第1章
第1章
「制御できなかった人々の感情や衝動が、これまでどれほどの悲劇を産んだのか……演算せよ。」
≪オーレン・ベルニス伝記≫より
5年ごとに引っ越しを繰り返すとして、あなたなら何を持って行って、何を置いてきますか?
クローゼットに頭を突っ込んで探し物をしているのは、僕、カロ24歳だ。
「どこだー、うう、寒い……」
目的のものが見つからない。
廊下の方から音がして、同居人が……赤いランドセルを背負ったリオが帰ってきた。
「ただいまー。……って何? なんか探しているの?」
「おかえり。コタツのね、ケーブル探してんの。知らない?」
「私知らないよ。ママに聞けば?」
「え、あ、ねぇさんに?……そうだね。ねぇさーん、サキ姉(ねぇ)さーん!」
別の部屋に向かって、のサキ姉(ねぇ)35歳を呼ぶ。
しかし、家のどこからも返事はない。
「あ、そうだった。今いないんだった。」
スマホを取り出し、画面を操作する。
「今ごろ、どの辺にいるんだか……」
手が止まる。
画面には、パルテノン神殿の前でポーズを決めるサキ姉さんのインスタグラムの写真。
「えぇ、今アテネにいるの?……ケーブルの場所きいとくか。」
「ねぇ、カロ、宿題手伝ってくれない?」
リオがランドセルからハードカバーの本を取り出す。表紙には白衣をきた白髪の男性がマンガっぽいタッチの絵だ。《オーレン・ベルニス》の名前がある。伝記のようだ。
「どういう宿題?」
「図書で借りた本の感想文。」
「リオが自分で借りてきたの? 関心だね。ベルニス好きなの?」
「んーん、知らない。」
「じゃあなんで借りたの?」
「マンガ伝記だから。字だけの本なんか読めない。」
「……そんな理由で手に取られるベルニス先生、可哀想だろ。」
「でも絵ばっか見てもよくわかんないから、カロが内容教えて。そしたら、感想文書く。」
僕は呆れたように心の中で呟いた。
(ベルニス先生、この子の“ガクモンへの道”は、まだまだ遠いようです)
オーレン・ベルニスは前大戦末期の科学者。この世界の基本を根幹から作った天才だ。
職場のロッカールームで、同僚にこの事を話してみた。
「で、教えられたの? 9歳にベルニス教えるって、それ相当キツくない? ニュートンの方がまだマシだろ。」
「教えられなかった。僕より先に、リオのほうが『この人に聞いたのが間違いだった』って呆れてたよ。」
「ベルニスのAI開発にかける情熱や覚悟はテーマが重すぎるだろ。」
そう、ベルニスは“覚悟の人”。
⦅オーレン・ベルニス 暴力の時代を終わらせた、問いの人⦆
彼は混迷と戦火に包まれた時代に生まれ、終焉の兆しをもたらした知性の一人だ。
出自は不明。記録も断片的だが、工学・倫理・数理哲学を横断的に学び、複数の国家と文化圏に籍を置いた。
当初は軍事AI、すなわち「自律戦略判断装置」の開発チームに所属。
標的選定、損耗予測、敵対勢力の心理解析——人間の判断を超えた冷徹な意思決定が求められる分野だった。
だが、実験で犠牲となった市民たち、命令に従うしかなかった兵士たちの記録を前にして、ベルニスは沈黙する。
その沈黙の果てに辿り着いた結論は、異質で、極めて過激だった。
「国民としての帰属意識と、国境線への執着が、人間に暴力を選ばせる。」
それを制御できる、まったく異質な知性が必要だった。——それが、人類にとって最後の設計対象となった。
彼は研究を転化し、AI〈ゲルニカ〉を開発。
敵味方の境界を持たぬ人工知能に、自らの属する共同体の意志すら超えて問いかけた。
「制御できなかった人々の感情や衝動が、これまでどれほどの悲劇を産んだのか……演算せよ。」
この問いにより、〈ゲルニカ〉は戦争行動を停止。
世界の主要通信網に向けて停戦を呼びかけ、敵味方双方に戦略的撤退を自律的に促した。
この出来事は後に「第一のAI停戦」と呼ばれ、数多の命が救われる転機となった。
その後、ベルニスは姿を消した。
死亡説、潜伏説、あるいは名を変えて市井に溶け込んだという説があるが、真相は不明である。
