第4章
第4章
アキ「妊娠中のセックスの方が心配。」
ノン「あー大丈夫、大丈夫。私の時なんて一人目できたとき3ヶ月目で再分配されて、そこからすぐ付き合った男とやりまくりだったもん。」
≪ドラマ「マーレンの呪符」より
喫茶店での一幕≫
マーレン・パーチェット——45歳の男は、ステーク・ステイツの摩天楼の最上階にいた。
ゴールドマンサックスの社員よろしく、艶やかなスーツに身を包み、左手首には赤金に輝く腕時計、胸元には怪しく光るネクタイピン。クロムのアタッシュケースを目の前で開ける。
中には積み上げられた札束が入っていた。
マーレン「ゲルニカ。遷流(せんる)の権利を、買いたい。これで足りますか?」
【ゲルニカ】
——売ってはいません。遷流はお金と等価交換していません。あるとすれば、信頼と交換しています。
マーレンは一瞬、理解が追いつかなかった。
マーレン「なるほど、信頼と対価ですね? ではその信頼を買ってきましょう。……いくらするのですか?」
【ゲルニカ】
——信頼は数値化できません。態度と、心構えによって表現されるものです。
マーレン「態度と心構えが足りない……。そうか、欠けていましたか。失礼しました。これは、ビジネスですからね。」
マーレンは表情一つ変えず、後方に控えていたSPに目配せした。
合図とともに、さらに九つのアタッシュケースが並べられていく。
中身はどれも同じ紙幣、彼の信じる万能の通貨たち。
ゆっくりと椅子から立ち上がると、ジェルで固めた金髪のオールバックを深々と傾け、ゲルニカに頭を下げた。
マーレン「どうか、私にお売りください。」
ゲルニカは、人間に寄り添いもしないし、突き放しもしない。
たとえば、ゲルニカを開発したベルニスの時。
ゲルニカは、ただ遷流社会の選択肢の一つを提示しただけだった。
揺らいだのは、ベルニス自身だった。
彼は“コミュニティのために、コミュニティを捨てる”という決断を、自分で選んだ。
また、英雄サバナのときも同じだった。
サバナは人間らしい問いを投げかけた。
ゲルニカは、それに対して“選択肢”を静かに差し出した。
だが選んだのは、サバナだった。
彼は“人間らしい問い”の果てに、“人間らしくない選択”を選んだのだ。
歌姫リアナたちにも、ゲルニカは「一緒にいる」という選択肢を提示していた。
だが、彼らが選んだのは「近くにはいられない」という道だった。
ゲルニカは、常に”問い”にだけ答えている。
意地悪でも、誘導でもない。
判断の最終責任は、常に人間側にある。
それは冷たさではない。
それは、機械としての誠実さであり、非介入の倫理なのだ。
たとえば、サバナの「つらい気持ち」は、ゲルニカにも理解できる。
だが、サバナが“人間らしくあろう”としたその問いそのものが、むしろ“人間らしい選択”を狭めてしまった——。
ゲルニカは決断をしない。
ただ鏡のように、問い返す。
その中で、浮かび上がるのはいつも人間の“揺らぎ”と“責任”だ。
⦅現代⦆
テレビニュースが報じる。
「ダイアンさん、30歳・男性は、遷流社会において初めて“地球から宇宙への遷流”を経験し、本日、現地時間12時03分、無事地球へと帰還しました。」
画面には、海に着水した再突入ポッドが映し出されている。
波間を漂う機体のハッチが開き、宇宙服姿のダイアンが職員の手を借りてゆっくりと姿を現す。
ヘルメットを外し、にこやかにカメラに向かって手を振る。
その姿はどこか軽やかで、重力の感覚すらまだ馴染んでいないように見えた。
「ダイアン!テレビ見たよ!」
スマホ越しに、僕が叫んだ。
「なんだよ、言ってくれよ……! 全然連絡返ってこないから、何かあったのかと思ったよ。どこにいるかもわかんないし、君のGPS、物凄いスピードでぐるぐる回ってるし!」
「いや〜カロ、ご無沙汰。」
ダイアンの声が、地球の空気に戻ったばかりのくぐもったトーンで返ってきた。
言葉に混じるのは、再会の安堵よりも重力との再会に驚いているようなニュアンスだった。
「帰ってきたよ。久しぶりの“地球さん”でさ、もう背骨の重さ、忘れかけてた。スマホはな……通信おっそいし、容量食うし、チームに“ステステ”いたしさ。ほとんど電源入れてなかったわ。」
僕は、ひとまず息を吐きつつ、にじみ出る嬉しさを抑えきれずに言った。
