黒い男

 東京都町田市には、小田急小田原線とJR横浜線が乗り入れる町田という駅がある。市の名を関するだけあって非常に栄えた街で、秋葉原を「東のオタク聖地」とするなら町田は「西のオタク聖地」とする向きがある。

 小田急町田駅からJR町田駅の間には大きな屋根付きの通路があり、モディやマルイ、ルミネなどの商業施設の入り口も軒を連ねる。少しズレたところにツインズもあり、買い物には便利である。

 屋根付きの通路は雨を防げる安定した道ということもあり、通勤通学の時間には人の川が出来上がる。

 男が出るのはそんな通路からズレた場所。ルミネ町田目の前にある鉄製のオブジェの前である。

 これから「その男を確認した人物の手記」を掲載する。

「光の舞いの男」

 または、

「黒い男」

 あるいは、

「橋本さん」

 そう、呼ばれている。



 ルミネにもツインズにも、お目当てのネクタイがなかった。いや、厳密に言うと惜しい色合いのものはあった。これからすべきなのは、きっと「どちらがよりふさわしいか」の検討なのだろうと、そう思った。

 せっかく制服が自由な学校に入ったんだから、目一杯おしゃれがしたい。華の女子高生、たった三年間のこの瞬間、大切にしなきゃ嘘だ。遊ぶお金稼ぎのバイトだっていっぱいしたし。

 そういうわけで、私は白にネイビーのドットが入ったシャツに合わせる紫色のネクタイを探していた。

 小田急側にあるモディにもおしゃれなお店はあるけれど、やっぱルミネの商品は格が違うって言うか。ツインズはその次くらいにいい……そしてツインズにはLOFTがあるからそこで筆記用具や雑貨なんかを買うこともできる。楽しい学生生活におしゃれな小物は必須だ。

 ツインズとルミネの間には、何だかよく分からないクルクル回るオブジェがある。うーん、説明しづらい。曲線で作った、どこから見ても菱形に見える鉄の棒がクルクル回っている、というか。町田に来る色んな人が待ち合わせ場所にしているところ。

 もう一度、ルミネの方のネクタイを見よう。あっちの方がいい気がする。

 そう思ってツインズから出て、あの妙なオブジェの前を通った時だった。

「橋本さんですか?」

 唐突に、声をかけられた。黒い帽子を被り、灰色のジャケットを着た男性で、この冬にそんな薄手のもので大丈夫か? というような薄手の黒いコートを……。

 ……ん? 

 私はその男性の顔を見てびっくりした。化粧をしている。いや、それどころかどう考えても老婆という顔を、その人はしていたのである。

 思わず、たじろぐ。すると男性は……女性は? 告げた。

「見えるんですね?」

 まるで縋り付いてくるような調子だった。唐突に私の腕を取ると、ぎゅっと、鷲の爪のように握りしめ、私の腕を引きちぎらんばかりだった。

「見えるんですね? 私が私に見えるんですね?」

 そう、繰り返してくる。

 あ、ヤバい奴だ。

 そう思ったので、私は目線を逸らすと腕を引っ張って戒めから自由になった。しかし黒い服の男は……いや女は、こう続けてきた。

「もう遅い」

 まるで積年の恨みがあるような声だった。

「もう遅い……! もう遅いのよ!」

 と、黒い男は……いや女は、私の手を離すとブツブツ呟きながらその場を去った。私はと言えば、腕をむしらんばかりに掴まれたせいで腕がとにかく痛く、「何あれ」と思いつつもオブジェの前を離れた。

 そのまま、ルミネへ行く。

 やがてお目当ての店に辿り着くと、やっぱりこのネクタイがいいと、店員さんに話しかけようとした時だった。

「あら、橋本さん」

 店員さんが……名札がついているから間違いなく店員さんなのだが、その人が私に声をかけてきたのだ。橋本さん。間違いなくそう声をかけてきた。

「え、違いますけど」

 咄嗟にそう反応したのだが、店員さんは特に顔色を変えるわけでもなく、近くにあった服を畳み直し始めた。

「え?」

 私は呆気に取られた。

「は?」

 しかし店員は服を畳み終えるとそのままどこかへ行ってしまった。私は呆然とその場にいた。

 変なの。そう思ってネクタイを持ってレジへ行く。

「橋本さん」

 と、レジ店員も同じリアクションをしてきた。私は少し腹が立った。

「何ですかそれ」

 しかし店員さんはネクタイをレジに通して「八百円になります」と返してきた。意味が分からない。

「はい」

 とりあえず千円札を手渡す。店員さんは素早くレジを操作すると二百円のお釣りを返してきた。私は首を傾げながら店の出口へ向かった。

 橋本さん? 誰それ私と似てる人?

