第2話:後方腕組みモブ、誘惑される
聖アングレカム学院の朝は、常に冷徹な美しさを纏って訪れる。
寄宿舎の窓から差し込む光は、微細な塵さえも銀の粉のように輝かせ、少女たちの清廉な生活を祝福しているかのようだ。しかし、その光を浴びながら目覚める私の胸中は、どろりとした
(……夢じゃなかった。現実なんだわ。私の平穏なモブライフは、昨日の夕暮れと共に、あの温室に埋葬されたのね)
ベッドの中で、私は震える指先で自分の唇をなぞった。
そこには、クラウディア様と真白様、二人の「推し」から与えられた熱情の残滓が、呪いのようにこびりついている。
本来、私はこの物語の『壁』でなければならなかった。二人のヒロインが、互いの孤独をぶつけ合い、時に傷つけ合いながらも、最後には魂を一つにする。その過程を、適切な距離から「後方腕組み」で観測し、宇宙で最も尊いエネルギーとして自身の栄養にする――それが私の生きがいであったはずだ。
「……解釈違いなんてレベルじゃない。これは、神話の改竄よ」
私は這い出すようにベッドから出ると、鏡に映る自分の顔を見た。
どこにでもいる、目立たない容姿。物語を彩るための「その他大勢」にすぎない存在。それなのに、鏡の中の瞳は、自分でも驚くほど熱っぽく潤んでいる。
私は、自分でも気づかないうちに、彼女たちの深淵に魅了され始めていたのかもしれない。
教室へ向かう廊下でも、私の心臓は不規則なビートを刻み続けていた。
いつものように、壁際を、影に同化するように歩く。だが、すれ違う生徒たちの視線が、昨日までとは明らかに違う。好奇、嫉妬、そして蔑み。
「C組の瀬良様が、クラウディア様に目をつけられたらしいわよ」
「あんな冴えない方が、いったい何を……」
扇子の影で囁かれる毒ある言葉たちが、私を現実へと引き戻す。
そう。クラウディア・フォン・ローゼンブルクという「太陽」に近づくということは、同時に、その強烈な光で自分自身の存在を焼き尽くされるということなのだ。
自分の席に着くと、机の中に一通の手紙が入っていた。
上質な和紙に、流麗な万年筆の文字。封蝋には、ローゼンブルク家の紋章である「棘のある薔薇」が刻印されている。
『放課後、例の場所へ。貴女の「教育」を始めます。遅れることは許しません。 C.V.R』
「……教育」
私はその文字を指でなぞりながら、目眩を覚えた。
クラウディア様にとって、私はまだ「得体の知れない不審者」であり、矯正すべき対象なのだ。だが、その「教育」が何を指すのか。彼女のプライドの高さと、先ほどまで私が思い出していた彼女の性格を考えると、暗雲が立ち込めるような予感しかしない。
窓際の特等席。そこには、既に登校していたクラウディア様と真白様の姿があった。
クラウディア様は、銀の髪を陽光に輝かせながら、難解な哲学書に目を通している。その横で、真白様は小鳥のように愛らしく微笑みながら、彼女に何かを話しかけている。
その光景は、一見すれば完璧な『百合ゲー』のワンシーンだ。
だが、クラウディア様がふと顔を上げ、私と目が合った瞬間、その冷徹な青い瞳に、獲物を見つけた猛獣のような、どろりと甘い熱が灯ったのを私は見逃さなかった。
(……助けて。壁に戻して。私は、あそこに混ざる器じゃないのよ)
◇◆◇
放課後。学院の北棟、一般生徒の立ち入りが禁じられている「薔薇の東屋」は、沈黙の中に沈んでいた。
重厚な樫の扉を開けると、そこには既に「彼女たち」が待っていた。
中央のテーブルには、湯気を立てる最高級の紅茶と、色とりどりの小菓子が並べられている。
「……遅いわね、瀬良結衣。私を待たせるなんて、貴女の教育係としてのプライドが傷つくわ」
クラウディア様は、脚を組み、優雅に背もたれに身を預けていた。
その隣には、控えめに、しかし確かな存在感を放って真白様が座っている。彼女は私を見ると、柔らかく、けれどどこか逃がさないという意志を感じさせる微笑みを浮かべた。
「瀬良さん、待っていたわ。さあ、こちらへ」
真白様が、自分の正面、つまり二人の視線が最も激しく交差する「処刑席」を指し示す。
私は足をもつれさせながらも、そこへ着席した。
