第5話 掴みかけの感覚 〔紗奈〕
というより、後輩の私がずいぶんと無礼な物言いをしたものだな、山崎さんはよく笑ってそれを許してくれたものだ、と今となっては思う。
『
私は校正の手を止めて、次に再開するべき場所が一目でわかるようにしてから、山崎さんの方を振り返った。
すると、山崎さんは、人好きのしそうな笑顔を湛えて、私に『営業部の山崎です、よろしく』と言った。
第一印象は、〝うわぁ、営業部っぽい人だな〟だった。
『鷹見さんも、この書籍の編集担当したんだよね?』
山崎さんが手にしていたのは、校了印の押されたゲラだった。
私はゲラに印字されたタイトルを、ちらっと見る。
確かに、私も担当した書籍だった。
『はい、橘さんがメインで編集を担当されたのですが、私もご一緒に担当して、OJTを受けさせていただきました』
私は、先輩である山崎さんが立って話しているというのに私が座って話をするのもなんだと思い、立ち上がろうとした。
けれど山崎さんは、『あ、いいからいいから、そのまま』と一言言い、私を制して。
近くにあった簡易な椅子をひょいと持ち上げ、こちらに持ってきて、私のデスクの横に置いて座った。
『鷹見さんにも、この新しい書籍のこと、聞きたいなと思って。今から20分ほど、時間いい?』
私はチラッと時計を見た。20分。それくらいなら、校正にも支障ないだろう。
『はい、大丈夫です、お願いします』
そこから山崎さんに、新しく校了したばかりのその本について、いろいろなことを聞かれた。
質問の内容は、『ちょっとこの書籍の概要を手短に話してみてくれる?』とか、『鷹見さんは、この書籍のどういうところがいちばんおもしろいと思う?』とか、『逆にこういうところは読者の理解が得られにくそうだな、みたいなところある?』とかだった。
私はどの質問にも、おそらく適切に回答できていたと思う。自身の担当した書籍について言語化する貴重な機会を、思いもよらず得られて、それなりに楽しくもあった。
けれども、私は山崎さんの質問に回答しているうちに、正直なところ少し、イライラしてきていた。
学生の頃にも、こういう輩、いたな、と思って。
真面目に勉強して、真摯に学問と向き合っている人間から、いいところだけをくすねようとする輩が。
講義は代返で済ませ、レポート課題の提出が迫ると、講義に出ている人間から概要だけ聞き取って適当に課題をクリアしてしまう、要領のいい輩が。
山崎さんはきっとこの原稿を読まずして、私に適当に内容を聞き取ったうえで、紹介文を書こうとしているのだ、と。
今となっては浅慮な自分を恥じるけれども、あの時は本当にそう思っていた。
だから、ひとしきり質問をされた後、私は山崎さんにきっぱりと言った。言わずには、いられなくて。
大学時代、レポート課題の提出のたびに体よく使われていた、あの頃の自分自身のために。何らかの報いのつもりで。
『まずは、ご自身で読まれたらどうですか』
言い放った言葉は、それでも至極冷静だった。
『え?』
『校了原稿、印刷されたんでしょう。まずは、ご自身で読まれたらどうかな、と思いまして』
言われた山崎さんは、きょとん、とした後。
くつくつと、可笑しそうに笑い始めた。その様子は、どこか楽し気ですらあった。
『鷹見さん、最高だね。いいよ、すごくいい』
何を褒められたのか全く分からずきょとんとしていると、山崎さんが言葉を重ねた。
『そうだね、そう思う。もし私が校了原稿を読んでなかったら、その反応でいいよ。真っ当だ』
え、と思った。
……読んでる?
『山崎さん、読まれてるんですか?』
『もちろん。でないと失礼でしょ、丹精込めて編集を担当した人に話聞きに行こうっていうのに』
山崎さんはそこから、自身が読んでいるということを証明するみたいに、私に話をしてくれた。
私とは異なる箇所を、私とは異なる理由で『私はここがいちばん面白いと思うんだよね』と述べ、『だから、私がこの書籍を要約するとなると、こうなるんだ』と、私が先ほど話したのとは違うまとめ方で、書籍の概要を話してくれた。
それらはすべて、原稿をしっかりと読み込んでいなければ、決して出てこない言葉だった。
流し読み、というのでもない。きっと、線を引くなり何なりしながら、じっくりと読んだのだろう。
穴があれば、入りたい心地がした。
『ごめんなさい。私、山崎さんに大変失礼なことを……』
謝罪する私に、山崎さんは手をひらひらと振りながら、再び声を上げて笑った。
『いいのいいの! 私も、この時間の状態目標を伝えずにいきなり質問から入っちゃったから、良くなかったね』
ただ、どうしてなのだろう、とも、当時の私は思った。
こんなに読み込んでいるというのに、どうしてさっきみたいな質問をわざわざ私にしに来たのだろう、と。
だから、私はそれをそのまま、率直に山崎さんに質問した。
すると、山崎さんは丁寧にその疑問に答えてくれた。
『だって、鷹見さんの方が絶対、この本、読めてるから。編集担当をした君がどう読んでいるかは、知っておくべきだと思ったんだよ』
曰く。
彼女は書籍の営業を担当するにあたり、もちろん校了原稿はしっかりと読み込むけれども、必ず編集担当と密に連携をとって、しっかりと聞き取りをするようにしているのだという。
彼女によれば、書籍の紹介文を書く時に重要なことは、二つあるそうで。
一つは、その書籍について深く知って、高い専門性を持つこと。もう一つは、受け手により伝わるように、情報の取捨選択や伝え方の工夫をすること。
前者が高まれば高まるほど、マニアックな深みにはまっていくから、後者のバランスをとることが難しくなる。けれど、それを高いレベルで両立させることが、広く訴求しうる、魅力的な紹介文を書くコツなのだ、と。
『私、相手に合わせて話題を選んだり、言葉を変えたりするのはけっこう得意なんだけどさ、読み込むのは、そんなに得意じゃないんだ。だからそっちの方は、鷹見さんみたいに編集を担当した人にしっかり話を聞いて、助けてもらうようにしてるの。鷹見さんに話を聞くことで、書籍への理解をさらに深めることが、この20分の状態目標だよ』
そうしたことをひとしきり話してくれた後、『さて、たくさん話も聞けたことだし』と断って、彼女は言葉通り、ぴったり20分で私の元から去っていった。人の時間を大切に扱っているということが伝わってくる振る舞いだった。
おまけに、帰り際には『はい、これ。今日のお代。ありがとね、鷹見さん』と、小さな個包装のチョコレートを置いて行ってくれた。
山崎さんが営業部のデスクへ戻っていった後。
隣の席の橘さんが、『面白いでしょ、山崎さん』と、私に声をかけてきた。
『そう、ですね……。すごい方です』
『そうね。その、「お代」も……』
と、デスクに置かれた小さなチョコレートを指さす。
『彼女、こうやって編集部に来て誰かに話を聞く時には、たいてい手土産を持ってきてくれるの。私のところに来る時には、缶コーヒー』
そういえば、橘さんは時々缶コーヒーを飲んでいるイメージがある。対して、私はチョコレートが好きだ。校正の合間に糖分が必要な時には、大抵チョコレートをつまんでいるくらい。
もしかして、山崎さんはそれを何かしらの形で知っていて、わざわざ私へのお代として、チョコレートを用意してくれたということだろうか。
『山崎さんって、たくさん仕事を抱えている割に、休憩室によくいるでしょ。あれはたぶん、社員の好みとか、気にしてることとかを察知するためなのだと思うわ。そこまで含めて、彼女は仕事の範疇に入れてしまっているから』
橘さんは、『私にはとてもできないやり方だけど』と付け加えて、ふふ、と笑った。
その笑みからは、彼女が山崎さんとは考え方や仕事のスタイルは異にしていても、山崎さんを尊敬して、大切にしているということが十分に伝わってきた。
休憩室で何気ない会話をすることも含めて、「仕事の範疇」か……。
私にはない考えだった。
私はできるだけ効率的に、最小限の努力で仕事をするのが理想だと思っていたし、今でもそう考えているから。
でも、そうして人との距離を縮めることでコミュニケーションを円滑化することが、より良い仕事の成果につながるというのであれば。山崎さんのやり方は、それはそれで効率的な方法なのではないかという気もした。
あれ以降、仕事の上で、山崎さんに助けてもらったり、声をかけてもらったりすることはたびたびあった。けれど、だからといって、私が特別扱いされているなどとは思わなかった。
私を気にかけてくれるのも、きっと、仕事を円滑に進めるために、社内の誰にでもそうしていることの一部なのだと思っていたから。
あの日、水族館で、手を握ってもらって。
頬に手を、触れられるまでは。
あの日、自分の心に湧き起こったことを、私はまだ、うまく言語化できずにいた。
イルカショーの最中。
山崎さんは、涙が止まらなくなった私の手を握っていてくれた。恋人とするような、繋ぎ方で。
あの時は、なんというのだろう……心がぎゅっとしたような、気がした。嫌な感じではないのだけれど、胸が締め付けられるような。
なのに、ショーの後再び手を握らせてもらったら、同じようにはならなかった。
不思議だった。
あの時のあれはなんだったのだろう、どうしてあの時、私の心はあんな風になったのだろう。あれ、同じようなことってあったっけ……あったような、なかったような……そんな風に思案しながら。山崎さんに手を繋いでもらって、水族館の出口までの道を歩いた。
もっと分からなかったのは、大水槽の前で、頬に手を触れられた時だ。
至近距離で見つめられ、頬に手を添えられて、そっと、親指でなぞられて。
私は、目の前の山崎さんのことと共に、彼のことも思い出していた。
そういえば、彼に最初にキスされたのもここだったな。もう少し水槽から離れたところに置かれているソファに座って、だったけれど。あれ? もしかして、山崎さんにもされるのかな、ここで、と。
なんだか、ぼうっと、してしまって。
距離が近いな、もしかしたらキスされるのかな、と思っていたのに、それを拒むことができなかった。
それは、されてしまってもいいと思ったからなのか。それとも、ただ拒む余裕がなかっただけなのか。何らかの形で、山崎さんと彼とを、重ねてでもいたのか。
未だに、分からない。
ただ一つはっきりと言えるのは、私が山崎さんにそうされることを〝想像してしまった〟ということだ。
何も、起こらなかった。でも、想像してしまった。そういう可能性を、ありありと頭に思い浮かべてしまった。
それは、そこに何もなかった時とは全然違っていて。私は毎日のように、夜、ハコフグのクッションを胸に抱きながら、自身の唇に触れ、あの時のことを思い起こし、その先のことを想像した。別れたばかりの彼のことよりも、明らかに、山崎さんのことを考えている時間の方が長かった。
けれども、思考の行きつく先は、いつも結局、『いやダメだ、それは』だった。
同じ職場の同性の先輩なんて、成り行きでそういう行為をしたり、関係を結んだりする相手としては、危険すぎる。仕事へのリスクが大きすぎるから。こんな一時の気の迷いなんて早く捨て去ってしまって、次の恋にでも進まないと、と。
それでも、なんだか心と頭が混乱して埒が明かなくなり、山崎さんに無意味なLINEを送ることもあった。
そもそも雑談が苦手なのでどんなメッセージを送っていいのかが分からず、仕事の報告や、ご飯の記録みたいなものを送り付ける形になってしまった。けれど、山崎さんはそんなメッセージに対しても、いつも気さくな返信をくれた。「おやすみ」と送りあって返信が途絶えると、ハコフグのクッションを抱いたまま眠りについた。
そうして、水族館に行ってから、あっという間に2週間が過ぎた。
あの日以降、LINEでは時々やり取りしていたものの、職場で山崎さんを見かけても、声をかけることはできなかった。
山崎さんはもともと、たくさんの仕事を抱えて忙しくしている人だったし。そもそも、同じ書籍を担当してでもいない限り、編集部と営業部の人間が仕事中に関わるなんてことは、ほぼない。
だから、びっくりした。
「あ、鷹見さん」
たまたま校閲のための資料をさがしに地下の書庫に行ったら、目的の本がある棚の間に、山崎さんがいたものだから。
「山崎さん……」
ついに、面と向かって会話を交わさねばならないタイミングがやってきてしまった。あまつさえ、こんなあまり人がやってこないような場所で、二人きり、なんて。
「どしたの? 資料、探しに来たの?」
いつもの人好きする笑顔で、山崎さんが私に問う。
私はこんなに毎日のように煩悶しているというのに、山崎さんはどうということはない、これまでと変わらぬ様子だ。完全にお門違いだとは分かりつつも、どこかモヤっとしてしまう。
私は、「あ、そうです。その奥にある……」と、山崎さんが立っているよりも少し奥の棚の、分厚い事典を指さした。
「『メルロ=ポンティ 哲学者事典』で、少し調べものをしようと思って……」
「んー? ……ああ」
山崎さんは、自身が手にしていた本から目線を外し、私の指さした方を一瞥する。
「あるね。お目当ての事典。通る?」
言いながら、山崎さんは自身の身体を目の前の本棚に張り付かせて、背中側のスペースを空けてくれる。
あ、そこを通るんだ、私。
通れるかな、そのスペース。
「ありがとう、ございます」
私はなんだか緊張しながら、逆側の本棚に身体を張り付かせるようにして、背中同士が触れ合わないように通り過ぎる。
ちょっと、触れてしまったけれど。
チラリと見上げると、私が通り過ぎた後は、山崎さんは再び自身が手にしていた本に視線を戻して、続きを読んでいた。すごく集中しているようで、こちらのことなんか目もくれない。
なんだろう。やっぱり、ちょっとモヤモヤする。
私は気を取り直して、いちばん下の段に鎮座する『メルロ=ポンティ 哲学者事典』の第一巻を取り出し、確認したかった項目を調べ始める。
仕事の頭になれば、隣に山崎さんがいるということも、だんだん気にならなくなった。私は別にここに山崎さんに会いに来たわけではなくて、調べものをしに来たのだから。
事前に検討をつけておいたいくつかの項目を探し当て、校閲の赤の根拠になりそうなところを、てきぱきと社用スマホにスキャンしていく。
……と、その時である。
その社用スマホが、突然、頬をヒリつかせるような、鋭くイヤな音を立て始めた。
途端に、心が怯んで、体がこわばる。
緊急地震速報だ。
音の合間に、「地震です」と無機質な声が響く。
地震が来る、ということは理解できた。
が、私はただただ恐怖で身体がすくんでしまい、何も出来ない。
すると、隣で「あ、やば」という、小さな声が聞こえて。
山崎さんにグッと腕をつかまれ、本棚の列の外側に引きずり出された。
その間、ものの2、3秒。
床が、本棚が、部屋全体が、ガタガタと揺れ始める。
震度5、といったところだろうか。ついさっきまで私と山崎さんのいた場所へ、両側の本棚から、どさどさと本が落ちていく。
私は何も出来ずに、本棚の列の外側で、恐怖に目を見開いて、それを見ていた。
数秒で揺れが収まり、耳の痛くなるような静寂が訪れて。
本の落下と共に舞い上がったのであろう埃が、ふわふわと空中を漂う。
私たちがさっきまで呑気に本を読んでいた場所は、棚から落ちた本でいっぱいになっていた。
もし、あのままあそこに居たら、と思うと。恐ろしくて、胸の奥がぞわぞわとした。
少しの沈黙の後、耳元で、山崎さんの声がする。
「いやー、びっくりしたねー」
私は知らず知らずのうちに、尻もちをついた格好の山崎さんに抱きしめられていて。私自身、そこへ倒れ込むようにして、山崎さんにしがみついていた。
あれ?
私はその時ふと、自身の心の中に、あの時と同じ……胸が締め付けられるような、感覚を見つけて。
山崎さんの言葉には応えずに、彼女の首に腕を回し、さらにぎゅっと、しがみついてみた。
「……おおぅ…、どした?」
山崎さんが、耳元で少し動揺した声を上げる。
うん、そうだ。山崎さんも、それくらい動揺すればいいんだ。
私は自身の心に耳を澄ませる。
やっぱり。
今はそこに、あの時の感覚が、確かに〝ある〟。
「山崎さん、すみません。もう少し、こうしてていいですか」
私は、その感情の正体を掴みたかった。
……本当に、ただ、それだけだった、と思う。
「……いいけど…」
山崎さんは、私の背中に手を回して、ぽん、ぽんと私をなだめるようにした。
心臓がうるさい。自身が高揚しているのが分かる。
イルカショーをみながら感じたものよりも、なんだかもっと、あからさまな……大きな心の動きに、今はもう、なっているような気もする。
山崎さんは、どうなのだろう。
身じろぎをして、山崎さんの様子を伺おうとすると、彼女は「あ」と声を上げた。
書庫の入り口の扉が、開く音がする。
誰か来たらしかった。
「おー、
その声を聞くなり、私は、山崎さんからバッと身体を離す。
いや、離す必要はなかったのかもしれないけれど、別に。女同士なのだし。
二人きりだと大丈夫なのだけれど、こういうところを誰かに見られるとなると話が違う、と思った。
「山崎さん、大丈夫ですか!? ……あれ? 鷹見も!!」
入り口を開けて入ってきたのは、山崎さんの後輩であり、私と同期でもある、営業部の土井くんだった。
聞くところによると、彼は山崎さんから、「今からちょっとだけ書庫に籠るから、何かあったら内線かけてねー」と一声かけられていたそうで。地震があったことで心配になって、急いで階段で地下まで降りてきてくれたのだという。
地震のせいで地下書庫はけっこうひどい状況だったけれど、土井くんと山崎さんと私の3人では、どうしようもなく。私たちは、書庫の状況報告のためにも、いったん3階のオフィスにもどることにした。
いいんだ、別に。いいんだけれど。
3人で、階段を上りながら。
土井くん、別に来なくてよかったのにな、と少しだけ思ってしまう自分がいた。
私は、山崎さんの方を見上げて、言った。
「山崎さん、さっきは助けてくださって、ありがとうございました」
その言葉に、山崎さんは“さっき”のことを思い出したのだろう、一瞬、複雑な表情を見せて。
それから、私の肩にぽんっ、と手を置き、どういたしまして、と笑った。
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