0005 - 視線

 砂浜に、足がついた。

 誰かに引き上げられたわけではない。波に背を向け、子供を抱えたまま、ハンスは自分の足で岸へ戻っていた。水が長ズボンの裾から離れ、砂に沈む。


「ここだ、ここ!」


 声が近い。何本もの腕が伸びてきて、子供の身体に触れる。肩、背中、腕。小さな身体が、次々と人の手に受け渡されていく。


 ハンスは、そこで初めて腕を緩めた。

 子供が離れた瞬間、胸の奥にあった重みが抜け落ちる。

 同時に、力も抜けた。足元がふらつき、砂に片膝をつく。


 子供の泣き声が上がった。

 噎せ返るような咳と、震えた呼吸。その音を聞いた瞬間、周囲の空気が一気に緩む。安堵の声が重なり合い、波の音を掻き消した。だがそれらはすべて、ハンスの背後で起きている出来事のように感じられた。


 少しして、ハンスは自分の身体が冷えていることに気付いた。

 海水が乾きかけ、焦げ色の肌の上で塩がざらついている。胸元に風が直接当たり、治りかけの傷跡が妙にひりついた。そのときになって、周囲の視線が、子供から自分へと移っているのを、遅れて理解する。


 ――上裸だった。

 胸に残る銃痕。古い火傷の跡。腹や腕、肩口に縫い痕が歪に走り、濡れた肌の上で、やけに生々しく浮き上がっている。誰もが息を呑んでいた。風に乗せられたさざめきが、一段低いざわめきへと変わっていく。


 ハンスは、何も言わなかった。

 弁解もしない。ただ、ゆっくりと視線を移した。


 砂浜に、白いものが見えた。

 少し離れた場所に、脱ぎ捨てたままのワイシャツが落ちている。それは誰かに踏まれ、濡れ、砂にまみれていた。


 ハンスは足を引き摺るように向かい、屈んでそれを掴み上げた。

 砂を払うことはしない。濡れたまま、身体に引き寄せ、乱暴に羽織る。ボタンも留めない。布越しでも、視線が完全に消えたわけではないのが分かった。


 一度だけ、振り返る。円になった人だかり。子供を囲む安堵と、その外縁にある警戒。感謝よりも先に向けられた、測るような目。触れてはいけないものを見るような、冷えた視線だった。


 ハンスは、すぐに背を向けた。

 それ以上、見る必要はなかった。


 額に張り付いた髪が、視界を遮っていた。

 それを片手で搔き上げる。指の間から海水が滴り落ち、砂の上に暗い斑を作った。動くたび、濡れたシャツの裾から水が零れ、足元へと伝っていく。


 ふと、海小屋の脇にある階段が目に入った。

 この浜へ降りてきたときに使った、木製の階段。人の流れから少し外れた位置にあり、今は誰も腰を下ろしていない。


 ハンスはそこへ向かった。

 歩くたび、シャツから水が落ちる。

 階段の縁に雫が弾き、乾ききった木の上で小さな音を立てた。


 一段目に、ゆっくりと腰を下ろす。

 力を抜いた途端、全身の重さが一気に戻ってきた。濡れたズボンが肌に張り付き、太腿から膝へと冷えが這い上がってくる。肘に残った水が、指先まで伝いぽたぽたと砂に落ちた。影は薄く、空は少し翳っていた。


 少しして、ハンスは顔を上げた。

 視線の先には、変わらず海が広がっている。先ほどまで命を呑み込もうとしていた筈の水面は、何事もなかったかのように穏やかだった。


 人が横切っていく。

 視線が、意識せずともこちらに向く。その目は、顔ではなく、胸元へと落ちていた。羽織ったシャツの隙間から覗く傷跡へ。濡れた布越しに、隠し切れない銃痕や火傷の痕が、断片的に見えてしまう。


 好奇心。警戒。怯え。

 それらが混ざった視線を、ハンスはただ眺めていた。

 何も感じないわけではない。ただ、反応の仕方が分からなかった。


 海を見据える。

 波が寄せては返す。さざ波が耳を撫でる、その規則正しさだけが、今の世界を現実に繋ぎ止めていた。


「――ハンス、さん」

 聞き慣れた声が、横合いから聞こえた。


「飲み物、買ってきました」


 看護師は、紙カップを差し出した。

 冷えたそれが、指先に触れる。ハンスは一瞬だけ躊躇い、受け取った。指に残る水滴が、紙の縁を濡らす。


 彼女は何も言わず、そのまま隣に腰を下ろした。

 木の階段が、微かに軋む音を立てる。


 ハンスは、横顔を一瞬だけ見た。

 雲の合間から差し込んだ陽光が、その頬を照らしている。彼女は、額に張り付いた髪を、ぎこちなく指先で払った。


 短い沈黙が落ちる。

 二人の間に、言葉はなかった。必要もなかった。


 風が吹き、看護師のワンピースの裾を揺らした。

 海風に混じって、柔らかな洗剤の匂いが流れてくる。

 波の音だけが、二人の間を満たしていた。


「さっき、海で。溺れていた子、無事だそうです」


 看護師は、海を見たまま言った。

 声は低く、淡々としていた。事実を置いただけの調子だった。


「……海、冷たかったでしょう」


 ハンスは、紙カップを両手で包み込んだ。

 生ぬるい温度が、掌にじんわりと広がる。


「ああ……」

 一拍、息を整える。


「……こんなに、冷たいとは……思わなかったな」


 言葉は、それ以上続かなかった。

 だが、胸の奥で何かが、静かにほどけていった。

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