「さて。瀬良結衣。貴女をここへ呼んだのは、昨日の続き……つまり、貴女の歪んだ観測行為を、正当な『礼儀』へと昇華させるためよ」
クラウディア様が、ティーカップを置いて私を指差した。
「貴女は、私たちのことを『美しい』と言った。それは認めるわ。貴族として、美しくあることは義務ですもの。けれど、貴女のあの視線……。あれは、ただの賛美ではない。まるで、私たちが自分たちの知らない『何か』をしているのを期待しているような、不埒な色を感じたわ」
(ギクッ……。それは、カップリング的な意味での『何か』であって、決して不埒なことでは……いや、客観的に見れば不埒か)
「そこで私は考えたの」
クラウディア様は、少しだけ誇らしげに胸を張った。
「貴女が期待している『不埒なこと』とは何なのか。私は一晩中、蔵書を漁って調べたわ。……そして、理解した。貴女が私たちに求めているのは、つまり……『精神的な結合の肉体的な表現』……すなわち、接吻のことね!?」
彼女は、顔を真っ赤にしながら、しかし堂々と宣言した。
私は、飲み込もうとした紅茶を危うく吹き出しそうになった。
「せ、接吻、でございますか」
「ええ! 私も、貴族令嬢として、歴史書や詩集にある程度の記述は知っているわ。恋仲にある男女が、誓いの印として唇を重ねる。……けれど、貴女は私たち二人に対し、それ以上の何かを求めているように見えた。私は、さらに深く調べたわ。……その結果、驚くべき記述を見つけたの」
クラウディア様は、一冊の古い医学書(に見える何か)を取り出し、真剣な表情でページをめくった。
「いい、瀬良。驚かないで聞きなさい。……接吻を長時間続けると、互いの魂が口から溶け出し、混ざり合ってしまうという説があるのよ。そして、それがさらに進むと……互いの魔力が共鳴し、光り輝く繭に包まれ、そこから新しい生命が誕生する。……これが、女性同士における『愛の完成形』なのでしょう!?」
「…………は?」
私は、思考が停止した。 クラウディア様。学院の天才。全生徒の憧れ。
その彼女が、今、大真面目に「接吻で魂が混ざって新しい命が生まれる」という、中世の寓話レベルの知識を披露している。
しかも、その顔は「真理にたどり着いた賢者」のような輝きに満ちている。
(尊い……。いや、違う。アホだ。この人、めちゃくちゃ可愛いアホだ……! コウノトリが子供を運んでくるとか平気で信じちゃうタイプのアホだ……てぇてぇ!)
「クラウディア様……。それは、その、どこのファンタジー小説の記述でしょうか」
「何を言っているの! これはローゼンブルク家の秘密書庫にあった、由緒正しき……ええと、たしか『愛の魔法と神秘』というタイトルの……」
「……それ、多分、昔の人が書いたファンタジーポエムですよ」
私が呆れ果てて指摘すると、クラウディア様は「なっ……」と絶句し、耳の先まで真っ赤に染まった。
「う、嘘よ! だって、じゃあ、どうやって愛を表現すればいいのよ! 私、本で読んだわ、深い愛は、こう、もっと……相手を押し倒して、衣を剥ぎ、首筋に刻印を残す……とか……」
「それも、多分ちょっとジャンルが違う本ですね」
「な、ななな……っ! 貴女、私を馬鹿にしているの!? だったら、貴女が教えてよ! 貴女があの時、温室で私たちに期待していた『もっと深いこと』って、何なのよ!」
クラウディア様が、涙目で私に詰め寄ってくる。
その高潔なプライドが、自分の無知さゆえにガラガラと崩れていく様は、皮肉なことに、どんなゲームのスチルよりも美しく、愛らしかった。
だが、その時だった。
「……ふふっ。クラウディア様、可愛い」
それまで沈黙を守っていた真白様が、鈴を転がすような声で笑った。
その笑みは、いつもの「守ってあげたいヒロイン」のものではない。 もっと低く、重く、獲物を追い詰めたことを確信した捕食者の笑みだった。
「……真白? 何がおかしいのよ」
「いいえ。クラウディア様が、そんなに『純粋』だとは思わなかったから。……でも、大丈夫ですよ。私、クラウディア様の代わりに、たくさん勉強しておきましたから」
真白様は、ゆっくりと椅子から立ち上がると、私の背後に回った。
彼女の手が、私の肩に置かれる。その指先が、首筋を這うように動く。
