0008 - 邂逅
坂の向こうに、海が見える。
朝の光が波を照らし、穏やかな潮騒が町の奥まで届いていた。
ハンスは、一度だけ振り返った。
陽に濡れた病院の屋根が、遠く霞んで見える。だが、歩みは止めなかった。潮風が黒いコートの裾を揺らし、胸ポケットの書類を僅かに震わせる。
坂を下りきると、商店街の大通りに出た。
人の雑踏、車の唸るようなエンジン音、パン屋の甘い匂い。早朝にしては、混んでいた。市場のざわめきに呑まれそうになる。静寂に慣れたハンスには、あまりに現実的な喧騒だった。
赤信号の前で、はたと立ち止まる。
陽光がアスファルトを白く照らし、海風が頬を撫でた。
そのとき、一台の黒いセダンが前方を横切った。
艶を帯びた車体が光を弾き、目を攫っていく。その反射の中で、ハンドルを握る銀髪の男と、一瞬だけ視線が交錯したような気がした。
信号が青に変わる。
足を一歩前に出そうとした、その刹那――通り過ぎた黒い車がタイヤを擦り切れるほどに鳴らし、勢い良くバックしてきた。鋭いブレーキ音が早朝の空気を裂き、通りに複数の短い悲鳴が走る。
ハンスは眉を顰め、上げていたままだった片足を下ろした。
視線を向けると、車の運転席が開かれる。
後ろに撫でつけた銀色の髪と、煤けた灰色の瞳。
右目を割るように伸びた切傷。背は、ハンスより数センチほど高く、細身にしては大柄だった。その男は、口端に咥えた煙草を噛みながら歩み寄り、そのままハンスの胸倉を掴み上げた。
「……テメェ、半年も路傍の犬みてぇに彷徨いやがって……」
低く、絞り出すような声だった。
怒りにも似た響きだが、その奥に形容しがたい色が混じっていた。それは、苛立ちや安堵、そして何かを確かめるような疑念にも見えた。
「誰だ、お前は」
ハンスは瞬き一つで、その手を払い落とした。
温度のない声に、胸倉を掴んでいた男の手が硬直し、宙に留まる。銀髪の男の表情が、僅かに強張ったのが見えた。
「……おい、ふざけてんのか」
「初対面の奴に、冗談を飛ばす趣味はない」
吐き出した言葉は乾いていた。
ハンスは興味を失ったように吐息を洩らすと、目の前に停車した黒い車を避けるようにして歩き出す。だが、その腕が再び掴まれた。
腕を掴む力に、思考より早く身体が動いた。
銀髪の男の肘を返し、手早く関節を極める。身体が沈んだ男の胸部を、陽光が滲んだ革靴で踏み抜く。半歩後退した男が、アスファルトに膝をついた。
周囲がざわめく。
一拍置いて、ハンスは我に返った。
喉から空気が漏れ、すぐに駆け寄る。
銀髪の男が胸を押さえて息を整えている。
ハンスはその前に立ち、手を差し出した。
「……悪い。身体が勝手に動いた。立てるか」
その声に、銀髪の男が僅かに肩を震わせる。
視線が、伸ばされた手をなぞるように動いた。それは警戒ではない。何かを確かめるような、痛みを帯びた動きだった。
その目がゆっくりと、首を傾げたハンスの顔に上がる。
そして、低く掠れた声が落ちた。
「テメェ……まさか、記憶がねぇのか?」
ハンスは眉を僅かに寄せた。
ゆっくりと膝を折り、目線を合わせる。
「……まあ、そんなところだ。これから行旅病人の手続きをしに、警察署へ向かうところでな……お前、まさか俺の知り合いか?」
その回答に、銀髪の男は短く息を呑んだ。
その微かな変化をハンスは捉えた。目の奥に、一瞬だけ何かが揺れていた。それは哀しみにも見えたが、確信は持てなかった。
だがその揺れも消え失せ、すぐに舌打ちが落ちた。
音が短く、冷たく空気を裂いた。
「オレはお前の同僚だ。さっさと乗れ」
ハンスはゆるく瞬きをし、無言でその背を見送った。
黒い車のエンジンが再び唸り、潮風の中に低い響きを放つ。
通りに喧騒が戻る。
後続車のクラクションが鳴り、ハンスはようやく動いた。
何の言葉もなく助手席へ乗り込む。
ドアを閉めると、海の音が遠のいた。
黒い車は滑るように発進する。
「同僚。先に警察署だ。この手続きを済ませる必要がある」
胸ポケットから取り出した書類をひらつかせる。
フロントガラスの先に見える海沿いの車道を捉えていた銀髪の男の目が、無言のままゆらりと這わされた。
「貸せ。それは、オレの方で処理しておく」
短く言い放つ声。ハンスの手から書類が奪われ、ダッシュボードに投げ込まれた。有無を言わさぬ物言いに、ハンスは眉を上げた。
「いや、だが……」
「スティン――もう黙れ」
その名を聞いた瞬間、ハンスの動きが止まった。
車内の空気が、ひときわ重くなる。
「それは……俺のことか」
問いかける声は、微かに掠れていた。
運転席の男は答えない。
ただ、視線を前に据えたまま、短く吐き捨てた。
「あぁ、そうだ。それ以外に、お前の名はねぇよ……オレの知る限りはな」
胸ポケットから取り出された煙草に火花が散る。
何処か懐かしさを覚えるその匂いに、ハンスは押し黙った。
車窓の外では、波が光を弾いている。
潮の匂いが消え、代わりに煙草の匂いが鼻腔をくすぐった。瞼に映る断片を掴もうとしたが、指先からすり抜けていった。
月光 幻翠仁 @gensui_gin
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