさせた自分を、今すぐ極刑に処したい。
「……ありえない。断じて、ありえないわ」
朝日が差し込む寄宿舎の自室で、私は鏡に向かって厳かに宣言した。
昨夜の出来事――クラウディア様の無垢ゆえの暴走と、真白様の湿り気を帯びた執着。それらに翻弄されたのは、単なる一時的なシステムエラーに過ぎない。
私は「瀬良結衣」という名のモブだ。この世界の主人公は、あの光輝く二人であって、私はその光を反射する塵ですらない。
「私の使命は、二人の愛を『完成』させること。私自身がその中不純物として混ざり、物語の純度を下げるなど、あってはならない大罪よ」
私は、昨夜の「当事者としての快楽」を脳内のゴミ箱へ力任せに放り込み、完全に削除した。
これから私が取るべき戦略は、ただ一つ。「徹底的な
二人が私に何をしようと、何を囁こうと、私は「無」を演じ通す。興味がない、聞こえない、何も感じない。そうすれば、高貴で飽きっぽいお嬢様方は、早晩この地味なモブに興味を失うはずだ。
そして、彼女たちの興味が再びお互いへと向き、真の百合の園が再構築されたその時――私は再び、後方で静かに腕を組むことができる。
「待っていて、私の聖域。私は必ず、壁に還ってみせるわ」
私は決意も新たに、いつも以上に無表情を張り付かせ、教室へと向かった。
オタクの矜持とは、推しと交わることではない。推しの幸せを、最も適切な角度から見守り続けることなのだ。
◇◆◇
学院の廊下は、いつも通り華やかな活気に満ちていたが、私が通る場所だけは、モーゼの十戒のように道が開いた。
当然だ。昨日、全校生徒の憧れであるクラウディア様と真白様に「連行」された謎のモブ。その注目度は、もはや無視できないレベルに達している。
だが、私はそれさえも無視する。周囲のひそひそ話も、突き刺さるような視線も、すべてはBGMに過ぎない。
教室に入ると、案の定、視線の暴力が待っていた。
クラウディア様は、いつものように窓際で優雅に読書をしていたが、私が教室の敷居を跨いだ瞬間、その銀色の睫毛が跳ねるように持ち上がった。
「……来たわね、瀬良」
凛とした声が響く。本来なら全生徒が直立不動になるような威厳。
だが、私は彼女の顔さえ見ず、一瞥もくれずに自分の席へと向かった。
教科書を取り出し、机の上に整然と並べる。筆箱の位置を1ミリ単位で調整する。私の世界には今、予習以外の事象は存在しない。
「……瀬良? 聞こえていないの?」
椅子の引かれる音がして、クラウディア様が私の席の前までやってきた。
彼女の放つ薔薇の香りが鼻腔をくすぐる。昨夜、私の首筋に鼻を寄せていた彼女と同じ匂い。だが、私はピクリとも動かない。
「ご機嫌よう、クラウディア様。……何か御用でしょうか。授業の準備がございますので、手短にお願いいたします」
感情を一切排した、事務的な声。
クラウディア様は、あからさまに目を見開いた。彼女の人生において、自分の呼びかけをここまで淡々とあしらう人間など、一人もいなかったのだろう。
「手短に……? 貴女、昨日の今日で、その態度は何かしら。私たちが、あんなに……貴女の『教育』について熱心に語り合ったというのに」
「教育……? 左様でございますか。生憎、私のような凡夫には、高貴なお方の冗談を理解する知能は持ち合わせておりません。昨日のことは、何かの間違い、あるいは演劇の練習か何かだと思っておりますので、お気になさらず」
私は、一度も彼女と目を合わせることなく、教科書のページをめくった。
クラウディア様の頬が、屈辱と困惑で微かに赤らむ。
「間違い……? 貴女、本気で言っているの!? 私を、ローゼンブルクの娘を、あんなに狼狽えさせておいて……っ」
「クラウディア様、お声が大きゅうございます。他の方々が困惑しておりますよ」
「っ……!!」
クラウディア様は、言葉を失って絶句した。
彼女のプライドは今、修復不可能なほどに傷ついているはずだ。これでいい。これで彼女は、「生意気で不敬な女」として私を切り捨てる。嫌われ、忘れられることこそが、モブの勝利なのだ。てぇてぇ推しに向かってこの態度を取るのははっきし言ってしんどい。
だが、その時。
「……ふふ。瀬良さん、今日は一段と厳しいのね」
背後から、柔らかく、けれど逃げ場のない湿気を孕んだ声がした。
真白様だ。
彼女は、いつの間にか私の真後ろに立ち、私の肩にその細い指をそっと置いた。 昨夜、私の腰を引き寄せ、耳元で淫らな知識を囁いた、あの真白様だ。
「クラウディア様、困らせちゃダメですよ。瀬良さんは今、私たちを試しているんですもの。……自分たちの愛が、この程度の拒絶で揺らぐものかどうかを、ね?」
(違う。解釈が重すぎる。ただの拒絶を『試練』に変換しないで……!)