「瀬良さん……。貴女が温室で見ていたもの。……それは、こういうことでしょう?」
真白様が、私の耳元で囁く。 その吐息は熱く、脳の芯を痺れさせるような甘い香りがした。
「……え……?」
「クラウディア様が知らないこと。女の子同士が、どうやって互いの肌を慈しみ、声を奪い、逃げられないように心を縛り付けるのか。……図書室の禁書棚の奥には、歴史書よりもずっと興味深い『実録』がたくさんあったわ」
真白様の指が、私の喉仏を愛撫するように、ゆっくりと、しかし力強く下りていく。
「接吻だけじゃ、命は生まれない。……でも、接吻だけじゃ、夜は越せないのよ? ね? 瀬良さん」
「ま、真白……!? 貴女、何を言って……」
クラウディア様が、呆然と真白様を見つめている。
真白様は、その視線を平然と受け止め、さらに深く、私に体を密着させた。
「クラウディア様。瀬良さんの『教育』は、私に任せてくれませんか? 私、瀬良さんが何を望んでいるのか、手に取るように分かるんです。……だって、私と瀬良さんは、きっと同じ種類の『飢え』を抱えているから」
真白様の瞳が、妖しく光った。
そこには、ヒロインとしての光など微塵もなかった。
あるのは、自分を見つめ続けた「観測者」に対する、狂おしいほどの執着だけ。
◇◆◇
その日の放課後の残りの時間は、私にとって永遠にも等しい、甘美な拷問だった。
クラウディア様は、自分の知識が間違っていたという羞恥心と、真白様が自分の知らない一面を見せたことへの困惑で、すっかり毒気を抜かれていた。
「……真白、貴女、本当にそんなことを本で読んだの? 肌を、その……合わせるだけで、意識が遠のくなんて、そんな……」
「ええ、本当ですよ。……やってみますか? クラウディア様。瀬良さんを使って」
「えっ!? 私が、瀬良を……?」
「そう。瀬良さんは、私たちの『教材』。……いいえ、私たちの『共有物』なんです。ね、瀬良さん?」
真白様が、私の髪を指で弄りながら、クラウディア様を誘惑するように微笑む。
(待って。教材? 共有物? 私、人間としての尊厳をマッハで失ってる気がするんだけど。……でも、推し二人に挟まれて、こんな風に奪い合われる(?)シチュエーション、百合オタクとしては『天国』すぎて死ねる……クソ!)
私の脳内では、現在二つの人格が激しく争っていた。
一つは、「解釈違いだ、今すぐ逃げろ」と叫ぶ、理性の目隠れモブ。
もう一つは、「これこそが究極の『
結局、欲望が勝利した。
私は、二人の「教育」という名のお遊びに、身を委ねる道を選んでしまったのだ。
クラウディア様は、おずおずと、しかし好奇心に抗えない様子で、私に手を伸ばした。
「……瀬良。貴女、嫌なら言いなさい。私は、無理強いはしたくないの」
「……クラウディア様の仰せのままに」
私が消え入りそうな声で答えると、彼女の瞳に、加虐心に近い色が混ざった。
「そう。……なら、少しだけ、貴女の『肌』の温度を確かめさせてもらうわ」
彼女の白い指が、私の制服のリボンを解く。
パチン、という小さな音が、静かな東屋に不釣り合いなほど大きく響いた。
私の襟元が緩み、夕暮れの冷たい空気が肌を撫でる。だが、それ以上に熱いのは、目の前のクラウディア様の視線だった。
「……綺麗ね。瀬良。貴女、もっと地味な体をしているかと思っていたけれど……」
クラウディア様の指が、私の鎖骨をなぞる。
彼女の指は、真白様のそれとは違い、震えていた。 知識がないゆえの恐怖と、未知の領域へ踏み出す昂揚。それが、彼女をよりいっそう魅力的に見せている。
「瀬良さん、もっと力抜いて……」
背後から、真白様が私の腰を引き寄せる。 「クラウディア様、そこはもっと……そう、甘噛みするように。……瀬良さんの声を聞いてあげてください」
「っ……、あ……」
クラウディア様の唇が、私の首筋に触れた。
それは、彼女が先ほど言っていた「魂が溶け出す接吻」よりも、ずっと暴力的で、ずっと切実な接触だった。
私は、全身の力が抜けていくのを感じた。
(ああ……。これだ。私が観測したかった、百合の深淵。……でも、なんで私がその当事者になってるの!?)