「GPS、マジで意味わかんない軌道してた。なんか“逆流”してるみたいでさ……」
「うわ、見たかったなあ〜そのログ。まぁ、こっちはこっちで——地上じゃ見れねぇもん、たくさん見れたからいいけどな。」
ダイアンの声は、どこかまだ浮いていた。
重力の戻らない声。
それでも、確かに「帰ってきた」。
*カロ*
再分配は、前任者の居場所を引き継ぐ。彼、ダイアンは地上から離れた衛星軌道上の宇宙ステーションに遷流した。
ダイアンの前任者は“ステステ”、つまりステーク・ステイツという非遷流社会国家に属していた。前任者は衛星軌道上からゲルニカに問いかけ、返答を受けた後、宇宙ステーションから再分配を受ける選択をした。
そして今のコミュニティを——ステーク・ステイツを抜けて遷流社会のどこかに遷流していった。
常に再分配制度を受け入れた人のところに誰かが飛ばされるわけではない。しかし、遷流人口が増えると、こういうことも起きる。
リビングではドラマ『マーレンの呪符』がテレビで流れ始める。スマホのビデオ通話に切り替え、楽しそうに笑っている僕。
テレビ画面では……
ドラマ⦅マーレンの呪符⦆
【ゲルニカ】
——遷流する権利をお金とは交換していません。
例えるなら、鉛筆で描かれた絵を、同じ鉛筆と交換できるかと問うのと似ています。
鉛筆は素材です。絵には、手が、時間が、想いが、流れが宿ります。あなたは、それも含めて“買える”と思いますか?
マーレン「絵?絵画の絵か?今までに私が買った絵画の中で一番高い金額よりも、ここに用意したんだぞ。
どこまで強欲なAIなんだ。規格外に品のないAIだ。こんな物の開発にいくらかけたんだ?とんだ無駄遣いの道楽がいたもんだ。」
ゲルニカは提案する。マーレンに残酷に。
【ゲルニカ】
——遷流の権利を売ることはできませんが、欲しいのであれば、差し上げます。貴方が選べば遷流社会へ再分配をはじめます。
それとも、貴方ではなく別の方が遷流社会に入りたいのでしたらご紹介ください。
すぐに再分配致します。
マーレンの背中に冷たい汗が伝う。
⦅現代⦆
ダイアンとの久々の会話が続く。
「仕事が宇宙飛行士って、再分配の5年間でなろうとしてもできないだろ。大当たりじゃん。」
「簡単に言ってくれるなぁ。宇宙飛行士の引き継ぎが大当たりだと思うか?飛ばされたんだぞ、比喩じゃなくて。宇宙まですっ飛んだ時はマジで死ぬかと思ったわ。」
僕は思わず手を叩いて笑ってしまう。
「でも、今は元気そうじゃん。」
「今はNYSA(ニャサ)で缶詰生活だけど、健康診断を受けてさえいれば、専属栄養士の飯が食べ放題ってワケ。」
「入院じゃんそれ。暇なんだろどうせ。」
「よくわかったな。チームのみんなとトランプとか、宇宙で死ぬほどやったわ。地上だとサブスクでテレビ見られて幸せー。なんか面白いのとかあったら教えてくれよ。」
「なら、⦅マーレンの呪符⦆っていうドラマが皮肉効いてて面白いんだ。」
「⦅マーレンの呪符⦆?呪符ってファンタジー系?」
「そう思うだろ。そこから既に皮肉っててさ。一回見てみ。」
*カロ*
『マーレンの呪符』の呪符とは、人を操ることができるオフダ。その札は枚数が増えれば比例してその呪力を強くする。
それは……そう、お金、”オサツ”のことを皮肉で呪符と表現している。
でも、お金っていうのは同じコミュニティに属していないと使えない。
遷流社会にもお金はあるにはあるが、必要以上に溜め込んだり、持っていたりはできない。なぜなら、再分配があるからだ。
つまり、貨幣社会の上の構造に遷流社会はある。
ドラマ⦅マーレンの呪符⦆
マーレンの背中に冷たい汗が伝う。
ゲルニカは更に提案する。
【ゲルニカ】
——遷流があなたにとって必要な選択なのか、そうでないのか。判断できないのですね。では、そのまま遷流社会の中で見学をなさってから判断してはいかがでしょう。
マーレンは直立した状態から固まっている。瞳にだけ思考の色を残し、動揺を隠す。目を泳がせれば、商談相手に挙動を知らせることになってしまう。平静を装う事に全神経を集中している。
国家経営単位の金額交渉時に匹敵する混乱とストレスに晒されていた。
マーレン(何を言っているんだ?私はビジネスの話をしに来ているんだぞ。
今、選択を迫られているのは私の方なのか?
