シャッフル家族(原題:流悟主義)

裃 最雲(かみしも もくも)

第0章

第0章


 先生はお茶のグラスに口をつけて、

そして、口を離し、グラスについた口紅を指で拭いた。


≪少年の回想より≫









⦅始業前・部室棟裏⦆


 始まりは単なる空き箱だった。僕、カナメ14歳は部室棟の裏、日課である部活の朝練の後の溜まり場での事。

「ついに手に入れた。」


 僕は、学ランの左サイドポケットからタバコの空き箱を取り出して、ナベちゃんとボノに見せてやった。

 「おお、お前も手に入れたか。」

 「俺たちのとは、また、ちょっと違うんだな。」

 「僕のは白地に赤い丸だから……これ、アカマルって奴?」

 「ちがう、それはまた別、これなんだっけ?それはラッキーなんとか。」


 銘柄なんてどうでもいい、タバコは吸わないので関係ない。空き箱を持っているのが今の僕らのトレンド。吸わないけど、持っているだけで何だか大人なアイテム。

 「駅のゴミ箱で見つけた。電子タバコの空き箱ばっかりで苦労したのよ。」

 僕の拾った空き箱は配色とデザインが国旗みたいでかっこいい。


 「でも、お前ら…これは持ってねぇだろ。」

 そう言うとナベちゃんはカバンの中からおもむろに別のアイテムを取り出す。

 「じゃーん。」

 「あっ! そ、それは、エッチぃやつ!!」

 「見せて、見せて……授業でしか見た事ない。一枚ずつ包装されて、それが繋がっているのか……」

 ただのゴム製品なのに、なぜこうも、僕らを興奮させるのか。


 「ナベちゃん、それ使ったの?」

 「彼女も居ないのに使う機会なんかねぇよ。」

 「じゃあなんで持ってるのよ、これ。」

 「これは、家にいる同居人の大学生の兄さんから貰った。お前らにも一つずつやるよ。」

 「くれるのぉ!マジでぇ!!」

 「持っとくのは男子のエチケットらしいぞ。これをくれた兄さんが言ってたけど。」


 エッチぃ……エチケット……


 「何か起きた時に持ってないと困るんだってさ。俺たち、彼女も居ないのに『何か起きる』って、何だよ。とは思う。」

 一枚だけちぎったそれを手で受け取った。これだけ持ってるの恥ずかしくない?そうだ。

 「ちょうどいいから、タバコの空き箱に入れておこう。サイズ感もピッタリだ。」

 

 これを入れたから、持っているから、何かが起こるわけでもない。しかし……これは、なんて……大人なモノなんだろう。


 凄い。いい。これを、学ランのポケットに入れるだけで、何かが違う。

一体、これで何かが変わるんだろうか?何かが起きるんだろうか?


 解らない世界がこれから僕らの目の前に広がるような気持ちがする。

ただ、誰かが吸い終わったタバコの空き箱の中に、ただ、自分は使う予定のないゴム。



 急な便意。さっそく、何かが起きた?

 違う、この便意には別の理由がある。

 

 「ナベちゃん、これありがとう。俺、もう行くわ。じゃボノもまたな、部活でな。じゃあな。」

 僕は部室棟を離れ、一刻も早く、生徒が少ないトイレの個室を目指さなければならなかった。朝のホームルームと、便意の決壊に間に合うようにっ!






⦅始業前・校舎四階 図書室前階段⦆


 階段を駆け上がる。

 男子にとって、学校でトイレの個室に入るのは危険行為だ。

 “大”をしたことが明白となる。なぜなら学校で大をすることは大罪─今も昔も、それは普遍の真理だ。

 僕はもともと、お腹が弱い。

でも、今日の便意には理由がある。


 いつもはご飯派なのに、気取ってミルクティーと菓子パンを朝食にした。

なぜ、朝のルーティンを崩したのか。


─僕は来週、転校する。この中学3年の5月に、だ。

 春休み中に転校するようにできなかったのか?

 高校に上がるまでで、何とかならなかったのか?