私は真白様の手を、極めて事務的に払いのけた。
「真白様も。授業が始まります。ご自身の席へお戻りください」
「ええ、戻るわ。……でも、お昼休みは逃がさないから。……ね?」
真白様は、拒絶されたことなど気にも留めない様子で、私の耳元に唇を寄せた。
彼女の瞳の奥には、クラウディア様のような「困惑」ではなく、もっと暗く、静かな「歓喜」が燃えていた。拒絶すればするほど、彼女の執着を煽っているような、そんな嫌な予感が背筋を走る。
だが、私は動じない。
私は、観測者。私は、壁。
この嵐が過ぎ去るまで、私はただの無機物として存在し続けるのだ。
◇◆◇
昼休み。私は「徹底無視作戦」を継続するため、学院の地下にある古い資料室へと逃げ込んだ。
ここは滅多に人が来ない。埃を被った古い羊皮紙と、カビの匂いが漂うこの場所こそ、今の私にふさわしいシェルターだ。
私はここで、購買で買った地味なジャムパンを齧りながら、一人で「後方腕組み」の精神統一をするつもりだった。
だが、資料室の重い扉は、私のささやかな希望を打ち砕く音を立てて開かれた。
「……見つけたわ。こんな鼠の穴のような場所に隠れるなんて、貴女らしい執念ね、瀬良」
クラウディア様だった。
彼女の隣には、当然のように真白様が寄り添っている。
二人は、暗い資料室の中で、そこだけスポットライトが当たっているかのように眩く、そして圧倒的に不自然な存在感を放っていた。
私は、パンを一口飲み込み、無表情を維持した。
「……ここは共有スペースです。どなたがいらっしゃろうと自由ですが、私は一人で静かに食事をしたいので、失礼いたします」
私はパンの袋を閉じ、立ち上がろうとした。
だが、クラウディア様がその行く手を阻むように、机に両手をついた。
「逃がさないと言ったでしょう。……瀬良、貴女、自分が何をしているか分かっているの? 私を無視し、真白を遠ざけ……。それは、貴族社会において、死よりも重い侮辱に値するのよ」
「……左様でございますか。では、私を退学にでも、あるいは地下牢にでも送っていただければ幸いです。そうすれば、お二人の視界から私が消え、平穏な日常が戻るでしょう」
「……! 貴女……っ、どうしてそんなに投げやりなのよ! 私たちが……私たちが、あんなに歩み寄ろうとしているのに!」
クラウディア様が、震える声で叫んだ。
その瞳には、今にも零れ落ちそうな涙が溜まっている。
(……まずい。これ、ゲームの第5章で、クラウディア様が真白様に拒絶された時に見せる『孤独な魂の叫び』イベントじゃない。なんでターゲットが私なのよ)
「瀬良さん」
真白様が、一歩前に出た。彼女の表情は、どこまでも穏やかだ。だが、その瞳は笑っていない。
「貴女は、私たちのことが嫌いになったの? それとも……私たちの間に混ざることが、そんなに苦痛?」
「嫌い、などという贅沢な感情は持ち合わせておりません。ただ、私は『壁』でありたいだけなのです。お二人の美しい物語を、ただ外側から眺めていたい。……お二人の間に私がいることは、物語としての美学に反する。それは、不純物なのです」
「不純物……?」
真白様が、小首を傾げた。 「面白いことを言うのね。……でも、瀬良さん。不純物が混ざることで、より美しく輝く宝石もあるのよ。……私たちは、もう貴女がいない『完璧な二人』には戻れないの。貴女が私たちに、あの熱い視線を向けたその時から」
真白様の手が、私の頬に触れた。
「貴女が私たちを『観測』した時、私たちも貴女を『観測』してしまった。……貴女が私たちに抱いている、あの異常なまでの……そう、崇拝に近い愛を。それを知ってしまった私たちが、どうして貴女を放っておけると思うの?」
(……オタクの熱視線が、ガチの愛の告白と誤解されている……!)