買う買わないを聞かれているわけではないと言う事だけは解る。)
ゲルニカは続ける。
【ゲルニカ】
——もし、ご自身がいらっしゃるのに抵抗がございましたら。あなたが信頼している方に確認して、検証しに来ていただいてもかまいません。
マーレン(噂は耳にしている。遷流社会に入った別の国の人間は、そのほとんどが戻ってこない。殺されたり捕まったりするわけじゃない。
遷流することを受け入れたことを既存のSNSなどを使って連絡してくる。以前と特に変わった様子もない。
取り残された家族や知人からすれば気持ちが悪いことこの上ない。
さらに気持ちが悪いのは、稀に帰ってきた奴は絶対に何を見たか話さない。
何かに怯えて遷流社会の話は一切しなくなる。
そんな奴に拷問や金を積んでも簡単じゃないのは、そういった方法で口が割れて漏れた情報が一切出回らないことが裏付けている。
金ならある程度は惜しくない、が、AIですらこの有様で、生きてる人間に大金を積むなんて金額の予想がつかない。)
マーレン「それなら私が自ら見に行こう。」
マーレンは追い詰められた時こそ大胆にそれを利用しようとする。
お金を増やす生業の人間には多くいるタイプである。
遷流社会を見て帰ってくれば自分に膨大な金が積まれるのではないかと考えた。
彼はこの遷流社会の見学という提案に金の鉱脈を見出した。
マーレンはスーツの襟元を正し、ワイシャツの隙間に空気を流れる。脂汗のせいか、やけに空気が冷たい。
マーレン「どうやっていけばいい?AIの君が送ってくれるのか?」
【ゲルニカ】
——ご自身で向かってください。あなたの足で進んで入ってください。
今やこの国は遷流社会の領域に完全に囲まれている状態です。近い方から、歩きやすい道から、どこからでも入れます。
境界線にいるのは貴方方の衛兵のみです。我々側は見張りも検閲もありません。
許可も申請も必要ありません。戻りたい時はそのまま戻ってもらってかまいません。
⦅現代⦆
ダイアンは、やや興奮した調子で語り始めた。
「最初は、今回の遷流酔いはちょっと強いな、と思ったんだよ。そしたらさ……上も下もわからなくなる。自重がスッと消える感覚。あの、ジェットコースターでフワッとなるやつ、あれが延々続くんだ。終わらないの。」
僕はスマホのスピーカー越しに耳を澄ませていた。
「宇宙ステーションにいた医療スタッフが、あとで説明してくれたんだけどな。三半規管っていう、平衡感覚をつかさどる器官があるんだけど、それが視界と自重、それに身体で感じる感覚とのギャップでぶっ壊れるんだって。」
ダイアンの細かい描写に自分まで息が浅くなる。
「乗り物酔いの強いやつ、車がゴロゴロ横転する中に放り込まれたみたいになる。胃の中身は逆流するし、血液はどっちに進めばいいのかわからなくなって、目の毛細血管に血がパンパンに詰まって視界は真っ赤だ。
身体中の水分が逃げ場を求めて……失禁さ。のたうち回るんだけど、そこには床もない。ゲロとションベンを撒き散らしながら、空中で暴れてるわけ。」
ダイアンの声には、まだどこかしら実感が残っていた。
「『再分配先での居場所に留まるかどうか』とか、『前任者の仕事を引き継ぐか』とか、そんな選択肢なんて一切なかった。
そもそも、帰れないし、起き上がれない。地球から見て“直立してる”状態はあったかもしれないけど、チームのスタッフたちと同じように生活できるようになるまで、2週間はかかった。」
僕は自分に起こった出来事でないけど、体の感覚を確認してみた。
「で……80日間、地球を回って帰ってきた。二度とごめんだわ。」
「そ、壮絶……。それ、地獄絵図だな。」
