0002 - 定義
潮風が和らぎ、蝉の声が遠くで響いていた。
海辺の町は、変わらず鈍い光に包まれている。初夏に差し掛かった時期とは言え、海が近いせいか、空気は澄んでいて涼しげだった。
ハンスが目を覚ましてから、既に数週間が過ぎていた。
胸に巻かれた包帯は、未だ取れることはない。だが、時間が経てば痛みからは解放される。刺すような鈍痛も、今はない。
記憶は、一向に戻る気配がなかった。
頭の奥に漂う靄だけは晴れない。何かを思い出そうとしても、霧を掴んだように、指先からふわりと溶けて消えていく。手を伸ばしたところで、何も掴めない。ただ、何かに手を伸ばす感覚だけが残っていた。
「君は……まるで、戦場で生き残った兵士のようだな」
包帯を取り払った医者が、ハンスの身体を見てそう苦笑した。
ハンスは視線を落とし、己の身体を眺める。複数の銃痕、鋭利な刃物で切り裂かれた裂傷、火傷の痕。傷のないところを探す方が苦労する。
医者の比喩は、言い得て妙だとハンスは思った。
視線を僅かに上げ、医者を見つめる。丸眼鏡の奥に潜むその目に、怯えはない。むしろ、窓の外にある海のように、穏やかな目だった。
「……俺の身体を見て、恐怖を感じないのだな」
「怖がる理由があるのか?」
医者は小さく笑い、肩を竦めた。
その一言に、ハンスの眉が僅かに上がる。
新しい包帯を取り出し、医者はハンスの両脇から手を差し入れた。包帯を巻いていく医者の手つきは、割れ物を扱うように、酷く優しげだった。
「……この仕事をしていると、誰の身体にも歴史があることが分かる。戦場でついた傷も、台所で火傷した跡も、何一つとして異常じゃない。君の身体も同じだ。ただ、生き延びたという歴史が刻まれているだけに過ぎん」
ハンスは黙ったまま、その言葉を聞いていた。
「人が何かを恐れるのは、その何かについて、よく知らないからだ。だがね、私は君の血を見た。肺の音も聞いた。君と対話もしている……それだけで、君という人間に、恐怖を抱かない理由になる。違うか?」
言葉は穏やかで、乾いた室内に吸い込まれていった。
包帯が引き結ばれる。医者はカルテを取り出すと、耳に乗せていたペンを取り出して、何かを書き込んでいく。
「だからと言って、私は君を特別扱いするつもりもない。怪我をしたひとりの人間として見ているに過ぎん――だが、それで充分だろう?」
ハンスは、しばし沈黙した。
そして、ほんの僅かに、唇の端が動いた。
それが笑みなのかどうか、己でも分からなかった。
僅かな変化に医者は微笑んだ。
滑らせていたペンを止め、カルテを閉じる。
「経過は悪くない。肺の穴は塞がっているし、脳震盪の影響も軽い。右の肋骨が一本折れていたが、骨も繋がり始めている」
医者がベッド脇のスツールに腰掛けた。
その声は淡々としていたが、驚きの色が混ざっていた。
「……まったく、奇跡としか言えん。よく、生きてくれた」
ハンスの肩を叩いた医者の顔に、また笑みが溢れる。
人の確かな温もり。それに触れたハンスは、気まずさから視線を逸らした。静かな部屋の中に、波の音が淡く響いていた。
「――警察には、既に連絡してある。漂着時の状況と、銃弾の摘出報告も提出した。君の意識が戻ってから容体を見ていたが――もう問題はないだろう」
そう言って医者は壁の時計に目をやった。
針は午後の三時を少し過ぎている。
間もなく、扉を軽く叩く音が響いた。扉が静かに開け放たれる。
看護師とともに入室してきたのは、縒れた灰色のスーツを身に纏った男――大股で病室の中央まで歩み寄る姿は、何処か煩雑だった。胸ポケットから取り出した警察手帳を掲げ、無精髭を生やした口元が動く。
「静岡県警、強行犯係の岩田です。事情を聴きに来ました」
医者は立ち上がると、小さく頷いた。
刑事を椅子に座るよう手で促す。
「患者はまだ長く話せん。手短に頼みます」
「ええ。理解しています」
刑事は椅子を引き、ベッド脇に腰を下ろした。鞄から取り出した茶封筒。逆さにし、出てきたのは数枚の写真だった。現場の状況を写したと思われる実況見分写真――それらが、ゆっくりとベッドの上に並べられていく。
「――これが、貴方が倒れていた現場の写真です」
黒く濁った海。血で染まった浜辺。漂着した弾丸。乱れた足跡。
