月光
幻翠仁
第一幕
0001 - 喪失
夜が裂けた。銃声と共に、誰かの身体が崩れ落ちる。
海鳴りが近い。断崖の縁で、銀の髪が風に散った。
落ちていく影に、反射的に手を伸ばす。
その手を掴んだ瞬間、世界が白く弾けた。
光の中で――誰かの名を呼んだ気がした。
***
潮の匂いがした。
低く鳴る機械音と、海風に揺れるカーテンの布擦れだけが、室内に満ちていた。瞼を突き抜ける眩しさに、身じろぎする。
男は、ゆっくりと瞼を開けた。
反射的に、眉間に皺が寄る。右手で目元を覆い、光に慣らすよう瞬きを繰り返すが安定しない。無骨な指の隙間から見える、ぼやけた白い天井。壁はひび割れ、窓の外には青い空と、穏やかな海が広がっていた。
「……何処だ、此処は」
掠れた、低くくぐもった声だった。
頭の奥で何かが軋む。思考しようとするたび、割るような痛みが脳の奥を這った。見知らぬ天井を見上げながら、男は息を吐く。
横になった身体を観察する。右手を動かし、布団を剥ぐと、胸には包帯が巻かれていた。触れると、痺れるような痛みが走る。左手を動かした。冷たい金属の感触。点滴の管。思考に至る前に、身体が勝手に管を抜く。引き抜いた勢いのまま、腕に血が滲む。
男は上体をゆっくりと起こし、ひんやりした床に足をつけた。
電流が走ったような痛みに胸を押さえながら、もう片方を壁に添える。足取りは重く、遅い。だが、焦燥に似た何かが男を駆り立てていた。
無機質な廊下に出る。
消毒液と潮の匂いが混じり合い、鼻腔を刺した。陽が昇った海の光が、磨りガラスの窓を淡く照らしている。
遠くから足音が響いた。
その音に反応して、僅かに振り返る。廊下の角から、白衣を着た女がすっと現れた。男の姿を横目に捉えた瞬間、女は目を大きく見開き、手にしていたファイルを落とす。紙束が勢い良く散乱する。
「ちょ、ちょっと……! まだ動いちゃ駄目でしょ……!」
制止の声は、やけに耳に響いた。
だが、男は視線を前に戻し、ゆっくりと歩を進める。一歩、二歩。三歩目を踏み出したとき、胸に激痛が走った。喉から呻き声が漏れ、身体が前に傾く。女が手を伸ばし、慌てた様子で支えた。その温もりに、男はただ小さく息を呑む。女の目には焦燥の色が滲んでいた。
「……誰だ、お前は……」
乾いた声。喉の奥が焼けるように痛む。
女は顔を強張らせ、僅かに怯える仕草を取った。何故怯えるのか、男には分からない。眉を顰めると、女は強い口調で捲し立てた。
「見れば分かるでしょ! 今、先生呼んでくるから! 座って!」
女は男の身体を壁際に座らせ、走り去った。
遠くでドアが開け放たれる音と、誰かを呼ぶ声が重なる。静寂が戻った廊下で、男はゆっくりと壁に背を預け、息を吐いた。
壁越しに波の音が聞こえた。
その音だけが、かろうじて現実を繋ぎ止めていた。
遠くで、慌ただしい靴音が近づいてくる。
先ほどの女の声に続いて、低い男の声が混じった。
「こっちです先生、廊下を歩いてて――」
「もう目を覚ましたのか」
廊下の角から、初老の男が現れた。皺の深い顔に、長年の疲れが刻み込まれている。丸眼鏡は金縁。首の聴診器が、靴音に合わせて揺れ動く。白衣の裾が靡き、ふわりと目の前に垂れ落ちた。
「……やれやれ、もう少し寝ててもらわんと困るな」
その医者は短く息を吐き、男の前にしゃがみ込む。
近づいた瞬間、アルコールと潮の匂いが鼻腔をくすぐった。
「動くとまた出血する。今どんな具合だ、息苦しさは?」
肩を優しく掴まれるが、男は答えなかった。
視線が宙を泳ぎ、やがて遠くの波音に焦点を合わせる。
「……此処は……」
男の問いに、医者は顔を顰めた。看護師と視線を交わす。