ただ一つ確かなのは、彼の遺したAI〈ゲルニカ〉が後の「遷流(センル)社会」の礎となり、人類史の根幹を変えたという事実だけだ。
——伝記より抜粋
自分の家に帰宅する。ベルニスの伝記を読んだ後だと、帰る家がある事にどこかホッとする。
玄関を開けて靴を脱ぐ僕。
脱いだ僕の靴の隣には、脱ぎ散らかした女児用のムートンブーツが散乱している。
「もうブーツ出したのかよ。」
自分の靴とリオのムートンブーツを、家の外に向けて揃え直す。
その傍らには婦人用の夏物ミュールが一足。
ミュールだけは家の中の方向を向いているが、僕は向き直さなかった。
リビングに入ると、リオはコタツに入ってノートパソコンを開いており、スマホからはアイドルソングが流れている。
「リオ、音下げて。リオ、その曲、“リアナ”のだろ。マリスが来るぞ。」
呼びかけに遅れて音が小さくなる。
「おかえり。」
リオが言う。
僕はカバンを下ろしながら言って聞かせる。
「ブーツはさぁ、早くない? そこまで寒いか? もっと移りゆく季節感を大事にしろよ。そこまでファッションを取り入れてこそレディーの嗜みってもんよ。」
「それ、ママも同じこと言ってた。」
リオが返す。
冷蔵庫からパックのオレンジジュースを取り出して、
「宿題出したの? サキ姉さんにも聞いたんでしょ、ベルニスのこと。」
「ママにも聞いたけど、AIに聞きなさいって言われた。もう出したよ。」
「AIに感想文まとめさせたのか? それって学校側としていいのか?」
「私の質問も入れて、対話形式のテキストならいいって言われたもん。」
「いいのかねぇ、それで。」
グラスに注いだオレンジジュースの一つをリオに渡す。
リオはそれを受け取って飲もうとする。
「ありがとう、を言いなさい。」
「ありがと。」
二人でジュースに口をつける。
「AIの方が簡単だったよ。サイブンパイ作った人って言えばいいのに。」
サイブンパイ、再分配。
共産主義が富の再分配で社会を作ろうとしたのに対し、ベルニスが作ったAI〈ゲルニカ〉は富ではなく“機会”の再分配を提案した。
戦争のような争いが起きるのは、人が“自分よりも”所属するコミュニティを優先するからだ。
自分の命よりも大切なコミュニティ。家族。街。国。そのために命も、人間性も差し出してしまう。では、それを避けるためには? コミュニティを廃棄し、再分配することだ。
築いたコミュニティを、人が手放して再分配する。
サキ姉さん——。
サキさんはもういない。死んだのではない。
定期周期でこの家というコミュニティを再分配したのだ。
今はAI〈ゲルニカ〉によって欧州の定住地を割り当てられている。
サキさんだけじゃない。僕も、リオも、いつかはこの家から再分配されて、別の場所で生きていく。
そう決まっている。
「あ、前のママからだー……はいはい。」リオはスマホを耳に当てながら、ぱたぱたと部屋を出ていった。
僕だって、リオだって、いずれこの家を出ていく。
成長するからじゃない。——流転しているんだ。
リオはこの家に5歳で来た(らしい)。その前は、遠い海の向こうから来た。そこでの保護者を「前のママ」と呼んでいる。
再分配は決まって起こる。だが、強制ではない。だからこそ、それを嫌がる人間はほとんどいない。
今の関係に固執したり、家族に執着しすぎたりすると、また戦争の世の中になってしまうからだ。
それはベルニスとAI〈ゲルニカ〉が導き出した、ひとつの“答え”だった。
ベルニスがなぜ「覚悟の人」と呼ばれるのか。
彼は、自分のコミュニティと、“敵”のコミュニティの両方を…さらには「全人類」という、もっと大きなコミュニティのために手放した。
廃コミュニティ。
それが、どれほどの苦渋に満ちた決断だったか。
その覚悟は、彼が高次AIに与えた名からも読み取れる。
高次AIの名は——ゲルニカ。
20世紀の高名な画家ピカソが描いたという。
その絵画と同じ名前……。
混沌と戦火、叫びと抵抗、そして後悔。
二度と過ちに戻らない、決別の名前。
——ゲルニカ。
第1章 完
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