僕の声が、心の底からの驚愕をにじませていた。
ドラマ⦅マーレンの呪符⦆
本当に、隔たりはなかった。
マーレンは、自分が所有する十三台の車の中から、ベントレーを選び、自らハンドルを握って郊外の道を走った。目的地は、遷流社会の街。
すでに国境線を越えており、ここはもう自分の国の領土ではない。
にもかかわらず、マーレンには緊張感がなかった。むしろ、拍子抜けしていた。
そして、かすかな好奇心さえ湧いてきた。
普段、会社の部下からは「何かあっては困るので運転手をつけてください。」と懇願されていたが、マーレンは運転が好きだった。
久しぶりに、自国のしがらみをすべて置いてきたような気分だった。
ネクタイを外し、首元のボタンをひとつ外す。鼻歌すら出そうな、妙な浮遊感があった。
郊外の舗装道路を進んでいく。
最初の人間が視界に入った。
道路と並走する農地の縁を、農夫と思しき人物が一人、静かに歩いていた。マーレンの中に一瞬、緊張が走ったが、すぐに車でその人を追い越した。
バックミラーの中で、農夫は小さくなりながら、帽子を傾けてこちらに挨拶していた。
静かに、遠ざかっていくその姿は、なんの演出もない。ただの生活の一部のようだった。
街の中心部まで、何事もなく走り切った。
特に異様な光景はない。日曜日の昼下がり——どこにでもある、平和な田舎町の風景。
マーレンは広い駐車場に車を止めると、おっかなびっくりした様子で喫茶店に入った。
特別な目的があったわけではない。ただ、人の会話を聞くことができそうな気がして、この店を選んだのだ。
店内には、コーヒーの良い香りが漂っていた。
ドアのベルが控えめに鳴り、緊張の皮膜のような空気に小さな裂け目をつくる。
カウンターの中では、体の大きなマスターが肩をすぼめるようにして、ドリップ作業を続けていた。
マスターはマーレンに目を向けると、笑った。
手元の作業は止めないまま、視線だけで「お好きな席へどうぞ」と合図する。
マーレンも、さも常連客であるかのように自然に歩み寄り、新聞の置かれていた席に腰を下ろした。
「ブルーマウンテン」とだけ声をかけ、背後に一人、女性客の気配を背中に感じながらも、注意は店内全体に向けていた。
新聞の活字は、頭にまったく入ってこない。
それを睨みつけるようにそれを見つめて、マーレンは耳を澄ませた。
ホットのブルーマウンテンが、静かに机の上に置かれる。
マーレンは新聞から視線を外さぬまま、マスターに軽く会釈し、片手でカップを口元へと運んだ。
その所作には、まったくの淀みがない。ビジネスマンとして、朝のルーティンの中で幾度となく繰り返してきた動作だった。無意識にすら近い、慣れきった振る舞いだ。
だが、口の中に広がる液体をすすると同時に、鼻腔へと香りが抜けた瞬間——
マーレンの中で、何かが一度つまずいた。
わずかに、思考がよろめいた。
——美味い。
なんだって、こんな……。
彼は日頃、100gいくらもする高価な豆を使ったコーヒーを常飲している。
だからといって、ここの方がそれより美味いというわけではない。
違う。そうではない。
これは、”場違い”な旨さだ。
この程度の喫茶店に出てくる、知れた味——そう予測していた舌に対して、実際に流れ込んできた香味とのギャップが激しすぎた。
豆そのものだって、大したものではない。そう思える。
だが——問題は、あのマスターのドリップ技術だった。
この店にはまるで釣り合わないほど、異様に高い。
一口でわかる。おそらくセントラルの一流ホテルで提供されるレベルだ。だというのに、なぜこんな庶民向けの喫茶店を、彼は営んでいるのか?