そのどれもが、状況の凄惨さを物語っていた。
「記憶喪失だと伺っています。これを見て、何か思い出すことは?」
「……なにも。よく生き延びたものだな……俺は」
その返答に、刑事の目が鋭くなる。
僅かに前屈みになった姿は、逃さないとでも言いたげだった。
「血、見慣れてますね。普通なら、目を逸らしたくなる」
「死体の一つでもあれば、目を逸らすかもしれん」
医者が短く息を吐き、視線を窓の外に流した。
刑事の表情に苛立ちが滲んでいく。空気が重い。
「自分の身体、見られたんですよね?」
「ああ。傷のないところを探す方が苦労する。そんな身体だ」
「普通の生活をしていれば、そんな傷はできない」
その言葉に、ハンスは思案するように喉を鳴らした。
視線を落とし、包帯に覆われた胸元を見る。刑事が指差した先には、既に塞がっている古い銃痕があった。触るが、記憶に掛かるものはない。
「――訊くが、お前の“普通”とは、どの程度の範囲を指すんだ?」
医者と看護師が息を呑む音が響いた。
刑事は苛立った様子で、眉に皺を寄せている。
「質問しているのはこっちだ」
「答えられんのか。何処までが普通で、何処からが異常なのか――」
刑事がベッド脇のテーブルを強く叩く。
勢い良く立ち上がった姿に、ハンスは動じなかった。
「ふざけてんのか?」
「いいや。俺は、お前の理屈を確かめているだけだ」
刑事の手が動いた刹那、医者が間に入った。
白衣の裾がゆらりと視界に揺れ動く。
「やめなさい、二人とも」
その声には静かな圧があった。
刑事は長く息を吐き、手を引っ込める。だが、その手は強く握り込まれたまま緩まなかった。
「……失礼。つい、熱くなりました」
「ここは病室だ。議論をする場ではない」
医者は淡々と告げ、ハンスにも僅かに非難の目を向けた。
ハンスは小さく鼻を鳴らし、視線を逸らす。だが、表情筋は動かなかった。刑事はその様子を見て、諦めたように肩を落とした。
「――事件性はあるでしょう。ですが、本人が記憶喪失だと言うのなら、我々に出来ることは少ない。素直に、法に則りましょう」
その声は掠れていた。
刑事は口元に拳を添え、ひとつ咳払いをする。
「手続きを進めてください。身元が分からない以上、正式に保護する必要がある。それが、生き残った者を社会に留めるための“理”ですので」
広げていた写真を、刑事は淡々と集め始める。それを手伝う気もなく、ハンスはそれを眺めた。短い沈黙の間に、すべての写真が茶封筒に収まる。黒い鞄を持って背を向けた刑事が、僅かに首を傾け、ハンスを見据えた。
「一つ、忠告しておく。記憶を失った人間が恐れるのは、過去じゃない。今の自分を、他人の目で測られることだ。――気を付けるんだな」
捨て台詞のような言葉を吐かれ、ハンスは目を瞬いた。
扉から消えていった背中。それが妙に焼き付いて離れなかった。
医者は静かにハンスに近寄ると、肩を竦めて苦笑した。
看護師も、曖昧な笑みを浮かべている。
「……やれやれ。彼の言いたいことは分かったかね?」
首を傾げた医者に、ハンスは僅かに目を伏せた。
「記憶を思い出すことではなく、思い出せないまま、自分が他人の言葉で定義されることに、人は恐れを抱くもの。だが社会は、そういう風にしか見てくれない――という、彼なりの警告だろうな」
最後まで言い終えて、ハンスは口元を緩めた。
それは笑みとは言えなかった。
だが、その微細な変化を、医者も看護師も感じ取っていた。
ふと、ハンスは窓の外を見る。
さざ波が夕焼けに照らされ、静かに海風を押し返していた。
「外出は……出来るものなのか」
それは己の意に反して零れ落ちた言葉だった。
医者を見ると、彼は顎に手を添えて、思案に耽っていた。大袈裟に唸る仕草には、どうしようもなく、温かさがあった。
「もう少し回復したら、外出許可を出そう。例えば、熱海の方まで出て、海を見に行くのはどうかね?」
「熱海、良いですね! 丁度、海開きの季節ですし」
看護師が穏やかな笑みを浮かべる。
それにつられて、ハンスも口元を緩めた。
夕暮れの光が、静かにハンスの頬を照らしていた。
その温もりが、一瞬だけ、世界を赦したように思えた。
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