短い沈黙ののち、優しく両肩を掴まれる。ゆっくりと視線を向けると、丸眼鏡の奥に潜む、医者の柔らかな目と交錯した。
「ここは駿河の外れにある町医者だ。君は、数日前に浜辺で漁師に拾われた。意識もなく、血まみれでな」
駿河。浜辺。漁師。血まみれ。
言葉を反芻するように呟く。
男は視線を落とし、包帯の上から胸に手を当てた。その手の甲には、古い火傷の痕が浮かんでいた。他にも、鋭利な刃物で切りつけられたような、深い傷もあった。だが、その古い傷痕でさえ、記憶のどこにも結びつかない。
「……君、自分の名前を言えるか?」
「俺の、名前」
男は押し黙った。
口を開きかけ、息が詰まる。
浮かび上がりかけた音が、舌の奥で絡まった。
「……俺は……」
その言葉を聞いて、医者と看護師は息を呑んだ。医者は眉を下げ、首を振る。男の肩を軽く叩き、穏やかな声を落とした。
「無理に思い出さんでいい。命が助かっただけでも幸運だ」
男は黙したまま、再び窓の外に視線を移した。
波が光を砕く音がした。その明滅の中に、確かに何かがあった。だが、掴もうとするたび、白く滲んで消えていった。
「さあ、まずは身体を休ませるんだ。詳しい話は、落ち着いたら話す」
時間の流れが掴めなかった。
朝も夜も、潮の匂いと薬の苦みに包まれて過ぎていく。
決まった時間に来る医者は「順調だ」と言ったが、胸の奥に巣くう鈍い違和感だけは拭えなかった。夜になると時折、波音の向こうに銃声のような残響が聴こえた。幻聴か否か――それを確かめようと男が起き上がろうとするたび、ものすごい剣幕で看護師に制される。
何もかもが喪失している。
だが、何を忘れているのかさえ、思い出せなかった。
「行旅病人として手続きするには――仮名を付けねばならんな」
何度目かの回診時、医者は記録用の書類を叩いて言った。
走らせていたペンを止め、男を見据えるように目を細める。顎に手を当てた仕草は、何処か思案の色が滲んでいた。
「君は西欧の顔立ちだな。日本人には見えんが……」
「うーん……あ、自分の顔見ますか?」
ベッド脇にいた看護師が小さく笑い、手近の棚から手鏡を取り出した。差し出されたそれに、男は僅かに躊躇ってから手を伸ばした。
映った顔に、しばし視線が留まる。
胸元まで伸びた濡鴉色の長髪。日本人とは言えぬ彫りの深い顔と、異国情緒漂う褐色の肌。感情が抜け落ちたような灰緑色の瞳。海が近いせいか、口元は塩で塗り固めたかのように動かなかった。
見知らぬ男が、鏡の中からこちらを見返していた。
男が眉間に皺を寄せると、鏡の中の男も眉間に皺を寄せる。
「これが俺、か……知らん顔だな」
自分の声が、やけに遠く響く。
看護師は眉を下げ、手鏡をしまい込んだ。悩むように喉を鳴らし、別の視点から問いが投げかけられる。
「日本語、お上手ですけど。他に話せる言葉……あります?」
男は腕をゆるく組み、目を伏せる。
脳内ではドイツ語が飛び交っていた。だが、出てくるのは日本語。相手の言語に合わせて話す言葉が変わるのは、妙な感覚だった。
「ドイツ語は話せる……と、思うが」
「そうか。なら書類には――」
医者は静かに頷き、書類にペン先を走らせた。
「ハンス・シュミット――ドイツ語圏ではありふれた名だそうだが、仮としては丁度よかろう。それで構わんな?」
紙の上を滑る音が、妙に乾いて響く。
身元不明者に付けられる名前が書類に記された瞬間、どこかで鍵がかかるような音がした気がした。
だがそれも、潮風にさらわれて掻き消えていった。
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