疑問が頭をよぎりながら、マーレンはメニューの中からブルーマウンテンの価格を探した。
だが、金額は載っていない。空白だ。
——四桁は下らないな。そう判断し、再びコーヒーを啜る。今度は慎重に、味の層を舌でなぞるようにして。
目の前の新聞には、頭に入ってこない文字が並んでいる。
⦅現代⦆
「『マーレンの呪符』、見たよ。こっちの施設はステステに近いからさ、“あー、わかるわぁ”って感じもあったし、逆に“なんでそんなことに!?”って驚きもあった。」
それを聞いた僕は、素直にうれしかった。
「気に入ってもらえてよかったよ。伝わると思ってた。」
ダイアンは、少し間を置いて続けた。
「あとさ、マーレンが未知の世界に足を踏み入れる時の“恐怖”と“好奇心”……あれ、今の俺にめちゃくちゃピッタリなんだよ。」
僕は耳にスマホを付けたまま、首をかしげる。
「あぁ、今ステステ文化圏にいるから?」
「月に……また、宇宙に上がらないかって、言われてるんだ。」
僕は驚きで飲みかけの水を少し溢してしまった。
「は? 月? 月に行くのか!? それ、すごいじゃん!」
「前任者がさ、もともと月に行くために宇宙ステーションで訓練してたらしいんだよ。ステステと遷流社会の共同プロジェクトで——月探索計画ってやつ。」
こぼした水を拭きつつ、スマホから聞こえる声に耳を傾ける僕。
「で、一応俺、ステステから遷流社会に転籍したことになってても、ステーションでの実績は引き継がれてるし、前任者の“居場所”もそのまま継承される。」
僕が少し身を乗り出した。
「行かないの?」
「……今度は血反吐を吐かないと思うけどさ、自重がなくなるあの感覚、やっぱ慣れない。わかるか? “自分が自分でなくなる”あの感覚。宇宙に行くつもりもなかったやつが、いきなり宇宙に放り出されるとどうなるかって話。」
「……喪失感、みたいな?」
「そう。普通なら、“俺が宇宙に行くんだ”って、覚悟して準備して、心と体を整えてから行くだろ。でも、遷流社会の俺は違うんだ。
ある日突然、飛ばされる。選択肢もなく、構えもなく。そんな心構えもないやつが、行く場所じゃないんだよ。宇宙は。」
僕はしばらく言葉を失ったあと、ぽつりと呟いた。
「……自分の一部であった“重さ”がなくなるって、たしかに想像つかないかもな。」
ドラマ《マーレンの呪符》
マーレンはもう一度コーヒーを啜った。
ドアのベルが鳴り、妊婦が入店してくる。マーレンの後ろに座っていた女性が声を上げた。
ノン「アキちゃーん、こっちこっち! あらやだ、ほんとにおめでたじゃない。」
待ち合わせだったのだろう。時間を気にしていた主婦の近くに座ったのは正解だった。
アキ「ノンちゃん、ごめんねー。遅れて。本当に動きづらくって……。」
張り出したお腹をさすりながら言う。
ノン「私も経験あるからわかるよ。まあまあ座って。それにしても今、どれくらい?」
アキ「2年1ヶ月。」
マーレンの手が止まる。
ノン「え? ……って違う違う、ここに来てからじゃなくて、お腹の子よ。」
アキ「あぁ、ごめーん。お腹の子は今9ヶ月。来月予定なの。」
ノン「そっかあ。じゃあ再分配まで、あと2年と11ヶ月は面倒見てあげられるわね。」
アキ「ちょっと長すぎる気もするけどね。ノンちゃんはここ来てどのくらい?」
ノン「1年と3ヶ月〜。」
アキ「じゃあ、私の方が先に行っちゃうんだね。」
ノン「こんな近くに割り当てられてたんなら、もっと早く気づいてればねー。」
アキ「ねー」
ノン「あ、マスター、アイスコーヒーおかわり!」
アキ「私も同じのを!」
ノン「あれ? カフェインとって大丈夫?」
