第7話 不在の在 〔紗奈〕

「え、帰っていいかな、じゃあ」

 と、思ったままを口にしたら、土井くんは随分慌てた様子だった。

「まあ、まあ。僕も迷ったんだけどさ、せっかくだから水族館で遊んでいこうよ」

 何がどう、せっかくなんだろう。

 先々週、山崎さんと三人で水族館へ行こうと約束して。

 約束の通り、本日14時半に、待ち合わせ場所であるおおた水族館の入り口付近に行ったら、土井くんしか来なくて。

 その土井くんから、「今日、山崎さん、体調悪くて来れなくなっちゃったんだって」と聞かされた。

 だいたい、山崎さんは私のLINEも知っているくせに、連絡ひとつ入れてこないとはどういう了見だろう。謝罪の一つくらいあってもいいようなものだと思うのだけれど。

「山崎さんも、申し訳ないって言ってたよ。楽しんできて、って。ほら、16時からイルカショーもあるらしいしさ、見に行こうよ」

 何とも言えずに黙って腹を立てていたら、土井くんになだめすかされるようにして、あれよあれよという間に、水族館へと入館していた。営業部の人たちって、こういうところがほんとに上手だな、とつくづく思う。押しが強そうに見えないのに、結局のところ、手のひらの上で踊らされている。

 山崎さんとあの日の夜に来て以来の、水族館だ。

 地震があった日のランチで、この予定が決まったのだったけれど。

 私は正直なところ、「あ、裏切られたな」と思った。梯子を外された感じ、というか。

 私は私自身の感情はよく分からなかったけれど、山崎さんからある程度の好意を向けてもらっていたことくらいは、分かっていた。涙を流してしまった時に握った手も、大水槽の前で私を見る目も、とても、優しくて、あたたかかったから。

 それがどういう種類の感情なのかはさておいて、少なくとも、山崎さんがあの夜、社内の他の誰かと同じように、ではなく、特別に、私を大切にしてくれたのだということは分かった。だから、寄りかかってみよう、と思ったのに。そのために、雑談に苦手意識が強いにも関わらず、がんばってLINEだって送ってみていた、というのに。

 なんでそこに、土井くんを入れてしまうのだろう。

 あの人のコミュニケーション能力なら、話題をうまく逸らしたり、おおた水族館以外の場所に三人で行くことを提案したりすることだって、簡単にできたはずだ。せっかく距離が近づいてきたと感じていたところへ、あんな風に急に梯子を外されるとは、思ってもみなかったし、その意味もよく分からなかった。

 私は、山崎さんにもっと近づいてみたいと、思っていたのに。

 まあもう、いいのだけれど。

「おお、ここの水槽、でっかいなぁ! 天井まである!!」

 大水槽のところまで来た時、土井くんは、えらくその大きさに感動していた。

 大水槽は室内にあって昼でも薄暗く、あの夜と、雰囲気としてはさほど変わらない。元彼に振られてすぐだったから、あの時はまだ、この水槽を見ても、思い出すのは彼のことばかりだった、けれど。

 いま思い起こされるのは、そうやって梯子を外した人のこと、だった。

「鷹見は、何度か来た事あるの? おおた水族館」

「ええ、まあ」

 土井くんに話しかけられ、質問に答えるだけの返事をする。ハコフグを目で探したけれど、見える範囲にはいないみたいだった。どこか岩陰にでも潜んでいるのかもしれない。

 私はこのあいだのランチの時、ああ、たぶん土井くんは、山崎さんのことが好きなんだろうな、と思った。

 地震が起きたら心配で書庫まで見に来たりするくらいだし、山崎さんのことをやたらと自慢げに話すし、山崎さんと同じものを食べたがるし。山崎さんが、土井くんに彼女がいるのかどうか聞いた時には、「え、もしかして両想い…?」と思ってびっくりしたけれど。