 思うところもあるが、大人はそんな細かいことをガタガタ言わない。

だから、転校という人生の変化に備えて、朝食も変化させてみた。


 大人はそんなことも、ガタガタ言わない。

でも、僕の腹は—グルグル言っている。

 

 三階と四階の踊り場を回り、ようやく目的地の四階が見える。

そこに、登っている先生が一人。


 セナ先生だ。後ろ姿でもわかる。


 歴史と倫理の担当で、受け持ってもらった事は無いので、話した事は無い。

ただ、男子の間ではちょっと有名。

 学舎(まなびや)に合わせた踵の低いヒール。下半身を包む膝下丈のタイトスカート、女教師を女教師然とさせる、白のブラウス。

 黒髪は長いが、バレッタやヘアバンドなどはつけていない。華やかな装いを敢えてしないのは無駄に男子を刺激しない為、ではないかという話まである。


 お顔を見て挨拶したいところだが……

 僕の腹具合はもう……

 拝顔したいのはヤマヤマだが……

 時は一刻を争う。また、お腹に爆弾を抱えているところも見せたくない。


 追い越しざま

「おはようございます。」

「おはよう。廊下は……」

「走りません。階段は駆け上りましたが。廊下は走りません!」


 振り向かず、先生の注意に返事をして図書室前のお手洗いへ入る。

匂い。通り過ぎる時の先生の匂いが鼻に残っていた。これから悪臭で上書きされるのかと思うと、僕には一層、残念だ。便器のフタを開け、便座を下ろし、ペーパーの残量を確認。我ながら慣れたものである。



ジャバー


 “大”を押し流す水洗の音が響く。

手よりも、額の脂汗の方を洗い流したい。

手を洗い、廊下に出る。朝のホームルームには間に合いそうだ。


 階段に向かっていたのに背後から急に呼び止められた。

 「3年1組のカナメ君だよね。もうすぐ始業ベルが鳴るのに、体調が優れないのか?」

 

 セナ先生だ。始業前の本の貸し出し対応で図書室にいたのか。

 「大丈夫です。ご心配なく。」


 なんだ?早く逃げろと心が言っている。

 大便したのがバレるからか?

 

 「君の、そのポケットにあるものを見せてくれるか?」


!!!

!!!!!


 「先生……何か見えました?どのポケットですかね?」

とぼけるしか無い。


 「学ランの左サイドポケットだ。君がここに駆け上がってきた時、そこに手を入れたままだった。四階だぞ。階段を登るのに片方だけポケットに手を入れて上がってくるのは漏らす危険より、もっと危険なものがそのポッケに入っているという事だ。」


 えっ!ポケットに手を入れてたの僕?無意識に先生を通り抜ける時に入れていたのか。それとも駆け上がるのに邪魔だから抑えていたのか?

 そんな事、今はもうどうでもいい。

 何という分析力。それもどうでもいい。


 どうする?

 

「私は生徒を疑ったりはしない。その、ポケットに入っているものを見せて欲しい。それだけだ。嫌なら断ってもいい。だが、断る意味を考えた方がいい。」

 

 なんだ?何を言っているんだ?


 「断ると、どうなるんです?」

 「義を語るのは難しい。簡単に言うなら、私は悲しい。君もきっと悲しい。」

 「わ、渡せません。」

 「……そうか。もう、教室にもどるんだぞ。」



 そのまま、残り香を置いて、先生は僕を過ぎ去り、先に階段へ向かっていく。なんて顔していたんだ。なんて寂しげな背中なんだ。

 「まって、先生。」


タバコの箱を先生に差し出す。

 「没収だ。」


 なんで?振り返った先生は笑っている?


 受け取った空き箱を振って中身が入ってない事を確かめている。

「なるほど、噂通り、目的は中身では無く。箱を持ち歩いているのが流行っているようだ。」


 「あっ、先生、一旦返して。」

中身の事を忘れていた。


 「なんだ、必要なのか?まぁ、ゴミだと思うのは私の身勝手だな。しかし、没収したものだ、すぐ返すわけには行かない。」


 違うんです。先生、中身が問題なんです。すぐに捨ててくれるならそれでもよかったんですけど!!


 「よし、返してやるから、また取りに来い。ただし手ぶらで来るなよ。“儀式の『すいませんでした』”は要らない。何がいけなかったかを考えて謝りに来なさい。」


 颯爽と降りて行った。

 問題を出題したままでだ。






⦅午前中 3限目世界史A⦆


 なぜ、いけないのか?なぜ、没収されたのか?

タバコを子供が吸っちゃいけないからだろ。

でも、タバコも入っていないし、吸ってもいない。

だから、「タバコがいけないんです。」と謝っても。それは違う……よな。先生はタバコを僕たちが吸っていない事はわかっている。


 空箱を持っていた事がいけないのか。吸ってないのに。でも、中身が入っていても。吸ってなければ悪くない。という事にはならない?信じてもらえるか?入っていたら……入ってなくても。


 “吸った”と決めつける教師はいる。

 セナ先生は吸っていない事はわかっている。でも、箱を持つ事は…それで、吸っていると“みなし“てくる大人はいる。

 疑われるような事をする事がいけない事……なのか?



 こんなに考えたの、初めてかも。

すごいな、いつもの退屈な授業は時間が進まないのに。もう4限目の数学の途中になっている。


 机の上には世界史Aの教科書がまだ、広がっていた。





⦅午後 昼休み⦆


 昼休み中、セナ先生がどこにいるのかを職員室で聞いた。

調理部の顧問だから、昼の火元点検で家庭科室にいるらしい。



 家庭科室に入ると、先生は一人で座っていた。職員室じゃまずい。人が多すぎる。没収品の話なんて出せないし、あれそのものもヤバすぎる。

この、他に誰もいない状況で、取り返さないとヤバい。


 よかった。静かだ。誰もいない。

カーテンが、窓からの風で揺れてるけど、音はほとんどしない。聞こえるのは電気ケトルの湯沸かしの音。


 先生待ってたのか? いつもこうなのか?

文庫本を読んでいる。頼む、朝から僕が見ていない時も、その文庫本に夢中で箱の中身になど無関心でいてくれ。


 昼休み終了まで、あと20分。


 その間に……先生から、箱を、回収できるのか。

この部屋、時計がない。チャイムは聞こえるんだろうか。調理授業やるから聞こえるよな。


 「来たか。逃げる事は考えなかったのか?」

 文庫本を閉じて、電気ケトルから紅茶ポットにお湯を注いぎながら言う。


 「まぁ、座りなよ。給食は食べたんだろ。ティータイムだ。ティータイム。」

 「先生!疑われる様な事をしてすいませんでした。箱、返してください。」

 セナ先生に先に何か言われると、自分で考えた事が揺らぐ様な気がして、熱いうちに、形が変わらない様に早く言葉を渡したかった。


 「おお、儀式じゃない謝り方だ。では疑われると何が不味い?」

 疑われると困る。自分が困る。

 自分が困るだけなら謝罪って必要なのか?


 「まぁ、ゆっくり考えろ。その間に茶を淹れるから。」

 冷凍庫から氷と、食器棚ならグラスを持ってきた先生は、今入れた熱い紅茶から

アイスティーを作っている。

 「疑われるのは嫌だ。疑った先生も嫌だったの?疑いたくなかった。それをさせてしまったから。だから……ごめんなさい。」


 アイスティーを作り、コースターと共に二人分机に用意する先生。

 「先生……正解ですか?返してくれますか?」

 「正解というのは特にないが、カナメ君が、謝りたかったのなら。その気持ちは受け取る。気持ちに正解も間違いもない。」


 だから、どっちよ。返す?返さない?

 「紅茶、飲んでいいんだぞ。振る舞われたら飲むもんだ。」


 先生はお茶のグラスに口をつけて、

そして、口を離し、グラスについた口紅を指で拭いた。


  僕も飲んでみた。

 「砂糖も、ミルクも入れないんですか?」

 「入れないと飲めないか?私の趣味もあるが、砂糖もミルクも家庭科室での保存が大変なんだ。茶葉と熱いお湯と冷たい氷さえあればできる。冬は熱いまま飲むがな。口に合わないか?」

 「ミルクティーやレモンティーみたいに、美味しいとは即答できないけど、味も無いのに不思議な味です。」

  これが大人の味というやつか。


 お茶が先生によって熱く熱され、熱されたのに今度は冷やされて。まるで、先生の思い一つで振り回されて、痛ぶられているようで。そうだとしたら僕の舌に残るフレーバーは尊い?

尊い。なのに、味があるようで、どこにも届かない。

 先生の思うままにされるのは、なぜだろう。

 嫌じゃない。だけど……僕は、それを何て呼べばいい?


 「アイスティーはストローを刺して店では提供される。なぜかわかるか?」

 首を横に振る僕。

 「アルコールを提供するカフェやレストランでは、見た目でアルコール入りの飲み物かそうでないかわかる様にストローが刺されている。」

 「ストローが入っていたら、お酒じゃない。」

 「そうだ、サービスもあるが。疑いや疑われるのを避ける為にそうしている。混ざらないようになっている。これは知っているものだけがわかるルールでもある。」


 「そんなルール、知らなかった。」

 「ルールには意味がある。しかし、このルールは時と場所で変わる。タバコを吸ってはいけないというルールは今ここだけだ。」

 「どゆこと?」

 

 「世界には15歳で働いてる人もいる。時代が違えば15歳で戦場にいる人もいた。彼ら全部まとめて15歳だから、酒もタバコもダメだって私なら言えない。」

 「今、ここだから。いけないって事。」

 「『ルールを守れ』なんて、誰でも言える。ルールはその場所とその時で形は変わっていく。でも変わらないものもある。それが大事なんだ。」

こんどは先生が熱くなってない?


 「カナメ君はもうすぐ転校のようだが、転校先ではどんな校則があるかわからない。引っ越す場所によっても暑さや、寒さも変わる。環境がどれだけ変わっても、でもね、絶対に変わらないものがある。それは……」

 

 チャイムの音が鳴る。

 そんな、「予鈴だ。」


 「ちょうどよかった。では次はそういう問いだな。次の本鈴までに授業に戻るんだぞ。」

 「環境が変わっても、変わらないものは何か?でいいんですよね?返してもらえるんですよね?先生ぇ!」






⦅放課後 校舎四階 図書室前 お手洗い⦆


 一人で考え込むのに、トイレの個室がこんなに最適とは……

環境が変わっても、変わらないもの。

トイレという環境だから冷静に考えられる。誰もいないから。

誰かと話す事で、何かが解ることもあれば、何かが解るのに人がいらない場合もあるんだ。


 答えを人に聞くのは簡単だけど、本当にそれが正しいかは、また別の誰かに聞くか、自分で確かめなければならない。

なら、友達がいなくて、知っている先生や、親たちもいなくなったら、僕の“正しい”は誰が判断するんだ?


 僕だけで考えた事で正しいかどうかは判断できるのか?

自分が嫌いなものや好きなものは他人に何か言われたり、されたりした事で変わるだろうか。


 セナ先生に言われた事で、僕の好き嫌いも変わるのだろうか。

アイスティーのあの味。あれは先生が教えてくれたから……また、飲んでみたい。でも、先生がタバコを教えてくれてたら。そんな事は無いとは思うけど。

そしたら、僕にとっていい事なのか?悪い事なのか?


 わからない。


 変化しないものなどこの世にあるのか?



ポチャン


 僕から、以前僕だったものが、便器に溜まった水に落ちる音が響いた。

かわいそうに。さっきまで僕の一部だったのに。それはもう汚物となって、水の底に消える。

 僕は依然、切り離しても。僕のままだ。


 ?


 僕のまま?


 これか、変わらないものは。あった。







⦅放課後 職員室⦆ 


 「先生、先生。変わらないもの。解りました。自分です。

環境がどんなに変わって、人がいなくなっても、集まってきても、季節や気候が変わっても、雨でもヤリでも。世界が滅びても。救われても。自分は変わりません。

腹痛が治っても。治らなくても。死んでも。僕は僕です。変わらず僕なんです。」


 「お、おう。まぁ落ち着け。茶でも飲むか。」

 多分、呼吸を忘れてた。今になって息切れしている。

 「飲み……ます……」







⦅職員用 応接間⦆


 学校でお湯を沸かして、お茶を飲める場所はそんなに多くない。家庭科室と茶道教室、理科室、それらは今、部活中で使えない。給食室も職員以外は入室禁止。

で、応接間?黒い革張りの椅子が僕を迎えた。初めて入った。学校なのに、ここだけ大人の空間が漂っている。


 先生は生活指導ということで通してくれた。没収品の返却だ。それは生活指導の何物でもない。

 再びのアイスティー。

 「環境が変わっても、変わらないものは自分。確かにそうだ。環境とは自分以外のものを指す言葉だ。これを説明されても、自分で辿り着かなければただの言葉だ。」

 「先生。難しいです。正解という事でいいですか。」

 「正解、不正解はない。君の気持ちがそうだという事はわかった。そんなに、箱が必要か?」


  そういうと、箱を取り出して見せる先生。

 「箱より中身です。出さずにそのまま返してください。」

 「中身?中身があるのか?」

 「開けない開けない。そのまま。」

 「中身は何だ?」

 いたずらっぽい笑みを浮かべている先生。

そんな、いたずらな顔をした大人は見たことがない。


 「な、中身ですか……」

 「タバコよりいかがわしいものなら、もっと問題だ。保護者の方にも報告せにゃあならん。」


 本当は知っているのか?中身見たのか?どっちなんだ?


 「勝手に中身は見ない。それは生徒と教師の信頼だ。君の口から教えてほしい。疑いたくはない。」


 なんて、なんて事を……この女(ヒト)は。


 見ているのか?見てないのだとしたら、こんな手は使わない。


 「義とは説明が難しい。中身を言わないと先生は悲しい。そして、君もきっと悲しい。」

ええいっ。

「中身は……ゴムです………」


「ゴム?」


 先生の片眉が跳ね上がる。


 沈黙に耐えられない。

 「髪ゴムです。髪につけるゴムです。」

 「髪ゴムって……君は男だろ。」

 「男でも使うんです。アレです……部活の後、洗顔する時に前髪を上げるのに使います。」

 嘘です。すいません。


 「はぁ、そうなのか。」

 これは……見てないのか……

 「ルールは変わっても……」


 !

 また、別の問題?

 何でもいい、中身についての話から話題を変えたい。

 「はい。」


 聴く態度を見せる事で先生の話を止めない。絶対止めたらダメだ。

 「…それに、従うかどうかは君が決めるべきなんだ。転校してどこに行こうが、君は君について回る。受け入れ難いルールの中に放り込まれても。君の心がそれを受け入れられないなら抗ってみる事だ。」

 止めない。自然に聴く姿勢!


 アイスティーを口に含む。味なんてしない。喉を抜ける冷たさだけは……ずっと覚えているだろうな。この状況も含めて。


 「ルールを作ったのも心だ。辛い悲しみも、耐え難い苦難も二度と味わいなくない。味合わせたくない。そんな心が集まってルールができる。それによって君たち幼い者を守っている。」


 先生はアイスティーに手を伸ばすが、持ち上げようとして、やめて話をつづける。


 「でも、時代や土地によってルールが適用できない時もある。ルールが変わる時もまた、人の心がそうさせる。抗う心と守りたい心がぶつかって、そうやって人間社会の歴史は流れてきた。」


 ようやく先生は一息ついて、アイスティーを飲む。

 相変わらず、グラスの口紅を拭う。

 「歴史は繰り返すというが、同じ歴史を全く同じまま起こった事は無い。」


む、難しい。

 

 「悪かった。私への自問自答が混ざって。解りにくい話になったな。」

 先生は考えを整理しているのか、上を見上げて呼吸を一つした。

 「簡単に言うとな。転校先でも自分を見失うな。」


 最後まで解らない。僕は何をどう頑張ればいいのか解らない。


 


 …でも、なんとなくやってみた。

 「先生。」

 「何だ?」

 「箱、返さなくていいです。中身もそのままで待っていてください。」


 「ん?いらないのか?」

 「転校先には持っていけないし。」

 机の上の箱を見つめる先生。


 「本当は先生の連絡先聞いて、転校先へ行っても、また、会いたいって想うんですけど。やり方が大人みたいで僕にはできません。その髪ゴムを預かっていてもらう、てのが、ちょうどいいのかもしれません。」


*セナ*

 ほほう。コイツは私が一本とられた。

見事なルールへの反抗だ。

 『男子、三日会わざれば刮目して見よ』か、翻弄していたのはこちらのはずだったのだがな。

こう言われれば無碍に断る事も出来ない。


 なんて大人なやり方で。

 「預かってもらわないと。僕は悲しい。先生も、きっと悲しい。」

 

 「わかった……預かっておこう。」


*セナ*

 いやはや、ずいぶんと夢の詰まったゴムを、私は押し付けられてしまったな。


第0章 完

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