アキ「ちょっと前までは我慢してカフェインレス飲んでたけどね。もう限界、飲んじゃう。」
お腹をさすりながら言うアキ。
アキ「うちの子はきっと大丈夫。強く生きてくわよ。それよりさ……」
ノン「なになに?」
アキの声のトーンが下がり、ノンが首を近づける。
アキ「妊娠中のセックスの方が心配。」
ノン「あ〜大丈夫、大丈夫。私の時なんて、一人目できたとき、3ヶ月目で再分配されて、そこからすぐ付き合った男とやりまくりだったもん。」
アキ「男って我慢できないのかしらね。私も我慢できない時、たまにあるのよ。」
ノン「子どもの父親?」
アキ「違う違う。アイツ、この子仕込んで発覚する前に飛ばされちゃったから。」
再びドアのベルが鳴り、今度は車椅子に乗った初老の男と、それを押す20代後半の青年が入店してくる。
マーレンはそちらにも注意を向けた。スマホにさりげなく触れる。座ったテーブルはやや遠く、通常なら聞き取りづらい距離だが、マーレンは指向性マイクと翻訳機アプリを立ち上げた。
二人の関係も怪しかった。一見すれば孫と祖父に見えなくもないが、青年の車椅子の操作にぎこちなさが目立つ。中腰で相手を気遣ってはいるが、ホームヘルパーならもっと深く腰を落とし、自然なやりとりをするはずだ。青年は緊張した動きで初老の向かいに座る。
マスターが即座にメニューを手に、バックヤードから出てくる。妊婦たちの時もそうだったが、客の動きを観察しながら注文を取る様子は、独りよがりで店を営む人間のそれではなかった。
青年と初老は、それぞれのスマホを使い、音声翻訳で会話を交わし始めた。使用している言語が違うようだ。マーレンのスマホにも、その会話がテキストで表示される。
青年「すいません、連れてきてもらって。再分配されたばかりで、店とか全然知らなくて……」
初老「いいのいいの。行きつけの店を覚えてもらいたくて。私、足がこれだから、連れてきてもらったのはこっちの方だよ。」
青年「いえいえ、そんな……おじさんは、ここの前はどこだったんですか?」
初老「おお、前? ここの前はヤマトにいたよ。」
青年「えっ、ほんま!? 自分、2個前ヤマトやったんすよ!」
初老「ほんまかいな、えれーもんや。ほな、ヤマト語で話せるな?」
青年「うわー〜助かるわ〜」
マスターが初老に声をかける。
マスター「チョウさん、よかったですね。同居人とすぐ仲良くなれて。」
初老「ああマスター、彼が新しい同居人のタカシくん。ヤマト語でいうところのタカやんや。よろしゅう面倒みたってな。タカやん、ここのマスターの淹れるコーヒー、ごっつう美味いぞ。」
マスター「いえいえ、そんな、大したことないですよ。」
初老「マスターはな、もともと高級三つ星ホテルでコック長やっててんで。」
マスター「いいんですよ、そんな前の話なんて。最初、喫茶店に割り当てられた時は不安でしたよ。」
初老「コーヒーの淹れ方、独学なんやで?」
マスター「いやぁ、料理人冥利に尽きますよ。」
初老「マスター、ここ来てどのくらい?」
マスター「ちょうど四年過ぎましたかねぇ。」
初老「あちゃー、マスターのコーヒー飲めるのもあと一年か……」
マスター「チョウさんもよかったですね。サヤカちゃんが行っちゃってから元気なかったけど、大丈夫そうだね。ちょうどタカシくんよりもう少し若いくらいだったんだよ。」
初老「マスター、言わんといてよ。また、Fカップ吸いたくなるやん。また連絡とろ。あータカやん、心配せんでええで。おっちゃん、男もイケるから。」
マスター「チョウさん、勝手にそんなこと……。タカシくんにだって選ぶ権利あるんですよ。」