「誤解です。私は、お二人がお互いを愛している姿が好きなのであって……」
「だったら、私たちが愛し合っている姿を、一番近くで見せてあげるわ」 クラウディア様が、真白様の言葉を遮るように、私の腕を掴んだ。 「瀬良。貴女、私たちが何をしても無視を貫くつもりね。……いいわ。なら、貴女がその『無関心』を維持できなくなるまで、私たちが貴女を……弄んであげる」
「……は?」
「真白が言っていたわ。知識がないなら、体で覚えればいいって。……瀬良、貴女のその冷めた瞳が、情欲で濁り、私たちを求めて縋りつくようになるまで……私は、諦めない」
クラウディア様が、私の耳元で、壊れ物を扱うような優しさと、底なしの執着が混ざり合った声で囁いた。
「貴女が私たちを『壁』から見るというのなら、私たちはその壁を壊して、貴女を私たちの
(……嘘でしょ。悪役令嬢が、モブに対して執着攻めに転じるなんて、設定が崩壊してる……!)
「さあ、瀬良さん。……お昼休みは、まだ終わらないわ」
真白様が、資料室の重い扉を閉め、内側から鍵をかけた。 カチャリ、という金属音が、私の絶望を決定づける葬送曲のように響いた。
◇◆◇
それから一時間。 資料室の埃っぽい空気の中で、私は人生最大の危機に瀕していた。
「……瀬良。貴女、まだそんな顔をするのね」
クラウディア様が、私の膝の上に乗り、私の両手を手すりに押し付けている。
彼女の銀髪が私の顔に降り注ぎ、昨夜の温室よりもずっと濃い、薔薇の香りが私を包み込む。
彼女は、真白様から授けられた「知識」を実践しようとしているのか、私のシャツのボタンに震える指をかけていた。
「いい、瀬良。……これが、貴女が望んでいた『接吻』よりも深い……肉体的な……その……結びつき、よ」
「……クラウディア様。手が震えております。そんなに無理をなさらずとも、お一人で真白様と愛を育んでいただければ……」
「黙りなさい! 私が、どれほどの覚悟で……貴女に、触れていると思っているの!」
クラウディア様が、私の首筋に顔を埋めた。
彼女の吐息は荒く、心臓の鼓動が、重なり合った胸を通して伝わってくる。
(尊い……。クラウディア様が、こんなに必死に、不器用な愛を表現しようとしている。この姿を、真白様が後ろから眺めている……。本来なら、これは真白様に対する愛の証明であるべきなのに……!)
「クラウディア様。……もっと強く。瀬良さんは、その程度じゃ『無』を崩してくれませんよ」
背後で、真白様が冷ややかに、しかし愉悦を隠しきれない声で指示を出している。 彼女は、クラウディア様をけしかけながら、自分もまた、私の足首をなぞるように指を動かしていた。
「瀬良さん。貴女、足が震えているわ。……無視を貫くと言いながら、体はこんなに正直なのね」
「……これは、寒さによる生理現象です」
「ふふ、まだそんなことを。……じゃあ、これが『寒さ』かどうか、確かめてあげましょうか」
真白様の指が、スカートの裾から忍び込み、太ももの内側の、最も敏感な場所へと這い上がってくる。
「……っ!」
私は、歯を食いしばった。
ここで声を上げれば、私の負けだ。観測者としての、モブとしてのプライドが、粉々に砕け散ってしまう。
私は、ただの壁。私は、ただの床。
二人が私をどう扱おうと、私は石のように動かず、彼女たちの愛の暴走が過ぎ去るのを待つのだ。
「……まだ、声を上げないの?」
クラウディア様が、顔を上げた。
彼女の瞳は、潤んでいる。だが、その中には、私への強い怒りと、それ以上の「哀しみ」が宿っていた。
「……瀬良。貴女、本当に残酷な人ね。私たちのことを『美しい』と言いながら、その実、私たちの心なんて、これっぽっちも見ていない。貴女が見ているのは、自分の中にある勝手な『偶像』だけ……。私たちの本当の痛みも、本当の渇望も、貴女には届かないのね」
「…………」
「……いいわ。だったら、貴女のその『偶像』を、私がぶち壊してあげる。……貴女が、自分の目で見ているものが『完璧な二人』ではなく、私という一人の女の、醜いまでの独占欲であると、認めざるを得なくなるまで」
クラウディア様が、私の唇を力任せに塞いだ。