クラウディア様は、私の首筋に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。
「……瀬良の匂い。……癖になりそうだわ。真白、貴女が言っていたこと、少しだけ分かった気がする」
「でしょう? さあ、もっと続けましょう。……夜は、これからなんですから」
真白様の黒い微笑みが、私を捕らえて離さない。
私は、二人の間に挟まれながら、自分が「壁」から「供物」へと完全に堕ちたことを悟った。
◇◆◇
お茶会が終わった頃、外は完全に夜の帳が下りていた。
私は、乱れた髪と制服を必死に整えながら、東屋を後にした。
足元はふわふわと浮いているようで、自分の体が自分のものではないような感覚。
「瀬良さん。明日も、明後日も、忘れないでね」
去り際、真白様が私の耳元で囁いた言葉が、脳内で反響している。
「クラウディア様は、私が責任を持って『教育』しておくから。……貴女はただ、楽しみにしていて」
(ヒロインが、悪役令嬢を『教育』して、二人でモブを……? どんなゲームだよ、それ!)
私は寄宿舎への道を、半分走りながら帰った。
冷たい夜風が、火照った顔を少しだけ冷ましてくれる。
だが、胸の奥で燃え盛る情熱――いや、絶望に近い恍惚感は、消えるどころか増すばかりだった。
自分の部屋に戻り、バタンとドアを閉める。
私は暗闇の中で、そのまま床に座り込んだ。
腕を組み、いつもの「後方腕組み」のポーズをとってみる。
だが、もうあの頃のような、純粋な観測者の心境には戻れなかった。
「……解釈違い。……大、解釈違いよ」
私はそう呟きながら、自分の唇を指で抑えた。
私の脳内では、クラウディア様の無垢な羞恥と、真白様の歪んだ欲望が、複雑に絡み合い、一つの新しい「百合の形」を形成し始めていた。
それは、私が知っているどのルートにも存在しない、禁忌の物語。
私は、その物語の「主人公」になどなりたくなかった。
ただ、二人が愛し合う姿を、遠くから眺めていたかっただけなのに。
「……でも。……クラウディア様のあの顔、最高だったな」
結局、私はオタクだった。
推しの新しい表情を引き出してしまったという事実に、抗えない喜びを感じている自分がいた。
たとえ、その代償が、自分自身の心身を彼女たちに捧げることだとしても。
私は、机の上のノートを開いた。
そこには、私が書き留めてきた「攻略情報」や「イベントメモ」がびっしりと記されている。
私は、そのページを大きくバツ印で消すと、新しいページに、震える手でこう書き込んだ。
『第2章:知識の逆転。……観測者は、被写体へと堕天する』
窓の外では、月が冷たく光っている。
明日、私はまた彼女たちの元へ行かなければならない。
今度はどんな「教育」が待っているのか。
クラウディア様は、真白様からどんな「知識」を授けられ、私にぶつけてくるのか。
恐怖と期待が、私の心の中で激しくせめぎ合う。
私は、シーツに顔を埋め、声を押し殺して悶えた。
(……あああ、尊い!! 尊すぎて死ぬけど、死んだら明日が見られない!!)
私の物語は、まだ始まったばかり。
果てしない闇の向こう側に、どんな結末が待っているのか。
私は、「後方腕組み目隠れモブ」としての矜持を捨て、当事者としての快楽に溺れながら、その先を見届ける決意を固めた。
聖アングレカム学院の夜は、まだ明けない。
三人の少女たちの、歪で、甘美で、あまりにも重すぎる「愛」の調べが、夜の静寂の中に溶け込んでいった。
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