0007 - 約束

 早朝の海は、顔を出した太陽に照らされ、鈍く光っていた。

 波打ち際の白が微かに眩しい。病室の窓を開け放つと、潮の匂いが一気に流れ込んだ。慣れた匂いだった。


 ハンスは無言のまま、ベッド脇で腕立てを繰り返す。

 淡い陽光が引き締まった肩と背を撫でていく。皮膚の下を走る筋肉が、まるで鉄線のように動いていた。しなやかで、無駄がない。人間というよりは、長く眠っていた獣が再び目を覚ますような――そんな精悍な気配が漂っていた。


 整った呼吸音に、ノック音が混ざる。

 ゆっくりと病室の扉が開いた。

 そこから顔を覗かせた看護師は、一瞬言葉を失った。


 起き上がったハンスの整った体躯と、無数の傷跡。それでも破綻のない均衡を保つ姿。それを見た看護師の頬に、僅かに朱が差した。


「これ……運ばれてきたときに着ていた服です。塩気は取ったんですけど、生地が硬くなっちゃって。穴も……空いてますけど」


 看護師は視線を斜めに移しながら、紙袋を差し出した。

 中には、黒のスーツとロングコート、そして革靴が入っていた。だが、どうにも革靴に関しては、新品のように見えた。


「ああ、革靴は私からのプレゼントです。履かれていた革靴はひび割れていたので……あっ、他の患者さんには内緒ですからね」

「ああ。悪いな」


 ハンスは短く返事をし、袋を受け取った。

 その手の動きは自然で、妙な威圧感があった。

 看護師は少し躊躇いながら、もう一枚の紙切れを差し出した。


「……これ、私の番号です。定期的に連絡してください。本当は、会いに来てほしいんですけどね……」


 ハンスは紙片を見下ろした。整った字で書かれた番号。

 それをしばらく見つめ、僅かに眉を動かした。


「今生の別れでもないだろう……まあ、連絡は入れる」


 それだけを言って、ハンスはベッドの上に紙を置く。

 そしてスーツを取り出し、着替えようとズボンのボタンに手をかけた。

 だが、看護師は一向に廊下へ出ていく気配はない。


 ハンスは視線だけを上げる。

 看護師はまだ扉の前に立っていた。

 まるで、何かを名残惜しむように。


「……着替えたいのだが……」

「ハッ――すみません! 廊下で待ってますね」


 慌てて出ていく足音が遠ざかった。

 病室に、静けさが戻る。


 ハンスは吐息を漏らし、鏡の前に立った。

 胸に穴の空いた白いシャツを羽織り、ボタンを留める。ズボンを上げ、ベルトを締める。黒のネクタイを首元に締め、ジャケットを羽織った。最後にロングコートを纏う。黒の生地が肌に触れ、確かな重みを思い出させた。


 この風体に、身に覚えはない。

 だが、妙にしっくりきた。


 ベッドに置き去りにしていた紙切れを胸元に忍ばせ、革靴を持ちながら扉を開ける。すると廊下に立つ看護師が振り返った。


 目を見開き、硬直する。

 最初に顔を合わせたときのような反応だった。


「変、だろうか」

「……いいえ、とても似合ってますよ」


 我に返ったあと、看護師は目を細め、感慨に耽った様子で言葉を落とした。放たれた感想に、ハンスは薄く微笑む。


「なら、良いんだがな」

「そうですよ。誇ってください」


 看護師は僅かに頬を染めながら、前を向いた。

 二人で並んで歩く廊下。

 遠くの窓から射し込む光が、床を長く照らしていた。


 正面玄関を出ると、医者が待っていた。

 潮風が白衣の裾を揺らす。


「焦らんでいい。記憶は取り戻さなきゃならんわけでもないんだ。ただ、ゆっくりと――君の思うままに、生きなさい」


 医者の声は穏やかで、どこか寂しげだった。

 看護師が小さく頷きながら言葉を添える。


「そうです。記憶がなくても、死にませんから」


 ハンスは二人の顔を順に見た。

 胸の奥で、何かが静かに波打つ。


 医者が書類を手渡す。

 それは、行旅病人の手続きに関する書類だった。


「また来る……次は土産話でも持ってな」


 眩しい光を見据えるように、ハンスは薄く目を細めた。そして、受け取った書類をコートの胸ポケットに仕舞い込む。


 そのとき、不意に医者が一歩近づいた。

 腕が伸びる。そして、抱き締められた。


 戸惑い。だが拒絶はしなかった。

 医者の手は、驚くほど温かかった。


「達者でな」


 小さく落とされた言葉が、潮風に溶けた。


 看護師も一歩前に出た。

 彼女もまた、躊躇いがちにハンスの腕に触れる。


「――どうか、お元気で」


 ハンスはゆっくりと目を閉じ、そのまま抱き返した。


 海が光を弾く。

 黒いコートの裾が、風に揺れた。


 ハンスは振り返らず、坂道を下りていった。

 その背中に、潮騒が寄せては返していた。

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