それは、昨夜のような「確認」の接吻ではない。
私の呼吸を奪い、支配し、自分の存在を魂に刻み込もうとするような、暴力的で、切実な侵略だった。
舌が入り込み、口腔内の粘膜を蹂躙される。 鼻に抜ける彼女の香り。口内に広がる、鉄のような微かな血の味。 私は、意識が遠のくのを感じた。
(……ああ。……だめだ。無視できない。……こんなに、熱い……)
真白様の手が、私の下腹部に到達する。
二人の、全く異なる種類の執着が、私の体を媒介にして混ざり合っていく。
それは皮肉なことに、クラウディア様が言っていた「魂の融合」そのものだった。 ただし、そこにいるのは二人のヒロインだけではない。 彼女たちに愛され、犯され、魂を削り取られている、一人のモブがいる。
「……瀬良、さん……」
真白様が、私の耳たぶを甘噛みしながら囁く。
「……ねえ、もう、腕なんて組めないでしょう? 私たちの愛が、こんなに貴女を汚してしまったんだから」
私の意識は、真っ白な光の中に溶けていった。
プライド。矜持。オタクの美学。
それらは、彼女たちの放つ圧倒的な「生」のエネルギーの前では、あまりにも脆く、儚い砂の城に過ぎなかった。
◇◆◇
気がつくと、資料室の窓から差し込む光の角度が変わっていた。
昼休みの終わりを告げる予鈴が、遠くで鳴っている。
私は、乱れた制服を整え、震える足で立ち上がった。
クラウディア様と真白様は、既に身なりを整え、いつもの「完璧な二人」の姿に戻っていた。
だが、クラウディア様が去り際に私に向けた、あの勝ち誇ったような、それでいて深い孤独を湛えた微笑み。
そして、真白様が私の手に握らせた、彼女の体温が残る小さな銀のチャーム。
それらが、今起きたことが「観測」ではなく「実体験」であったことを、無慈悲に突きつけてくる。
「……負けた。……完敗よ」
私は、誰もいなくなった資料室で、ポツリと呟いた。
無視を貫き、飽きられるのを待つ。そんな甘い計画は、最初から破綻していたのだ。
彼女たちは、飽きるどころか、私の「拒絶」を最高のスパイスにして、より深く私を欲し始めている。
私は、いつものように腕を組もうとした。
だが、胸の前で交差させた自分の腕が、嫌になるほど震えている。
クラウディア様の唇の感触が。真白様の指の熱が。
それが、私の「腕組み」という聖なる儀式を、汚れた快楽の記憶へと書き換えてしまっていた。
「……嫌。……嫌よ、こんなの」
私は、自分の肩を抱いて蹲った。
私の愛した百合ゲー『聖アングレカム学院の調べ』。
その世界は今、私の目の前で、音を立てて崩壊している。
二人のヒロインは、お互いに愛を囁き合う代わりに、私をどうやって組み伏せ、どうやって自分のものにするかを競い合い始めている。
(……どうして。……どうして、こうなったの)
私は、泣きたかった。
オタクにとって、推しの解釈が変わることは、世界の終わりと同義だ。
なのに。 私の心の一部は、あの暴力的なまでの愛撫を、彼女たちの歪んだ瞳を、思い出すだけで熱くなってしまう。
「……認めない。……まだ、認めないわよ」
私は、震える足で資料室を出た。
廊下を歩く私の姿は、きっと側から見れば、ただの「体調の悪い生徒」に見えるだろう。
だが、私の内側では、かつてないほどの激しい嵐が吹き荒れていた。
「私は、モブ。私は、観測者。……たとえ、この体が二人に汚されたとしても。私の魂だけは、後方で腕を組み続けてみせる」
それは、もはや「美学」ではなく、「意地」だった。
彼女たちが私を欲するなら、私はそれ以上の熱量で、彼女たちを「観測対象」へと押し戻してやる。
どれだけ愛されようと、どれだけ汚されようと、私は決して「主人公」にはならない。
聖アングレカム学院の午後の光は、相変わらず残酷なまでに美しかった。
私は、自分の手の平に残る真白様のチャームを、壊れそうなほど強く握りしめた。
私の「抗い」は、ここから始まる。
たとえ、その先に待っているのが、さらなる執着という名の地獄だとしても。
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