0006 - 残光

 午後の光が傾き、病室の窓を淡く染めていた。

 シャツは乾いていたが、胸の奥に残る冷えだけは、まだ抜け切っていなかった。潮の匂いが僅かに漂い、カーテンの隙間を風が抜けていく。ベッドの上で病衣を着ながら、ハンスは窓の外に視線を向けていた。


 海は穏やかに波を打ち、遠くで鳥の囀りが聞こえる。


「もう少し様子を見る。退院は延期だ。それで良いな」


 静かな声が背後から落ちた。

 医者がカルテを閉じ、丸眼鏡の奥からこちらを覗き込んでいる。


「いや、俺はもう完治している……その必要はない」


 ハンスは横目で医者を捉え、静かに答えた。抑揚のない声音。だが、その奥には微かな苛立ちが滲んでいた。


「身体はな。そうやって無理をする患者は、早死するんだ」


 医者は淡々と告げながら、机に置かれた聴診器を手に取る。

 その手つきには、諭すような穏やかさと、長年の経験に裏打ちされた確信があった。


「それに、この町の空気は君に合ってる。焦らんでいい」


 ハンスの肩に手を置き、医者は穏やかな声を落とした。

 その言葉に、軽く息を吐く。

 窓の向こうで波が砕け、光が散った。


「……風が時折、遠くの音を運んでくる。眠れん」


 それは独白に近い呟きだった。

 医者は立ち止まり、少し考えるように髭を撫でた。


「潮の音は、人の記憶を揺らすものだ。観念するんだな」


 言葉の意味を測るように、ハンスは目を細める。

 胸の奥を微かに掠める痛みと、得体の知れないざわめき。遠くで風が窓を鳴らし、海鳥の声が短く響いた。


 ハンスは再び外を見た。

 病院前の坂道を、一台の黒いセダン車が通り過ぎる。夕陽を受けた車体が、血のように鈍く、光を反射した。その残光の向こうに、誰かの声が一瞬だけ過ぎる。だが、それが誰のものか思い出すことは出来なかった。


 静かに時間が過ぎていく。

 茜色の空は消え、夜の帳が降りていた。


 病院の廊下は静まり返り、遠くのナースステーションから僅かに紙をめくる音がする。灯りを落とした病室の中、ハンスはベッドの上で半身を起こし、変わらず開け放たれた窓の外を見つめていた。


 外では、波が満ち引きを繰り返している。

 昼間よりも静かな潮騒。

 その中に、断片のような残響が混じる。


 銃声。誰かの叫び。

 それらが幻のように胸の奥を掠め、すぐに闇へ溶けた。


「眠れんのか」


 不意に、扉の向こうから声がした。

 振り向くと、白衣の裾を揺らした医者が立っていた。手には古びたマグカップ。蒸気が夜の空気に溶けていく。


「遅いな。医者も夜勤か」

「あぁ。眠らん患者のせいでな」


 医者は小さく笑い、ベッド脇の椅子に腰を下ろした。その笑いには疲れが滲んでいたが、どこか安心させる柔らかさがあった。


「懐中時計か……やけに古いな」


 ハンスの視線が医者の手元に落ちる。胸ポケットから取り出した懐中時計を、医者は僅かに伏せた目で見つめていた。


「昔の患者の形見だ。彼も君と同じように、記憶を失っていた」


 ハンスは眉を動かした。

 それは興味ではなく、僅かな警戒の色だった。


「……どうなった」

「誰かを助けて死んだよ。止まった針が、それを告げている」


 医者の声は穏やかだった。しかしその穏やかさは、長年の経験から生まれる静かな悲哀でもあった。


「忘れても、そういう衝動は残るらしい」


 ハンスはゆっくりと視線を落とす。

 机の上で月光が反射し、手の甲に淡い白を落とした。


「衝動……か」


 その言葉を反芻するように呟く。それが何を指すのか、自分のどこにそれがあるのか――掴みかけては霧散する。


「昔の君も、おそらく誰かを助けたんだろう。今の君が、溺れた子供を助けたように……その衝動が、君の中に残っていたんじゃないか?」


 医者は立ち上がり、マグを軽く傾けて口を湿らせる。

 その瞳には、どこか父親のような優しさが宿っていた。


「さあ……どうだろうな」


 ハンスは僅かに口角を上げた。

 それは笑みというより、答えを避けるための仕草だった。


 夜が更けていた。

 医者が去ったあとも、ハンスはしばらく窓の外を見つめていた。波の音は緩やかに続き、月光が海面を銀に染めている。


 ふと、扉の向こうで足音が止まった。

 控えめなノックとともに、顔を覗かせたのは看護師だった。


「眠れないんですか?」


 柔らかな声が、夜気をほぐすように届く。

 ハンスは目線を窓の外に向けたまま、低く返した。


「……ああ。夜がやけに長い」


 看護師は小さく笑みを浮かべ、ベッド脇まで歩み寄る。

 そのまま窓辺に立ち、外を見やった。


「そんな夜もありますよ。でも、ほら」


 カーテンを少し開けると、冷たい光が室内に差し込んだ。

 雲の切れ間から覗く月が、静かに海を照らしていた。


「月が出てます。あなたの隣に寄り添う光です」


 ハンスはゆるく瞬きをした。

 その光はどこか懐かしく、胸の奥に微かな痛みを残す。


「届かないと思っても……光は来るものだな」

「ええ。諦めの悪い光ですから」


 看護師の声には、優しい笑みが滲んでいた。

 風が吹き抜け、カーテンが揺れる。

 月明かりがハンスの頬を照らし、白が僅かに光った。


「……寄り添う光、か」

「そう。月光は、闇の中で一番遠くまで届くんですよ」


 看護師はそう言って、穏やかに微笑む。

 その横顔には、疲労の中に滲む誠実な温度があった。


「良い言葉だ。お前から出てくる言葉にしては、だが」

「台無しです。――夜勤、戻りますね」


 看護師は苦笑を残して踵を返す。

 扉の方へ向かう足音が、静寂に溶けていった。


 ハンスはその背を目で追い、微かに笑った。

 目を閉じると、月光の残滓が瞼の裏に広がる。


 海の上で、波が月を揺らしていた。

 闇の中でも確かに寄り添う光が、彼の中に静かに灯っていた。

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