 土井くんの気持ちも分かる。山崎さんは、容姿端麗だし、気さくだし、いい人だし、優しいし、仕事もできるし。好きになってしまったとしても、全然不自然ではないと思う。

 というか、そんななのだから、土井くんとて、せっかくこぎつけた山崎さんとのおでかけの機会に私と二人なんて不本意だろうに。そう思うと、こんな状況の中で、しかも若干不機嫌な私の相手をしなければならない彼が不憫に思えた。

 それもこれも、山崎さんがタイミング悪く体調を崩したりするからだ。

 ……仕方ない。

 私は気持ちを切り替えて、このかわいそうな同期のために、もう少しこの時間を楽しく過ごすための努力をしようと決めた。

「私、元彼と付き合ってた時に、よくここに来てたんだ。そこに、ソファがあるから、座る?」

「ソファ?」

 土井くんと一緒に振り返ると、ちょうど一つ、ソファに空きがあった。

「ほんとだ。うん、いいね、座ってちょっとゆっくりしよう」

 土井くんは、むすっとしていた私が少しは好意的に話し始めたことに安心したのか、嬉しそうに笑ってくれた。

 よく考えてみれば、せっかくお金を払って水族館に入館しているのだから、不機嫌に過ごすなんてもったいない。土井くんも私も被害者なのだから、支えあって楽しくやろうじゃないか、と。

 私も、そういう気分になってきた。

 それからしばらく、大水槽を見ながら、土井くんと話をした。

 土井くんは、大学の時から付き合ってきたという彼女に振られた話を聞かせてくれた。といっても、私としては、さほど親しくもない同僚と、まったく知らない女性とが別れたという話に対して、どういう感想を持てばよいのかいまいち分からなかった。

 だから、「そっか」「うん、辛かったね」「へえ、それはどうかと思うね」と、できるだけ土井くん側の立場に寄り添いながら、当たり障りのない感想だけ、口にするようにした。私はすぐに物事を俯瞰して見ようとしてしまう癖があるため、ともすれば、話してくれている側の人の立場を批判し始めたりしてしまうから。それが相手をいやな気持にさせてしまう、ということくらいは、この二十年と少しの人生の中で、少しは学んできたつもりだった。

 土井くんによると、「求めるものが違ってたんだよね、僕ら」ということらしく。どうやらそれが、二人の関係の終わりについての、簡潔なまとめらしかった。

 曰く、彼女はずっと〝彼女扱い〟して欲しかったとのことで。対して土井くんは、彼女と〝家族みたい〟になりたかったとのことで。社会人になり、同棲するようになって、一緒に暮らしていくうちに〝彼女扱い〟してくれなくなっていった土井くんに、彼女が不満を募らせてしまったらしい。

