第8話 確かめたいこと 〔琴香〕
勘違い、したことがある。人生で、何度か。
例えば、社会人になって3年目、大学の部活の同窓会でのことだ。
わたしは大学の頃、オーケストラ部でトロンボーンを吹いていた。オーケストラでメインのメロディを奏でるのはなんといっても弦楽器や木管楽器で、金管楽器は派手さや重厚感が必要な時に呼び出されるに過ぎなかったけれど。わたしはその役割が好きだった。みんなを支えている、盛り上げ役、という感じがして。
大学の頃、わたしは同じ部内でチェロを弾いていた後輩の女の子と付き合っていた。しかも部内では、それは公然の事実となっていて。わたしが女性を好きになる人だということは、他の部員にも案外抵抗なく受け入れられていたし、彼女も、周囲に関係を知られることについて、特に気にすることはない様子だった。「別に、事実だし。逆に隠す意味が分からない」というのが、彼女の弁だ。
わたしの大学の卒業と同時に、その彼女とは、いろいろあって別れた。3年後に同窓会で会った時には、差し障りのない程度の思い出話をしながら、和やかに再会することができた。彼女には、その時すでに、彼氏がいた。
その時「勘違い」があったのは、別の後輩とだった。
元カノと同じ、チェロを弾いていた後輩で、名前を
朔は同窓会の席で、途中からわたしの隣に座った。
「琴香さんって、いまも女性と付き合ってるんですか?」
朔と私の元カノは、同じパートでしょっちゅう一緒に練習していた。だから、きっとそれなりに、わたしと元カノについての、いろんな話を知っていたんだろう。ただ、朔と元カノはそれほど仲が良くなかったみたいだった。性格が、あまり合わなかったようで。
「いやぁ、社会人になってからは、女性とは付き合ってないね。むしろ彼氏はいた。こないだ別れたけど」
「へぇ、琴香さんって両方イケる人だったんですね」
「イケるイケないって……。まあ、そのへん、よく分からないんだけどね、自分でも。探り探り、というか」
言いながら苦笑する。
この子、ずいぶん、ずかずかと踏み込んでくるな、と思った。そういえば、大学の頃からこの子はこんな感じだったな、と思い出す。
朔は、元カノとは全然違うタイプだった。元カノは、どちらかといえば控えめで不愛想だけれど、相手を大切に扱う人だったから。そりゃあ合わないはずだ。
「私、ずっと羨ましかったんです。いつも琴香さんといっしょに居られる、あの子が」
少しお酒も回り始めたころ、朔はそのように言った。
朔は愛嬌があって、自己主張をちゃんとするタイプで、表情豊かで。踏み込んでも大丈夫そうな隙もある子だった。元カノとは全然違うタイプだったけれど、そんな可愛らしい子にそんな風に言われたら、わたしも変に、意識してしまった。
え、それってわたしのこと、好きだったってこと?