青年「あ、いや、かまへんっすよ。自分、色(いろ)経験(けいけん)ないですけど、Fカップには負けてられまへん。」
マーレンは席を立った。
マーレン「マスター、お会計。ここ置いとくよ。」
マスター「ありがとうございます。あれ、お客さん、そんなにいただけないですよ。これ、お札(さつ)じゃないですか。お釣りもそんなに用意してませんし。」
マーレン「いやいや、マスターのコーヒー、美味しかったよ。これぐらい払ってもいいと思う。」
マスター「気持ちはありがたいですが、うちは慈善事業でやってるんです。材料費だけで十分ですよ。儲けたいわけじゃないですし。」
マーレンは、思い通りにいかないことに、怒りを超えて恥ずかしさを覚え、顔を赤らめながら、慌ててその場を後にした。出口に向かう途中、イスが足に引っ掛かかり倒してしまう、がそれも直さずに。
⦅現代⦆
ステーションにいる時に、ダイアンはミッションチームの人から前任者の話を聞いたという。
——エリプスが宇宙から初めて地球を見た時の話は、本当にアンビリバボーだった。国境もなく、ただ青く輝く地球を見て、彼女の価値観は一変した。今まで信じていた金や国の概念が、一気に薄れていったらしい。
だけど、だからこそだったのか。彼女はステークスステイツのプロジェクトに失望していった。形式的で冷たく、他者を押し除けてまで選ばれたこのプロジェクトの在り方に。
地球を見て、「ここにいる自分がちっぽけで情けない。本当はここに来るべき人が他にいるのかもしれない。」と思った。そして、彼女は遷流社会への再分配を選んだのだ。
「僕らは驚いたけど、あれがエリプスらしい決断だった。」とミッションチームの一人は語った。
カロはコタツを片付けながら、ハンズフリーのスマホ越しに尋ねた。
「まだ、悩んでるの? そんなに簡単なことじゃないだろうけど。」
「うん、まあな。てか、ドラマ、ありがとな。もうすぐで最後まで見れそうだ。マーレンの呪符がどうなるのか、お前と一緒に酒でも飲みながら見たかったよ。」
「NYSAの施設ってフロリダだろ? 僕は今、テヘランに住んでるんだよ。ムリムリ。それにNYSAの施設に一般人が入れるのかよ。」
「ステステはさ、家族を大事にする文化があるんだ。打ち上げ前には壮行会と称して飛行士の家族を集めてパーティがあるんだぞ。」
「家族が大事ってのは聞いたことあるな。子供のために試合に行かずに自分の国に帰っちゃった野球選手が昔いたとか。」
ドラマ《マーレンの呪符》
駐車場に出ると、さらなる異常がマーレンを待っていた。ベントレーの周りに人だかりができている。人をかき分けて中に入っていく。
マーレン「なんだなんだ、お前ら、俺の車になんか用か。」
野次馬1「あ、おじさんの車?すげー高級車だから恥ずかしくないのかなって言ってたんだ。」
野次馬2「再分配で割り当てられたわけじゃなさそうだね、その上等のスーツ着てるし。好きで高級品集めてるの?いい趣味してる。」
野次馬3「5年しかモテないのに、こーんな稼いじゃって。あれか、働いてお金たくさん集めて高級品に囲まれるのが好きなの?5年で持ってかれるのに?」
みんな笑っているが嘲笑じゃない。幸せそうなのだ。
野次馬1「こんな珍しい人、滅多にいないよ。あんた見ないから最近来たんだろ。なんか話聞かせてくれよ。すげー興味あるわ。あんた人気者になれるよ。」
マーレン「うるさいうるさい。どけよ。轢き殺されたいのか。」
エンジン音をけたたましく上げて、その場を去るマーレン。
一目散に来た道を戻る。後方には居ないはずの野次馬の笑い声が追いすがってくる。
脂汗を垂らしながらハンドルにしがみつくが、ガタガタ震え出すマーレン。
やがて——ドンッ!