「ドキドキしなくなったんだってさ。そんなの、しなくなるよね、普通」

 土井くんは苦笑する。

 どうだろう。私はそもそもそんなにドキドキしたりしないし、それほど長く人と付き合ったことがないので、よく分からない。

 でも、そうは答えない。

「そうだね。長くいれば〝家族みたい〟になりたいと思う方が、自然だと思う」

 と、同調しておく。

 こういうとき、私は、投げかけられた話題に対する応答の「正解」を探すゲームをしている気分になる。

 興味はない、共感もできない、でも、それなりに気分よく会話をして楽しく時間を過ごしたい。

 大水槽はきれいだし、ここに座っていることは、やぶさかではない。であれば、無言で座っているよりも、適当な会話を交わしながら座っていた方が自然だから。

 私の方からは特に話すべきことも、話したいこともなかったから、ひたすらに土井くんの話を聞いた。

 けれど、15時半ごろになり、そろそろイルカショーの会場に移動した方がよさそうだな、と頭の片隅で思い始めたころ。

 私と私の元彼のことに、話が及んだ。

「で、鷹見はここによく彼と来てたんだって?」

「あー、うん」

 彼とのことを思い起こしても、その直後に、山崎さんのことが頭に浮かんだ。

 記憶が混線しているみたいだった。ここで彼のことを思い起こすということが、そのまま、この前の夜の記憶を呼び覚ますスイッチになってしまっているのかもしれない。

「そうだね。ちょうどこのソファで、彼に告白されたんだ」

「へぇ。どんなふうに?」

「どんなふうに、って……」

 好きだよ、って、言われて。私も好きだよ、って返して。そしたら……

 言葉に詰まっていると、ふと、土井くんの表情がこれまでと異なっていることに気づいた。

 大水槽の青いライトに、顔の半分が照らされて。その光を反射した瞳が、まっすぐこちらを向いている。真剣で、強い視線。

 これまで見たことのない表情だった。

 ただの同僚として会社で会っている時には、決して、見せることのない表情。

 あれ……? え……?

 まずいな、これ、もしかして、……

 こういう表情、こういう雰囲気、既視感がある。

 土井くんが口を開いて、何かを言いかける。ある可能性が、頭に浮かぶ。

 ……あ。無理だ。

「鷹見、あのさ……」

「土井くん、イルカショー、はじまっちゃうし、行こうか!」

 私は慌てて立ち上がって、イルカスタジアムの方を指さす。彼の顔は見れない。どこまで踏み込むつもりかは知らないけれど、頼むからその続きは言わないでほしい。

 つつがなくイルカショーを見終えて、はやく、家に帰りたい。

 土井くんは、はは、と可笑しそうに笑って、「そうだな、行こうか!」と元気よく答え、歩き出した。私は彼の後について、イルカスタジアムへと向かった。もうショーなんかいいから、とにかくはやく帰りたい、と、強く心に思いながら。



 それで、どうしてこんなことになっているのだろう。

 私はカウンターで真っ赤な顔をしてさらに生ビールを追加で頼もうとする土井くんを見ながら、不思議で仕方なかった。

 すごく帰りたいと思っていたのに。水族館の出口で、ばいばい、と言って別れるつもりだったのに。

 なんだかんだと言いくるめられて、営業部の部長のオススメだという寿司屋まで来て、なぜか今、こうして土井くんと二人でお酒を飲みながら寿司を食べている。

 ……だって、ものすごくおいしい寿司屋だというし、今日はすべて土井くんのおごりだというし、しかもそれは彼女へのプロポーズ用に貯金していたお金を使ってしまうためだというから、協力した方がむしろ良さそうだったし、私には何の損もないし。

 けれど、もうすでに後悔していた。

 土井くんはハイスピードで生ビールを飲んで、さっきから延々と同じ話を繰り返している。

 自分がいかに彼女に尽くしていたか。

 結婚を考えていて、家庭を築きたくて、そのための準備をどんな風にしていたか。

 ……知らないよ、そんなの。

 私にとっては本当にどうでもいい話だし、私の相槌なんかほとんど聞こえていなさそうだから、応答の「正解」が何かすら分からない。というか、話がループしている上に論理的なつながりがないから、聞いていてイライラする。

