第6話 新しい約束 〔琴香〕

 いや、ほんとに勘弁してほしい。

 さっき書庫で突然地震が来た時、わたしはとっさに鷹見たかみさんを本棚の列から引っ張り出した。

 その時、思いもよらず、彼女を抱きしめるような形になってしまって。

 身体を離そうとしたのに、彼女は「もうちょっとだけ」とか言って、私の首に腕を回してきたのだ。

 分かっている。突然の地震が怖くて、落ち着きたかったのだろう。別にわたしでなくても良かったのだろうし、彼女にとってわたしは、恋愛対象になることなんて思いもよらない、ただの職場の先輩にすぎない。

 わたしはどうすることもできずに、彼女が早く落ち着くようにと、背をぽんぽんと手で撫でていたが。誰もいない書庫で憎からず思っている子に抱きつかれて、なんだかもう、ほとんど修行僧の心持だった。

 理性が崩壊しなかっただけでも褒めてほしい。

 だいたい、鷹見さんは無防備すぎるのだ。

 このあいだ、水族館で頬に手を添えた時にも。そのまましても拒まなさそうな雰囲気を出していた。

 でも、だまされない。こういう子がいちばん厄介なんだ。そのまま拒まずに、軽い気持ちで、興味本位みたいにして受け入れた後に、「え? 私はそんなつもりなかったけど。琴香がしたかっただけでしょ?」とか言って、なかったことにしようとするんだ、わたしは知ってる。

 そうなってしんどいのは、ほんとの気持ちを抱えてる、こっちなんだ。身体の関係を結んでしまったら、どうしても心が持っていかれてしまう。

 そういうのは、もう……

山崎やまざきさん、大丈夫です?」

 デスクに座ってこめかみを押さえながら煩悶していると、土井くんが声をかけてくれた。

 わたしは振り返って、彼に向き直る。

「あ、うん。ごめん、業務時間中なのに。なんか動揺しちゃって」

「そりゃ、そうですよ! 書庫、すごいありさまでしたもん。山崎さんと鷹見に怪我がなくて、本当によかったですよ」

 土井どいくんは、爽やかな笑顔を見せる。私が動揺しているのは地震にというより鷹見さんになんだけど、そのあたりは誤解してくれたようでちょうどよかった。

「ありがとうね。土井くんが来てくれて、助かったよ」

 ほんとうに。いろんな意味で。

 あのままあの場にあの状態でいたら、わたしが何をしでかしていたか分からないから。

 土井くんが書庫のドアを開けて入ってきてくれた時に、救世主みたいに見えたのは確かだった。

「いえいえ、僕なんか何もしてないですけれど……」

 土井くんは照れたようにはにかむ。

 いい青年だなぁ……。

「ところで山崎さん。もう12時過ぎましたし、こんな状況でこれから仕事というのもなんなので、ランチでもいっしょにいかがですか?」

「お、いいねぇ」

 後輩からご飯に誘ってもらうというのは、先輩としては嬉しいものだ。

 先輩に誘われると断りづらいかなぁ、なんて思ってしまって、こちらからは誘いにくいものだから。

 わたしはノリノリで「いこう、いこう!」なんて言っていたのだけれど。

 次の瞬間、ギクリと自身の心が軋む音が、聞こえた気がした。

「せっかくなので、鷹見も誘いましょう!」

 何がせっかくなのか、分からなかった。

 が、ああ、そういえばこの土井くんは、鷹見さんと同期なのだったっけ、と思い当たる。

 正直なところ、さっきの今で、鷹見さんと再び顔を合わせるのは、自身の心境として避けたかったのだけれど。結局、「それいいね、誘おっか」なんて思ってもないことを言ってしまったために、鷹見さんを誘って、三人でランチに行くことになった。せめてもと思い、鷹見さんの隣の席の鈴音も誘ってみたのだけれど、今日はお弁当を持ってきているとのことで、残念ながら不参加だった。

 この時に、何かしらの形で断っていれば良かったんだ、何としてでも。お腹痛いとか、方角が悪いとか、多少不自然でも、何か適当なことを言って。

 そうしていれば、あんな思い、せずに済んだかもしれなかったのに。

 


 あれ? そういえばこれが鷹見さんの通常運転だったんだっけ、と思った。

「私、刺身定食にします」

 と、メニューを指していったきり、鷹見さんは、黙り込んでしまう。

 なんだかその表情は、「私は特に話す気がありませんのでお二人でどうぞ」と言っているようにも見えた。

 おおた水族館で鷹見さんと二人でいたときには、会話があるときにも、会話がないときにも、どこか穏やかな空気が流れていた気がしたのだけれど。

 なんだか今の鷹見さんからは、「なんで私はここにいないといけないんですか」くらいの雰囲気すら感じた。ここのところ距離感が近づいていたこともあってか、少しびっくりしてしまったけれど、そういえば鷹見さんはそもそもこういうタイプ、だったような気もする。

 ……でも、ここまで愛想がなかったっけ…?

 どうかしたのかな……?

 ともあれ土井くんは、そんな様子にもめげず、果敢に鷹見さんに話しかけている。

「鷹見とご飯行くの、久しぶりだよなー! 入社当初、何度かいっしょにいってたのに」

「そうだっけ?」

「そうだよ」

 完全な塩対応なのに、土井くんはどこか嬉しそうだ。少しばかり頬を紅潮させて、きらきらした目で鷹見さんを見ている。

 ……ふーん、なるほど。

 まあ、鷹見さん、美人だもんね。分かるよ、分かる。

 君には鷹見さんを口説く資格もあるし、ね。

 わたしはどこか空虚な気分になりながら、メニューを見る。いろいろと検討した結果、こうなったら揚げ物でも食べてやれという気持ちになった。

「天ぷら定食にしようかな、わたしは」

「お、いいですね! 僕も山崎さんと同じのにします」

 にこにこしながら土井くんが言うと、隣の鷹見さんが、ぴくりと身体を強張らせた……気がした。なぜかはよく分からないけれど。

 店員さんを呼んで、それぞれに注文をし、料理が来るのを待つ間。

 わたしはせっかくなので、二人に話題を振ってみる。

「えっと、二人は同期なんだよね? 同い年?」

「そうですね! 同期なんですけど、僕が大学に入るときに一浪してるので、年齢は1つ上なんです」

 土井くんが、自身を指さしながら言う。

「とはいえ、鷹見の方がしっかりしてるから、年齢の上下なんて、あってないようなものなんですけど」

「そうかな? 土井くんの方が社交性あるし、年上っぽいと思うけれど」

 意義あり、といった調子で鷹見さんが声を上げる。決して社交辞令といった感じではなく、認識の齟齬があるために言わずにはいられない、といった感じなのが彼女らしい。

「えー、そっかなぁ?」

 土井くんが、照れた様子で鼻の頭を掻く。鷹見さんは、そんな土井くんの様子を見ながら、特に何の感情も込めずに続ける。

「うん。あんなにいろんな人と調子を合わせながら、気さくに話をできるの、すごいと思う。それは、山崎さんもですが」

「え、そう? ありがと」

 突如、隣に座るわたしの方へと目線を寄越されて、ドキッとする。

 彼女はお世辞を言わない人だから、こういう風に言われると素直に嬉しい。

「そうなんだよ、山崎さんはすごいんだよ、ほんとに」

 土井くんは、自分のことのように、うんうんと嬉しそうにうなずいている。

 鷹見さんは、なぜかそれに対して少しむっとした様子で、

「なんで土井くんがそんな嬉しそうなの」

 と問いただす。

 土井くんは、どこか自慢げに答えた。

「だって、僕の先輩だからね。いいだろ」

 鷹見さんはそれを聞いて、ますますむっとした様子だ。

 なんなんだ、この場。くすぐったいな。

 それにしても、土井くん、楽しそうだな。態度でいろんなことがバレバレだ。視線、無意識の手の動き、水を飲むタイミング。彼が意識している人が、手に取るように“見えて”しまう。

 わたしはなんだか、この善良な後輩のために、手を差し伸べたくなってしまって。

 一石、投じてみることにした。

「ちなみに、土井くんって、彼女いるの?」

『えっ』

 土井くんと鷹見さんが、同時に声を上げてわたしの方を見る。

 あれ? なんで鷹見さんまで?

 まぁいいや。

 土井くんは少し恥ずかしそうに、明後日の方を見て、答える。

「いや、僕いまフリーなんです」

 だろうね。

 その答えに対して、鷹見さんが驚いたように声をあげた。

「え、土井くん、入社する前から付き合ってる子がいるって言ってなかった?」

「振られたんだよー、半年くらい前に」

 土井くんが苦笑する。

「そうなんだ、土井くんも苦労してるんだね。いい子なのに」

 わたしが言うと、土井くんは「いやぁ、まあ、そうでもないからフラれたんですけどね」と、渋い表情だった。

「鷹見も付き合ってる奴がいたんだったよな、確か」

「ああ、うん。私も最近、別れたけど」

 お、いい流れだ。

「えっ、そうなの!?」

 案の定、土井くんは隠しきれないほどの、嬉々とした表情である。

 社交的な彼のことだ、後はどうとでもやるだろう。なんだか、いい仕事をした気がする。

 と完全に油断していたら、思いもよらない方向から、思いもよらない追加のパスがきた。

「山崎さんは、どうなんですか」

「え」

「いま、付き合ってる人とか、いるんですか?」

 問うてきたのは、鷹見さんだった。

 土井くんも、興味津々といった様子でこちらを見てくる。

 うーん、あー……

「いないよ、しばらく前に別れた」

「じゃあ、みんな独り身ですね」

 言いながら、土井くんが可笑しそうに笑う。

「それなら、せっかくなんで、3人で遊びに行きませんか」

 何がせっかくなのかが分からない。本日2回目。

 けれど、土井くんの思惑はよく分かる。

 鷹見さんと、出かけたいんだよね、たぶん。

 仕方ない、付き合ってあげよう。かわいい後輩たちの恋路を応援するためだ。

「え、3人で? なん……」

 何やら抗議しようとする鷹見さんを遮って、わたしは土井くんに同調する。

「いいねー! どこ行く?」

「おおた水族館、とかどうですか? 何周年かみたいで、最近盛り上がってるらしいですし!」

 土井くんはなんの悪びれもなく、爽やかな調子で言う。

 さすがに、わたしも少し、固まってしまう。

 鷹見さんと、今度2人で行こうって、約束した場所だ。あの日に。

 でも正直なところ、わたしは今の気持ちのまま、鷹見さんとあそこへ行くのは、少々辛い。

 チラッと隣の鷹見さんを見ると、わたしの方を見上げていた。

 まっすぐに。

 何かを、訴えるような目で。

 けれど、わたしはその視線の意味が、分からないふりをした。

 もう、そういうのはこりごりだ、と思って。

 勘違い、したらダメなんだ。わたしの役割はたぶん、あの水族館の夜で、ほとんど終わっているのだから。

「いいね、おおた水族館。鷹見さん、水族館好きだって言ってたもんね」

 わたしは、鷹見さんの方を見たまま、微笑んだ。

 鷹見さんは、目をゆっくりと見開き、傷ついたような……悲しそうな、顔をした。

 ごめんね。でも、たぶんこれがいいんだと思うよ。結果的には。

「え、そうなの? 鷹見」

「……ええ、まぁ」

 何かを押し殺したような声で、鷹見さんが答える。

 わたしはもう、隣の鷹見さんの方を見れなかった。

 ……怒ってる?

 まずかったかな。でもまぁ、仕方ないよね。

 彼女を抱きしめる資格すらないわたしとの約束よりも、未来につながる関係を優先する方が、きっと、ずっといいはずだから。

「じゃあいいじゃん、行きましょうよ、おおた水族館! 予定合わせて」

 意気揚々と言う土井くんのもとに、「お待たせしましたー」と、天ぷら定食が運ばれてきた。

 もう一つの天ぷら定食と、刺身定食も。

 わたしたちは、目の前に置かれた定食を、なんてことはない話を交わしながら、てきぱきと食べた。その間、わたしはやっぱり鷹見さんの方を見れなかった。

 ただ、定食屋から帰る時には、鷹見さんは怒っている様子もなく、いつも通りだった。

 と、思う。たぶん。

 かくして、わたしたちは翌週の日曜日に、3人で、おおた水族館に行く約束をした。

 その日から、水族館に行く日まで、鷹見さんからのLINEは一度も来なかった。

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