って、思って。
後から聞いたところによると、あの発言はわたしのことを好きだったとかそういうことではなくて、部内に恋人がいるというその状況が羨ましい、という話だったそうなのだけれど。正直なところ、わたしは誤解してしまった。まあ、朔としては、誤解させようとしていた部分も、あったのだろうし。
お酒もはいっていたこともあり、女の子とそういう空気になるのも久しぶりだったこともあって。同窓会が終わった後、わたしは二次会には行かずに、朔と二人で飲み直すことにした。
朔と二人でその場を去ろうとしたとき、元カノに手を引かれ、「琴香、大丈夫?」と耳打ちされた。心配そうな様子だった。「何が?」と問うと、「朔と……どこか行くの?」と、聞かれた。
わたしは、そこでも少々、勘違いしてしまった。元カノが、嫉妬してくれているのかと思って。
もちろん、その時すでに元カノへの気持ちは、ちゃんと落ち着いてはいたけれど。わたしのことでまだ嫉妬なんかしてくれるんだ、なんて思って、ちょっと浮かれてしまった。
「あ、うん。ちょっと飲み直すだけ。特に何もないよ。大丈夫」
「そう、なら、いいけれど」
今思えば、あれは嫉妬でもなんでもなくて、朔のこともわたしのこともよく知っていた彼女が、本当に、ただただ心配してくれていたのだろう。わたしが朔に、傷つけられるんじゃないかと。
彼女は、思いやりのある人だったから。
朔と二人で飲み直して、やたらと距離が近いな、とか、ボディタッチが多いな、とかは思っていたけれど。
結局、朔は終電がなくなったとのことで、私の家に泊まりに来た。いわゆるお持ち帰り、というやつだったのだと思う。
その夜に、わたしは、朔と事に及んだ。
人肌恋しいから抱きしめてくれと言われて、ベッドの中で、抱きしめて。冗談交じりにいろんなところを触ったりしているうちに、すごくシたくなってきてしてしまって。いや、これはもうむしろOKってことでしょ、なんて思ってしまい、気づいたら彼女のあごを引いて、キスしていた。彼女は特に拒まずに、その行為に応えてくれた。
舌をさしこんで、ぼうっとしていく思考の中で、「あー、女の子とこういうことすんのひさしぶりだな」と、冷静な自分が思っていた。その少し前まで付き合っていた彼としたときよりも、触れるすべてが、ずっと肌理が細かくて、柔らかくて、気持ちよくて。元カノのことも思い出したけれど、それとも少し、違っていた。
朔という、ひとりの女性の、無二の感覚だった。
「ずっと羨ましかった」という、さっきの言葉も思い出され、そんな風に率直に欲望をぶつけてくれる彼女のことが、かわいく思えてしまって。
わたしは、心を込めて、朔に触れた。
それが、いけなかった。
たぶん、そんな風に触れてしまったから、情が移ってしまったのだ。
今思えば、性格はどちらかというと苦手なタイプだったし、見た目も雰囲気も、別にさほど好みでもなかったのに。その夜以来、わたしの頭の中は、彼女のことでいっぱいになった。しばらくの間、思い出して、つらくなって、忘れるのに苦労するほどに。
でも、情事の翌朝の朔は、非常にあっさりしていた。
「え、琴香さんがしたかっただけでしょ。私は別に、そんなつもり、ありませんでした。でも、私としてもいい経験になりました。ありがとうございます」
言って、彼女は満足そうに微笑んだ。残酷なまでに、後腐れなく。
わたしは心を持っていかれたけれど、彼女としてはただの「経験」のつもりだったらしく。
そんな風に特異な「経験」として消費されるような性癖をもって生まれてしまった自分も、そんな人に欲情して事に及んで、情が移って苦しくなってしまう自分の心も、馬鹿馬鹿しくて、痛々しくて、気持ち悪くて、どうしようもなかった。
鷹見さんからの着信通知が来た時、それに出ようかどうか、迷った。
鷹見さんと土井くんを二人きりにするために嘘をついてしまった気まずさもあったし、土井くんと二人で楽しく過ごした後の鷹見さんの声なんか、聞きたくなかったから。土井くんはちょっと気が急いてしまったようで、今日はあまりうまくいかなかったようだけれど。