 にしても店員さんのくせに妙に馴れ馴れしかった。何だろう。他の店員さんと間違えられたのだろうか。それにしては私の行動は明らかにお客さんだったし、妙に思われそうだけど。

 そう思ってお店の中にある姿見の前を通った時だった。

「え?」

 びっくりした。

 私はこの日、制服の上にピンクのパーカーという格好で歩いていた。なのにどうだろう、姿見の中に映った私は。

 黒い服、黒い帽子。

 灰色のジャケットに、この季節そんなので大丈夫なのか? という薄手の黒いコート。

 さっき見かけた。

 さっき見かけた老婆の着ていた服装に、鏡の中の私は、なっていた。



「何これ?」

 声が出る。

「何これ?」

 咄嗟に思ったのが、一般人をターゲットにしたテレビのドッキリ企画だ。私は周囲を見渡しカメラを探した。が、それらしきものはない。

「え?」

 鏡に近づくと、鏡の中の黒い男もこちらに近づいてくる。私が顔に触れると、鏡の中の男も口元に触れる。

「は?」

 両手で頬をつまむ。しかし男もそれを真似する。

「いやいやいや」

 もういいから。はよ「ドッキリ成功」してよ。

 そう思ったのだが全然そんな気配はない。その間も、鏡の中の黒い男は私の動きを正確に真似し続ける。

「え?」

 その時からだ。私の受難が始まったのは。



 みんなが私を「橋本」だと呼ぶ。

 友達も、クラスメイトも、先生も、ご近所さんも、私を見るなり「橋本さん」と話しかけてくる。終いには……そう、終いには。

「あら、橋本さん」

 母の一言だ。

「いらっしゃるなら言ってくれればいいのに」

 あの日、家に帰るなり。

 玄関先で母はそう微笑んできた。まるで旧知の仲に声をかけるように。親しい人を迎えるように。

「二階のトイレの横に空き部屋があるから使ってくださいな」

「何言ってるのママ!」

 私は絶叫する。その部屋は私の部屋だ。

 しかし母は先程と同じように微笑むと、そのままキッチンの方へと行ってしまった。後に残された私は、とにかく勘違いを解こうと母を追いかけた。

「ねぇ! 何なの? 橋本さんって何?」

 しかし母は無反応だ。呑気に晩御飯の支度をして、回鍋肉が出来上がったのか、大皿に盛り付け始める。

「ねぇ!」

 怒声を飛ばす。しかし母は無視をする。無視をして、回鍋肉の乗った大皿を運び始める。

「ねぇ!」

 母の腕に縋る。母の手から大皿が落ちる。皿が割れて、回鍋肉が飛び散る。

 しかし……しかし。

 母は全く意に介さなかった。落ちた皿を黙って見つめ、そのまま無関心そうに皿の破片を拾うと、ゴミ箱に放り捨て始めた。それからさらに飛び散った回鍋肉を拾い集めて、流し台に放り込み始める。

 異様だった。何もかも異様だった。

「ねぇママ!」

 叫ぶ。しかし反応はない。母は回鍋肉を流しの、三角コーナーに捨て続ける。手に味噌が付いている。熱そうなのに……火傷しそうなはずなのに、全く、顔色一つ変えない。

「何よ!」

 そう叫んで、洗面所に駆け込む。悲しいことにこんな時でも日頃の習慣は変わらなくて、外から帰ったら手を洗う。洗おうとする。

 部屋の明かりをつける。そして、洗面台の鏡に映った私を見て絶叫した。

 黒い帽子。

 黒いコート。

 あの黒い男が鏡の中にいた。

 どういうわけか、ニヤッと嫌味に、微笑んだまま。



 私は橋本という男になってしまったみたいだった。

 それは周りのリアクションを見れば明白だった。みんなが私を「橋本」として扱う。それに疑義を挟むと無視を決める。何もないように、私なんていないように振る舞う。

 何これ……何これ! 

 何かの病気にかかったか? 精神病か? しかしこれが病気だとすると、周りの反応を見るに女子高生である私の方が空想の存在ということになる。

 え? そんなのって、え? 

 私はパニックになる。

 しかし……しかし。周りは私を間違いなく橋本として扱う。そして鏡に映る私は、常に。

 黒い帽子、灰色のジャケット、薄手の黒いコート。

 ずっとそのまま、そのままである。

 帽子を脱ごうとしても脱げない。コートも着たままだ。

 このことからおかしいのは鏡の中の方だと思われる。なのに、みんな鏡の中の私を正として扱う。何これ……何これ。

 気が狂いそうだった。周りの人間が、家族から友達から何から何まで、私を私として扱わない。見ず知らずの「橋本」として扱う。どうしたらいい? どうしたらこの状況は変わる? 

 私はただただ困惑して、家の近くの公園に逃げた。人と会わなければ私は橋本として扱われない。人目を避ければ平気でいられる。そう思っての逃避だった。しかし、神様はそうは問屋を卸してくれないようだった。

 公園の入り口に男性の姿が見えた。私はギョッとして、その場を去ろうとした。座っていたベンチから立ち上がり、顔を体を隠すようにして立ち去ろうとした、その時だった。

「ちょい待ち!」

 男が声を飛ばしてきた。私はびっくりして立ち止まった。

「お前、橋本って呼ばれてるだろ」

 その言葉はこれまでと変わらず、私を橋本と認識しているような調子だった。

 しかし、これまでと決定的に違うのは、私の困りごとを理解していることだった。私は振り返った。

「え……」

 情けない声が出る。

「え……え……」

 何と言っていいか分からない。しかし男は……多分、大学生くらいの若い男は、そっと近寄ってくるとこう告げた。

「お前運が良かったな」

 何て言ったらいいか分からない。

「お前の守護さんが俺を呼んだ。そうじゃなきゃ、お前丸ごと橋本になるところだったぞ」

 男は私の傍に寄ると「ハァ」とため息をついた。

「俺が一旦引き受けるから、お前俺にこう訊いてみ?」

 それから若い男の人が口にしたのはこんな言葉だった。

「橋本さんですか?」

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