第2話 神威と云ふ

 頭がおかしくなる。大っ嫌いな獣に、足元をウロチョロされること以外に、こんなにも殺意がわくこともないだろう。


 獣臭いし、汚いし、危険だし。そんでもって気持ち悪い。

 

 俺の周りをぐるぐる回る、ケダモノの首根っこを掴む。


「さっさと、出てけ」


 ぽい、とドアから追い出せば、ようやく自分だけの世界が広がる。


 この埃臭さが癖になる。そうだ、これが心地いい。心地いい、のに。


 さっき、獣の首元を見てしまった。ああ、首筋に印があったんだ。


 印は。この時代にはもうほとんどが廃止されている。古い歴史の産物。最悪の史実。


 獣身売買のタトゥーだ。


「…………っつはぁぁぁぁぁ」体中の空気を抜けるほどのため息。頭を抱えて、前髪をくしゃくしゃにする。


 そして、また。ドアを開けた。


 *


「………………ただいま〜」


 そーっとマンションの一室に体を入れ込む。


 妙に重くて、臭い鞄を持ちながら。


「おい、暴れんな。捨てんぞ」


 言ったところで、この生き物には理解できていないのだろう。半ば諦めながら鞄のファスナーを開けてやる。


 ぴょこ、と長い耳が飛び出して、すぐに顔も出す。


 鼻をヒクヒクさせながら、俺の目を見た。薄桃色が塗りたくられた瞳。


 首を傾げるも、何が言いたいのか分かるわけもなく、俺は鼻をつまみながら怪訝な目をする。

 

「なんでこんなに獣ってのは臭えんだよ…………」


 俺は家がこれ以上臭くなる前に、コイツを洗おうと決めた。


 ひょいと体を持ち上げてやる。いやに重くて、それが俺とは違う生物なんだと理解するみたいで気持ち悪い。


 風呂場には、少し残った湿気と一滴ずつ落ちるシャワーの残り。さっさと洗ってしまおう。


 俺はマスク、ゴム手袋、帽子の3段階防具で獣の頭に水をかける。


 ゆっくりと、できるだけぬるま湯で、少しずつ。


 耳に水が付くたびに、体を震わせようとするので力づくでスピードマックスで、泡だらけにする。


 そして洗い流す。その時、獣の首元のタトゥーがまた目に入る。


 ぴたりと手を止める。泡を指先で退かしてよく見れば、それは俺の知っている印だった。


「牙に猿の手……沈黙の印か」


 牙は令すること。猿は言わざる。手には2つの繋ぎ目を。


 簡単な方程式を頭で作り上げる。よく俺の隣で同じように、もっと手早く方程式を組み上げる無精髭のジジイが頭に浮かんで舌打ちをする。


 俺は、あるボトルから透明な液体を少し出して、獣の印の部分に塗り込む。


 そうすれば、たちまち印は消えた。


「……ありがとう、人間」


「やっぱ話せなかったのか」


 なんとも非道なやり方だ。が、これが世間には公表されない、獣人の存在のあり方である。


 いまだに差別は消えない。特に若い獣たちは、高値で取引されているそうだ。


「人間。名前は」


「てめえから言えよ」


 突き放すように言うと、獣はその小さな手を顎につけて悩むようにする。


神威かむい


「…………? それが名前か?」


「うむ、我は兼ねてよりこの名でしか呼ばれたことはない」


「…………??? 親とか、そういうのは?」


「おらぬ。居てもとうに死んでおろう」


「…………?????????」


 どう見てもガキ。いや、ガキそのものの獣、「神威」はそう言って真っ直ぐ俺を見る。


 嘘をついているようには見えなかった。


 じっと見つめあっていると、突然ドアの開く音が聞こえる。


「たっだいっまぁ〜」


 俺は1mくらい座ったまま飛び上がると、急いで神威を持ち上げ風呂場を後にする。


 洗面所に出て、洗って干してあったタオルで拭いてやれば、神威は見違えるほど美しい毛並みをその肌に宿した。


 おお、と感心してしまっていると。


「あれ? レオくん帰ってきてるの〜?」


 しまった。靴をそのままにしていた。俺は咄嗟に洗面所の鍵を閉めようと手を伸ばすも、その下を潜り抜けるように神威は走る。


「ちょっ、おま……!」


 全力ダッシュの神威。俺は舌打ちしながら立ち上がって追いかける。


「待てッ、まじでっっっ!」


 途中滑って転びそうになるも、なんとか持ち堪え神威を追う。


 突然神威は立ち止まる。パッと上を見ると、俺らを見下ろす女の影が……。


 落としたビニール袋から人参やらじゃがいも、玉ねぎが転がる。


「レオくん……、この子、誰?」


 真上で口を押さえて驚いている、俺の実の姉は、這いつくばった俺と、足元でじっと見つめる神威を交互に見ている。


「あーーー……………………拾った?」


「……どこで?」


「あーーー……………………………………雨の降る、そうだな…………公園の中……段ボールの中にこいつは居て…………」


「……それで?」


「……………………………………そんで、俺は傘をさして、こいつに言った……………………『お前も1人なのか……』って――」


 しんと張り詰める空間。姉貴の目は見えない。どくどくと鳴る心臓が、張り裂けそうなほど膨張する。


 流石にベタ過ぎたか!? あの天然ギャルの姉貴でも、騙せないか!?


 徐々に姉貴の目が見えるよう、顔を上げ――。


「なーーーーーーーーーーんだ、レオくんが言うなら、そうなんだもんね!!! かわいいね、なんて名前の子なの?」


「神威である」


「神威!めちゃくちゃイカつい!ギャップえぐい、かわいいーー! あたしは、竜胆 舞巴りんどう まいはだよ!」


 大きな目をぱっちりと開きながら神威は、その小さな体を姉貴が有無を言わさず抱き上げても何も言わなかった。


「わ、モフモフモフモフ! 激かわなんですケド~~~~~~~~~~~~~!!!!!!!!!!!!!!!!!」


「姉貴、姉貴。神威がつぶれてる……」


 まるで本物のぬいぐるみかのように、姉貴の思いのままにされる神威は瞬き一つしていない。


 少し気の毒になったのでなんとかして姉貴の腕から神威を引きはがしてやった。


 まだ少し濡れた毛が服を濡らす。

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