結局電話には出たのだけれど、鷹見さんはついぞ見たことがないようなお怒りモードで。正直言って、電話に出たことを後悔した。結局嘘をついたことも、ばれてしまったし。
しかも、会いたい、とも言われた。山崎さんに会いたい、って。そんな風に言われたら、勘違いしそうになってしまうから、本当にやめてほしい。
でも、土井くんが酔いつぶれてどうにもならないというし、わたしが行かなかったばかりに鷹見さん一人でそんな目に合っているというのなら、その状況の責任はわたしにも少しはあるのだろうな、と思って。
わたしは、部屋着から着替えて、諸々の身なりを整えて、『寿司 やま
「あ、琴香さん。いらっしゃいませ」
『やま喜』の暖簾をくぐると、顔見知りの店員が、明るく声をかけてくれた。
奥のカウンターを見ると、だらしない声で眠りこけている土井くんと、こちらに向かって会釈している鷹見さんがいた。
「あー、輝咲ちゃん。ごめんね、後輩が迷惑かけたみたいで」
「後輩?」
顔見知りの店員ーー輝咲ちゃんは、きょとんとしている。
「あそこで寝てるの、わたしの後輩なんだ」
「へぇ」
輝咲ちゃんが、興味を惹かれたみたいに振り返る。
「じゃあ、鈴音の後輩さんでもあるんです?」
「まぁ、そうなるかな」
「そうですか、なら、サービスしないと!」
「いや、いいよ。もう帰るから。わたし、あの後輩を連れ帰りに来たんだ」
「そうなんですか」
輝咲ちゃんは少し残念そうだったけれど、すぐに奥へ引っ込み、土井くんのためのタクシーを呼びに行ってくれた。
鷹見さんはわたしを見るなり、にこりともせずに、自身の隣の席の椅子をスッと引いた。
ここに座れという意味らしい。
どうしよう。無表情すぎて、怖い。
わたしはおとなしくそこに腰かけ、「今日は、ごめんね」と謝った。
「なんだか、土井くんはともかく、鷹見さんには、悪いことしちゃったかな」
「ええ、そうですね。そう思います」
……やはり、鷹見紗奈は容赦がなかった。
どうすればいいんだろう。こういう緊張感のある状態は、なんとか今日中に挽回したい。関係って、こじらせてしまうと後から修復するのは大変だから。
「タクシーが来たら、土井くんはとりあえず帰して、二人で飲み直そうか」
「全部、山崎さんのおごりなら行きます」
「そりゃ、もちろん」
そんなことくらいでこの緊張感が解けるなら、願ってもないことだった。
それなりに早い時間だったこともあってか、輝咲ちゃんが電話で呼んでくれたタクシーは、案外すぐに来た。
わたしは、「土井くん、土井くん! ほら、帰るよ、起きて!!」と声をかけて彼を叩き起こし、タクシーに突っ込んだ。
土井くんは、目覚めてからはそれなりにはっきりしていて、タクシーの運転手さんに自分で住所を伝え、「山崎さん、わざわざ来てくださってありがとうございました!」とにこやかに言って去っていった。
……たぶん次会った時に聞いてみたら、今日わたしがここに来たこと、覚えていないんだろうなぁ。土井くん。
はっきりしている風だったけれど、目がもう、完全に酔っぱらっている人のそれだった。まぁでもきっと、大丈夫だろう。土井くんは飲み会のときいつもあんな感じでひとりでちゃんと帰ってるし。
そういうわけで、わたしと鷹見さんはお会計をすませ、『寿司 やま喜』の前で二人きりになった。
すると、鷹見さんは「少し、歩きましょうか」と言って、繁華街とは逆の方向へ向かって歩き出した。わたしは、あれ、もう一軒いくんじゃなかったのかな、と思いながら、おとなしく後をついていった。
しばらく歩くと、閑静な住宅街に入った。こっちが鷹見さんの家の方なのかな、あ、もしかして飲み直すって、家で、って思ったのかな、となんとなく考えていると、鷹見さんは、その薄暗い道の途中で立ち止まり、わたしの方を振り返った。
「山崎さん。私、ひとつ、確かめたいことがあります」
「確かめたいこと?」
なんだろう。
わたしが首を傾げていると、鷹見さんは、両手を広げて、それをわたしに差し出すようにした。
「抱きしめてください」
「……え?」
何を言われたのかがよく分からなかった。
……え? なに?
もしかして鷹見さんも、実は相当酔っぱらってる?
「いや、鷹見さん……あの……」
「私は正気です。生ビールジョッキで一杯しか飲んでません」
わたしの言葉を遮るように、鷹見さんは言う。
いや、わたし、そもそも君と飲みに行ったことないから、生ビールジョッキ一杯が君にとって多いのか少ないのかなんて分からないよ……。
動揺を隠しきれずにおどおどしていると、鷹見さんは再び、両手をグッとわたしのほうに差し出して、言った。
「いいから、抱きしめてください」
どういうことなの。いいからって何。
なんでわたしが鷹見さんを抱きしめないといけないの。
わけが分からなすぎる。
「……どうして?」
とりあえず、理由を聞こう。鷹見さんにも何か考えがあるのかもしれない。
「確かめたいからです」
「確かめたいから?」
「はい。私はもう、私自身の気持ちは分かったので。山崎さんはどうなのかが、知りたいです」
……どういうことだ。
「抱きしめたら、なんかわかるの?」
「はい。そう思ってます」
わたしは、ひとつため息をついた。こういう、思わせぶりなこと、本当にやめてほしいのだけれど。
もう変に傷つきたくないし。だいたい、鷹見さんは会社の後輩なのだし、こんなに近くで関係をこじらせたら、ややこしいし。
ただ、こうなった鷹見紗奈はきっと聞かないのだろうなということも、これまでの付き合いでなんとなく分かっていたから。
わたしは鷹見さんが差し出した両手に収まるようにして、一歩踏み出して、そのまま彼女の背をぎゅっと抱き寄せた。
「……これでいい?」
「……はい」
彼女は返事と同時に、私の背をぎゅっと抱きしめ返した。
そうしてしばらくじっとしていたかと思うと、身体を離して、わたしの顔を見上げた。
……近いな。
鷹見さんは何かを確認するように、わたしの顔をまっすぐに見上げて。再び、わたしに抱きついた。
なんだろう、これ。新手の拷問だろうか。
わたしは耐えられなくなり、鷹見さんに抗議する。
「……あのさ、鷹見さん、こういうの……ちょっと、こま…」
「分かった気がします」
「ん?」
「山崎さんの、気持ち」
わたしの、気持ち……?
「何をそんなに、怖がってるんですか?」
「え?」
「私のこと、好きなんでしょう?」
その言葉を聞いた時、心に走ったのは絶望だった。
ああ、決して知られてはいけないことを知られてしまった。なんでこんなことになってしまったんだろう、と。
わたしは身体を強張らせ、鷹見さんを引きはがそうとした。
けれど、それは許されなかった。鷹見さんはわたしをぎゅっと抱きしめて、離さない。
「なんで、逃げようとするんですか」
「やめてよ、鷹見さん。ほんとに。興味本位でこういうことするの、良くないって」
ついつい、口調が強くなってしまう。
「興味本位? 何を言っているんですか。私は別に、ふざけてなんかいません。ほんとうのことを確かめたかっただけです」
「ほんとうのこと?」
「山崎さんの気持ち、です」
だから、そんなことを知ってどうなるというんだろう。
鷹見さんは……
「抱きしめてもらって、確認できました。山崎さんの気持ちが。どうですか? 山崎さんには、伝わりませんか?」
そこまで言われて、ふと、気づく。
あれ、震えてる。
わたしの背中で、わたしを閉じ込めて離さない鷹見さんの腕が、かすかに。
それでも優しく、きゅっとわたしを抱きしめて離さないその手は、言葉以上に、何かを伝えているような気がして。
わたしはそれを受け取ろうと、してみた。
強張っていた身体の力を抜いて。改めて、両腕で丁寧に彼女を包み込む。想いを伝えるようにして。
すると、わたしに回された鷹見さん腕の、かすかな震えが止まって。
彼女の手が、私の背を、ゆっくりとなでた。
大丈夫だよ、とわたしをあやすように。優しく、優しく。
その手はまるで、私も好きだよ、あなたも好きでいていいんだよ、と、繰り返し、伝えてくれているようで。
それだけで、十分だった。鷹見さんがわたしに向けてくれている、あたたかな気持ちを知るには。
ああ、そうか。鷹見さんは、ちゃんとわたしの気持ちを見つけて、受け取ってくれたんだ。
ほっとして、何かが緩むみたいにして、気づいたら涙がこぼれていた。
鷹見さんは、そんなわたしの頭を、慈しむように撫でた。
「なんだ。案外、臆病者だったんですね。山崎さんって」
鷹見さんはどこか腑に落ちたように、そう言った。
「……うん、まあ……そうなのかもしれない」
わたしはなんだか気恥ずかしくて、ずっ、と洟をすすりながら、鷹見さんを抱きしめる力を強くした。
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