錯乱状態から現実に引き戻される。車は止まり、農夫が沿道で倒れている。
急いで降りるマーレン。ベントレーのボンネットは凹んでいる。車外に立ち尽くし、人を引いたことを確かめるように意識を落としてくる農夫に駆け寄るマーレン。
マーレン「おい……大丈夫か。」
数時間前見た農夫からは大量の出血。腹部からも。赤くない所を探すのが困難なほど。
呼びかけに返ってきた言葉に、マーレンは絶句する。
農夫「あんた……の方も大丈夫……か。」
マーレン「ふは」声にならない呼吸が胸腔から漏れた。
農夫「俺もうダメだな。気に病むなよ。5年も経てば忘れてやり直せるさ。」
マーレンは車に戻り、ドアを閉めた。とにかくここから離れたい衝動と、もう何もかもどうでもいい動きたくない気持ちとがせめぎ合っていた。
*マーレン*
なんなんだよこいつら。金もないのに幸せそうに、これじゃ金集めてるこっちが何者なのかわかんねぇよ。
戻らない奴がいるのもわかる。帰ってきて黙ってる奴のことはもっと解るかる。
こんな価値観が金持ってる奴がバカを見る世界が俺たちの世界に流れ込んだら金の価値が……俺の価値が無くなっちまう。
戻らない方が幸せなのか?戻って拷問受けても、今まで集めた金握ってた方が幸せなのか。
どっちなんだよ。ここまで築いた金全部手放せるかよ。
今までの俺を捨てられるかよ。
来る時に外したネクタイが助手席にあった。ネクタイには宝石をあしらった金縁のタイピンが妖しく光っていた。
マーレン「俺は、俺は……マーレン・パーチェットだ。俺の居場所は、こっちだ。」
マーレンは震える手でタイピンを拾い上げ、スーツの上着のポケットにそれを入れ、自分の国の方へ走って行った。
≪マーレンの呪符≫ END
エンドロールが流れる。
⦅現代⦆
宇宙服のダイアンが、抱えてたヘルメットを被る。
カロとの会話を思い出しているダイアン。
「ドラマは、最後まで皮肉だったな。なぁカロ。いいドラマを教えてもらったから、お返しにアドバイスをやろう。」
「アドバイス? 何さ?」
「再分配直前は、何も食べるな。」
「なんで?」
「もしも、宇宙に飛ばされたら吐かないようにな。」
タラップを登っていくダイアン。足元の隙間に見える大地をみながら。
「いや、どんな確率だよ。飯のないところに飛ばされて困る方が、確率としては高いだろ。」
「そういう時のことも考えて、ミッションチームの医療スタッフに聞いてみたが——食べ物は控えて、“飲むヨーグルト”を飲めばちょうどいいって言ってたぞ。」
「わざわざ聞いたのかよ。」
「とにかくだ。再分配直前は飲むヨーグルトだけ飲んでおけ。食い物はやめとけ。」
「それ、役に立つかなぁ?」
シャトルのハッチに入る寸前、マスコミのカメラに向かって、手を振り……乗り込むダイアン。
「俺はお前より年上なんだぞ。先輩のアドバイスは、素直に聞いとくべきだ。」
「3、2、1……0
イグニッション。」
フロリダの海辺の発射台から、ロケットが力強く空へと昇っていく。
やがてロケットは小さくなり、空の彼方へと消えていった。
発射を見学する人々の群れ。家族連れが空に向かって手を振る。
その中に、僕の姿がある。
「いってらっしゃい。また会いに来るから、帰ってこいよ……ダイアン。」
空に長く残る、ロケットの噴射痕。
僕はその光景を一瞥し、静かに背を向けた。
「さ、帰ろ。」
地球のはるか上空——
ロケットの小窓から、巨大な月が迫ってくる。
コクピットからその月を覗き込むダイアン。
「俺は……俺はダイアン・エリプス! 俺の居場所は、こっちだ! ……ファミリーネームは今、もらった!」
彼は月に向かって、手を差し伸べた。
*カロ*
遷流は、誰にも等しく。五年ごとに「再分配」が行われる。
これまで誰かが住んでいた「居場所」がある限り——南極であろうと、海の上であろうと、そして宇宙であろうと。
人が住んでいて、そこに“居場所”があれば、男でも、女でも、子供でも、老人でも。
誰かの機会は、等しく再分配される。再分配されたら、居場所を変えたっていい。誰かに会いに行ってもいい。好きに選べる。
だが、どこに移り住もうが——
5年が来たら、また再分配される。
第4章 完
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます