0004 - 衝動
ハンスは、潮風をひとつ吸い込んだ。
肺の奥で潮の匂いが弾け、喉の渇きを覚える。日を浴び過ぎた。足を進め、パラソルとパラソルの合間を縫っていく。袖で汗を拭い、海から離れるたび、喧騒が少しずつ遠のいていった。ふらつく足取りで、日陰を探す。
そのとき、背後から叫ぶ声が聞こえた。
子供の声だった。砂浜では珍しくもない筈の高い声――だが、それは遊びの延長で上がるものではない。喉を引き裂くように、必死に空気を掴む音が混じっていた。声の端が震え、途中で掠れ、波音に呑まれそうになりながらも、なお必死に続いていた。
ハンスは反射的に振り返った。
思考が追い付く前に、視線が声のした方角へと滑る。
パラソルの隙間越しに見えたのは、海沿いに集まる人影だった。
ざわめき。誰かが名前を呼ぶ声。波打ち際で、不自然に空いた円。その中心で海面が妙に荒れている。
「――っ、助けて! 誰か!」
再び声が上がった。
今度は、はっきりと聞き取れた。
胸の奥で、何かが弾けた。
白い光が視界を走り、鼓膜の裏で、遠い銃声の残響が重なった。
それは記憶でも、映像でもない。
ただ、身体がその音を“知っている”感覚だけが、確かにあった。
気づいたときには、ハンスは走り出していた。
ビーサンが脱げ、足裏に焼けた砂の熱が突き刺さる。
だが、痛みは意識に届かなかった。視界が狭まり、音が遠のいていく。そこに残ったのは、波と、叫びと、ひとつの衝動だけだった。
――行け。助けろ。
誰の声でもない命令が、胸の奥で鳴った。
立ち止まるという選択肢は、既になかった。
ハンスは走りながら、胸元のボタンを引き千切るように外した。
白いワイシャツが肌に張り付き、邪魔になる。頭から一気に引き剥がし、砂の上に放り投げた。足を止める暇もなく、人の輪へ突っ込む。
「危ない!」
「ちょっと――!」
誰かの声が上がった。だが、耳には届かない。
伸びてきた腕を肩で弾き、道を塞ぐ身体を無理矢理押し退けた。怒号と悲鳴が背後で絡み合う。視線の先には、荒れる海面だけがあった。
躊躇はなかった。
砂を蹴り、勢いのまま波打ち際へ踏み込む。足首を攫う水の冷たさが、一瞬だけ現実を引き戻す。だが、それも刹那だった。
次の瞬間、ハンスは海に飛び込んだ。
白い飛沫が視界を塞ぎ、身体が海水に呑まれる。耳鳴りのような水音が鼓膜を叩き、重力の向きが分からなくなる。塩辛い水が口に入り、喉を焼いた。
それでも、腕は止まらなかった。
水を掻き、前へ、前へと身体を押し出す。
水中は、異様なほど静かだった。
波音も叫び声も、すべてが厚い膜の向こうに押しやられる。代わりに、耳の奥で自分の鼓動だけが鈍く響いていた。視界は白濁し、砂が舞い上がる。その中で、泡の列が不規則に浮かび上がっているのが見えた。
下だ。思考ではなく、身体がそう判断した。
ハンスは一度だけ息を整え、深く潜る。水圧が耳を締め付け、胸が重くなる。視線を落とすと、波の影の下で、小さな影が藻掻いていた。
その影は、子供だった。手足をばたつかせ、必死に水を掻いている。だが動きは空を切り、身体は沈みかけている。顔は水面を探すように仰け反り、口が開いたまま、泡だけが零れていた。
正面には回らなかった。
ハンスは半身をずらし、背後から近づく。暴れる腕の可動域を避け、片腕を脇の下に差し入れ、もう一方の手で胸元を確保する。力は込めない。逃げ場を塞ぐだけで十分だった。
触れた瞬間、子供の身体がびくりと跳ねた。
細く、軽い。骨ばった感触と、必死にしがみつこうとする力。
そのすべてが、水の中では鈍く、遠い。
ハンスは子どもの顎を軽く引き上げ、顔を水面の方へ向ける。
腕は外さない。抱え込むのではなく、支える。
身体を横にし、波に逆らわない角度を取った。
無音の世界で、二人分の泡が上へと昇っていく。
肺が限界を告げていた。だが、焦りはなかった。
水を蹴り、一定のリズムで浮上する。
子供の身体が次第に抵抗を失い、力が抜けていく。
その重みの変化を、ハンスははっきりと感じ取っていた。
水面が近付き、光が、割れた。
その瞬間、音が一気に押し寄せた。
波が砕ける音。誰かの悲鳴。重なり合う足音と、呼吸の乱れ。
さっきまで存在しなかったはずの世界が、無遠慮に鼓膜へ流れ込んでくる。空気を吸い込んだ肺が軋み、喉の奥で咳が弾けた。
腕の中で、子供が激しく咳き込んだ。
水を吐き、身体を強張らせ、息を求めるように震えている。小さな背中が上下し、そのたびに短い咳が続いた。
「大丈夫だ」
気づけば、声が出ていた。
強くも、優しくもない。ただ、落ち着いた低い声だった。
「もう掴んでいる。息をしろ」
子供の身体を胸に寄せ、顎を支えたまま、波に身を任せる。
背後から伸びてくる手。誰かが叫ぶ声。
「いたぞ!」
「子どもだ!」
「早く! こっちに!」
砂浜からの喧騒が、波を越えて押し寄せる。
だが、それらはひどく遠かった。
ハンスの意識は、腕の中の重みと、子供の呼吸の数だけに集中していた。
一つ、二つ。浅く、乱れた息が、少しずつ整っていくのを確かめる。
周囲の声は、膜越しに聞こえるようだった。
拍手も、安堵の叫びも、現実味を持たない。
ただ、子供の指が、服を掴んだ。
その微かな力だけが、確かにここにあった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます