0003 - 純情
夏が空を覆っていた。
朝の光は既に白く、海の向こうで、揺らめく陽炎が波と混ざり合う。湿った風が、遠くから潮の匂いを運んできた。耳に響く、蝉の声。世界の輪郭が、茹だるような熱で僅かに歪んで見えた。
看護師が、病院の前で待っていた。
白いワンピースが陽を弾き、裾が風に靡く。茶を帯びた髪が肩に落ち、光の粒をいくつも掬っていた。細い指先が鞄の取手を静かに握る。ハンスを映した目元がふっと緩んだ。その笑みを見た瞬間――ハンスは花が咲いたような笑みという比喩の意味を、初めて理解した。
「おはようございます。今日も、暑くなりそうですね」
声は柔らかく、風の中に溶けていった。ハンスはふと、長く目を留めていたことに気付き、視線を逸らした。医者から借りた白いシャツの裾を、静かに整える。黒の長ズボンは汗で張り付いていた。季節外れの装いだったが、身体中に蔓延る傷を、人目に晒すわけにはいかなかった。
「……その服装、今日は非番なのか」
「ええ。最近仕事ばかりで、海に行けてなかったんです。どうせ行くなら、目一杯楽しめるように休暇を取ってしまえと……思いまして」
看護師は頬を掻き、照れたように笑った。
その仕草に、光の粒が跳ねる。
「休暇に俺の付き添いとは。仕事熱心だな……お前は」
皮肉交じりに返したつもりで、口元は僅かに緩んでいた。
伝染したように看護師がまた笑うと、ワンピースの裾を揺らして歩き出した。その輪郭は何処か軽やかで、酷く眩しかった。
看護師が白い車に乗り込む。
それに続き、ハンスも助手席に身を滑らせた。ドアが閉まる音が、世界の空気を切り裂いた。瞬間、蝉の音が遠のき、外の光がぼやけて見えた。密閉された空間に、潮の残り香とエンジンの熱が重く漂っていた。
看護師がシートベルトを締め、深く息を吸い込む。
指先が、ハンドルを強く握っていた。
発進前の、一瞬の静寂。
窓の外の光景を見つめながら、呼吸の速さを整えるように息を吐いた。
「行きましょうか。海水浴場に」
「……ああ」
看護師の声は、何処か弾んでいた。
鍵を回すと、低い唸りが胸の奥に響く。車体が震え、窓の外の景色がゆっくりと流れ出した。陽炎のかかる道の上を滑るように進んでいく。
二人の間に、会話はない。
話さねばならない理由も、沈黙を破る話題もなかった。
ただ、タイヤが砂を踏み締める音と、蝉の声が遠ざかっていく音だけが時間の代わりにそこにあった。
ハンスは助手席の窓に腕をかけ、流れていく景色を見つめた。
空の色を映した海が近付くにつれ、陽の匂いが強くなった。波の白が、視界の隅で煌めくたび、胸の奥で何かが微かに疼く。それが記憶なのか、単なる錯覚なのか――ハンスには、分からなかった。
看護師は前を見たまま、ハンドルを握る手に力を込めた。
信号で止まるたび、指先が白くなる。何かを言いかけては、唇を結ぶ。そのたびに彼女の横顔が陽に照らされ、柔らかく輪郭を覆った。
「――先生、いつもあなたの話をするんですよ。彼は、思っていたよりも静かだなって」
看護師がアクセルを踏んだとき、その口は開いた。
視線を向けると、苦笑した横顔が視界に映り込む。
「……思っていたよりも、か」
「ええ。古傷の多さと、目の鋭さも相まって、最初はどう対応すべきか、分からなかったんですよね」
笑いながら言うその横顔には、怯えの名残がなかった。風に揺れた髪が頬に触れ、指先で整えながら、彼女は少しだけ息を吐く。
「でも、話してみたら、あなたが穏やかで、誠実な人だと分かったので。何というか――あなたに興味を持ったんでしょうね。先生も、私も」
ハンスは窓枠に頬杖をついたまま、外に視線を流した。
海が近付くにつれ、潮の匂いが強まる。その香りの奥に、何処か懐かしい鉄の匂いが微かに混ざっていた。
「それは、俺の過去にか」
「まあ、それもありますけど。でも多分、私たちは今のあなたに興味があるんだと思いますよ。話してるのは、今のあなたですから」
短い沈黙が降りた。
目を瞬かせたハンスが、やがて口元を押さえ、堪えるように息を漏らした。それは笑い声にしては静かだったが、確かな温度があった。
「そうか。なら、両想いだな。俺もお前らには、興味がある……なんの見返りも求めず……温かく接してくれるお前らに、な」
薄く目を細め、看護師を見た。
その横顔が、僅かに朱に染まる。窓から吹き抜ける潮風が、彼女の茶髪をさらっていった。返答は、微笑みだった。
車が、海水浴場の駐車場に滑り込む。
陽は真上にあり、空と海の境界が白く霞んでいた。熱気を孕んだ風が、遠くで打ち寄せた波を千切りながら吹き抜けていく。
「着きました! ああ、混んでますね……」
看護師が窓の外を見て、額の汗を拭った。
笑いながら言ったその声が、夏の光に溶けて消えていく。
ハンスは助手席のドアを開け、潮風を吸い込んだ。塩気が肺を刺し、咳のように短い息が零れる。砂浜を見下ろすと、色とりどりのパラソルが、多く目に映った。家族連れや学生が、光の中で漂っていた。
叫び声と笑い声。飛沫の音。砂浜が反射する光。
すべてが遠く、別の世界の出来事のように感じられた。
「これ、どうぞ。外国の方って、光に敏感なんでしたよね」
差し出された手には、サングラスが握られていた。
それを無意識に受け取り、ゆっくりと取り付ける。眩しい光から解放され、少しだけ呼吸がしやすくなった。
「じゃあ、降りましょうか」
看護師が微笑み、先に歩き出した。
白いワンピースが、海風を受けてふわりと揺れる。ハンスも少し遅れてその背中を追った。砂に足を踏み入れると、じり、と熱が靴底を焦がした。
海の家を通り過ぎ、乱立したパラソルを抜け、波打ち際まで歩く。歩幅は気遣ってか、酷く狭い。時折、浮き輪をつけた子供が、ハンスの横を通り過ぎていった。楽しげな声に、ハンスの表情も緩む。
波打ち際に着くと、看護師はサンダルを脱ぎ、裸足で水に触れた。
足首を撫でる波の冷たさに、息を弾ませる。手をひらつかせて呼び込む彼女の仕草。その姿を、ハンスは何も言わず見つめていた。
風が頬を撫で、海の匂いが髪を撫でた。
己の長い黒髪が揺れ、視界の隅にひらりと映り込む。
「……穏やかな海だな」
「知ってますか? 海は、見る人の心を映すんですよ」
振り返った看護師の言葉に、ハンスは目を瞬かせた。
思案に喉を鳴らし、顎に手を添える。海は、見る人の心を映す。
「なら――俺の心は今、穏やかなのか」
「そういうことです。私も、同じ気持ちですよ」
看護師が波間に目を細めた。
白いワンピースの裾が濡れ、透明な水が陽をゆらりと反射する。
ハンスは視線を落とした。
白い光に照らされた砂の上で、ハンスの影が歪に揺れ動く。
そのとき――遠くで、子供の声がした。叫び声。波を蹴って走る足音。海風の中に紛れ込むそれは、まるで銃声の残響のようだった。
ハンスの肩が、僅かに跳ねた。光が弾け、さざ波が砕ける。
鼓膜の裏で、誰かの叫びが弾ける。脳裏を、白い閃光が走り抜けた。指先が勝手に動いた。右手が宙を漂い、何かを掴むように硬直する。
掴もうとした“誰か”の感触だけが、掌の奥に残っていた。
しかし、その名も、顔も、何も思い出せなかった。
ハンスは、呆然と右手を見つめた。
海風が髪を揺らし、潮の匂いが肺の奥を満たしていく。
「大丈夫ですか?」
気づけば、看護師が心配そうに覗き込んでいた。
眉の下がった顔に、はたと我に返る。反射的に視線を逸らし、頬に伝った冷や汗を拭った。浅い呼吸を整えるように息を吐く。
「ああ……問題ない」
「問題大アリですよ、その顔! 飲み物買ってきますから、何処か日陰のところで、座って、休んでいてください!」
看護師の背が遠のいていく。
波音の合間に、確かに誰かの声が混じっていた気がした。
だが、それはもう、届かないほど遠かった。
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