 しまいにはカウンターの上でうとうとと寝始めたので、頭をしばいてやろうかと思ったが、すんでのところで踏みとどまった。

「お連れ様、大丈夫ですかね? お水、お持ちしましょうか?」

 背の高い女性の店員さんが、身体をかがめて、気づかわしげに土井くんを見てきた。

 ……恥ずかしい。

「いえ、大丈夫です。ご迷惑をおかけして、すみません」

「そうですか。何か力になれることがあれば、遠慮なく言ってくださいね」

 にこ、と笑いかけて、店員さんが去っていく。

 あんな年若い感じの店員さんにまで心配かけて、情けない。

 私は、そうだ、と、思いついて。

 酔いつぶれた土井くんの写真を撮った。そしてそれを、山崎さんに、LINEで送り付けた。

 あなたのせいでこんなことになっているんですよ、という気持ちを込めて。

 すぐに、返信が返ってくる。

〈おー、出来上がってんねー〉

 ……それだけか。

 他に何かないのだろうか、と思っていたら、もう一つ、メッセージが来た。

〈今日は、行けなくてごめんね! 楽しかった?〉

 私はもうこの時には、すごく腹が立っていて。でもそれを直接言うのが癪で、〈ええ、楽しかったですよ〉と返した。

 あなたのことを何度も思い出していました、というのは、絶対に伝えてやらないと思った。

 代わりに、さっきのことを言っておいてやろうと思った。というのも、イルカショーを見て、美味しい寿司を食べて、土井くんの話に適当に相槌を打っているうちに、私はもう、山崎さんがどうして急に〝体調を崩した〟のか、なんとなく分かり始めていたから。そして、それが分かってしまったら、私自身の気持ちを完全に無視したその行動に、先日裏切られたときよりもずっと、腹立たしい気分になってしまっていたから。

〈今日、土井くんと、変な空気になりました〉

 告白されそうになりました、とまでは言わなかった。そこまでの確証はさすがになかったから。

 メッセージはすぐに既読になった。けれど、なかなか返信が来なかった。

 たっぷり5分ほどして、返信があった。

〈へぇ、土井くん、ちょっと急ぎすぎたね〉

 笑い顔の絵文字がついている。

 どの口が言うんだ、とよけいに腹が立った。

〈なんで私たちを二人にしたんですか〉

 回りくどく問うてもきっと躱されると思い、率直に聞いた。

 これには、けっこうすぐに返信があった。

〈土井くんのこと、応援しようと思って〉

 ほら、やっぱり。私の気持ちがまったく考慮されていない。

 ……ふざけるな。

 私は水を一口飲んで、怒りを鎮めて。通話ボタンをタップした。

 私ももしかしたら、少しばかり、酔っていたのかもしれない。赤い顔ですやすやと眠る土井くんの横で、私は山崎さんが電話に出るのを、ひたすらに待った。

 なかなか、出ない。

 絶対、スマホの向こう側にいるのに。

『……もしもし?』

 やっと出たと思ったら、山崎さんの声色は、いつになく気まずそうだった。

 ちょっとは申し訳ない、と思っているのかもしれない。

「もしもし。鷹見です。山崎さん、いま、家ですか?」

『え、うん、まぁ』

「体調悪いって、嘘ですよね?」

『………』

「嘘ですよね?」

『…………うん、ごめん』

 なんだろう、こんな感じの山崎さん、初めてかもしれない。

 いつも会社では颯爽としていて、みんなのあこがれの的、みたいな感じなのに。

 なんだかいつになく、弱々しい。

 あれ、でも、そうか。私がこんなに怒っているのも、初めてかもしれない。山崎さんに、こんな風に怒りをぶつけるのも、そもそも。

「じゃあ、今から『やま』に来てください。営業部部長の行きつけの、お寿司屋さんです」

『あー、あそこにいるんだ。なんか見たことあるカウンターだと……え? 今から?』

「はい。土井くん、寝ちゃってて、私一人じゃどうにもならないので」

『あー……、ね』

 山崎さんは、電話の向こうで、しばらく無言になる。珍しいことだ。いつもの彼女なら、会話が途絶えるなんて、起こり得ないのに。

 私は、辛抱強く沈黙に耐えた。ここは、譲るつもりはない。それでも沈黙が続いたので、仕方ないと思い、もう一押し、してみた。

「私は、山崎さんに会いたいです。今日、会いたかったです。だから、来てください」

『………。あー、うん。そっ、か……』

 反応が薄い。

 電話の向こうの山崎さんは、いったいどんな表情をしているのだろう。

『………じゃあ、分かった。……これから着替えていくから。あと30分くらい、待ってて』

 私は思わず、ふっ、と微笑んで。「はい、じゃあ、待ってます」とだけ答えて、電話を切った。

 確かめてみたいことが、あった。

 山崎さんが、ここに来たら。

 ちゃんと確かめないことには、きっと、進むことも引くこともできない、と思ったから。

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