第4話 宴の後 〔琴香〕
特別な夜のイルカショーが、あたたかな拍手の中で幕を下ろした時。
わたしの隣の
……そりゃ、そうだよな。
わたしは鷹見さんの横顔を見つめながら、心の中で反省する。
よく考えてみれば、当たり前のことだった。昼間、彼氏に振られたって話をしていた時も、彼女は淡々として見えたから、大したことじゃないのかな、なんて勝手に思ってしまっていたけれど。この子は感情表現が苦手なだけで、感情がないわけじゃないんだ。
好きだった彼に振られて、その人といっしょに行くはずだったショーを見て、辛くないはずはなかった。そのショーが、美しく、素晴らしいものであれば、尚更。そんなことも、慮ってあげられなかったなんて。
それにしても、びっくりした。
「すごいねー、イルカ!」なんて呑気な感想を共有しようと思って横を見たら、いつもの綺麗な顔のままで、まっすぐ前を向いたまま、鷹見さんが、ぽろぽろと涙を溢していたから。
しゃくり上げるでもなく、声を上げるでもなく。
ただきゅっと眉を寄せて、口を一文字に結んで、何かに耐えるみたいに涙を流していたから。
わたしは居ても立っても居られず、彼女の手を握った。
ついつい癖で指を絡めてしまったけど、彼女は、緩やかにわたしの手を握り返した。それは受け入れたというより、もっと積極的な意思を感じる握り方で。まるで、「このまま握っていて」とお願いされたみたいに感じられた。
だから、わたしはショーの間ずっと、手を解かなかった。彼女も、そんなわたしの手を解こうとはしなかった。
勘違い、しそうになる。
この子は、たぶん、男性が好きな人なのに。
来場の御礼と、退場を促す放送と共に、会場は再び、青い海の中のような照明に戻った。
観客は各々、出口近くの席の人から、順番に帰宅の途につきはじめる。私たちの席は比較的出口に近いので、もう、動き始めてしまっても良さそうだった。
「鷹見さん、そろそろ出ようか」
わたしが手を握ったまま顔を覗き込むと、彼女は、ハッとしたようにわたしを見た。
「山崎さん。……あの、ありがとう、ございます」
「うん?」
「……手。握っていて、くださって」
それを言うのに少し緊張したのか、握ったままの彼女の手に、きゅっと力が込められたのが分かる。
ああ、そっか。
と、わたしは妙に納得した。
鷹見さんは、いつも、伝えるべきことを伝えることに躊躇がない。でも、もしかしたら、いつも平気でそれを言葉にできているわけでは、ないのかもしれない。
「良かった。嫌じゃなかった?」
わたしの言葉に、彼女は、こくり、とうなずいた。そして、わたしの方をおずおずと見上げた。
「……はい。むしろ……なんだか嬉しかったので、戸惑ってます」
鷹見さんは実際、困惑した表情だった。自分でもその情報がうまく処理しきれていない、というような。
わたしは、慌てて目を逸らす。
ダメだ。勘違いしちゃいけない。
彼女には、いまたぶん、ちょっとしたぬくもりのようなものが必要なだけだから。それがたまたま、わたしだっただけだから。
わたしはそっと、彼女の指に絡めていた手を解いた。
「じゃ、帰ろっか」
出来るだけ、明るく、さっぱりと言って、さっさと立ち上がる。
わたしの心の中のじくじくとした感情が、彼女に伝わってしまわないように。
「山崎さん」
「ん?」
振り返ると、鷹見さんはまだ座席に座ったまま、何か言いたそうにしている。
「あの……」
「……どしたの?」
「手、もう少しだけ……いいですか?」
「え?」
鷹見さんが、ゆっくりと立ち上がって、わたしと目を合わせる。
まっすぐこちらに向けられた視線に、若干たじろいでしまう。
「……えっ、と…?」
いや、もちろんいいけど。というか、わたしとしては、願ってもないことだけど。
「確かめたいことが、あるんです」
「確かめたいこと?」
鷹見さんはそのまま、そっとわたしの手を取る。
そして片方の手でわたしの手を支えて、もう片方の手を、先ほどと同じように、わたしの指に絡めて、繋いだ。
「………あれ…?」
鷹見さんはそのまま、きょとん、とする。
「ん?」
なんだ、なんだ。
鷹見さんは、そうしてわたしの手に指を絡めたまま、手をにぎにぎさせてみたり、私の手の甲をさわさわしてみたりする。
……くすぐったいんだけど。
思わず、ふっ、と吹き出してしまう。
「どしたの? 何、確かめてんの?」
なんだろう、この子は。面白い子だな。
鷹見さんは真剣な顔で、繋がれたわたしたちの手を、じっと見つめている。
「うーん……」
何かを思案しているらしく、私の問いには答えず、しきりに首を傾げている。
先ほどと同じように手を繋いでいるというのに、ずっと事務的で、まるで理科の実験をしているみたいだった。彼女のそういう振る舞いに、私も、いい意味で自身の中の邪な感情が霧散していくのを感じた。
うん。これなら逆に、繋いでいられるかもしれない。
「鷹見さん、とりあえず、出よう? 手、繋いだままでいいからさ」
きゅっと手を握ったまま、思案し続ける彼女の顔を覗き込んで、笑いかける。
彼女はわたしの目を見て、「あ、はい。分かりました」と一言、微笑み返して。
「あ……」と、声を上げた。
何かを見つけたみたいに。
「ん?」
「……いえ、なんでもないです」
鷹見さんは再び、首を傾げている。
まぁいいや、よく分からないけれど、そろそろスタジアムからは出ないといけないし。
わたしはそのまま空いている方の手で、座席の横に置いてあったフランクフルトの棒とトレイを掴んで。鷹見さんの手を引いて、イルカスタジアムを後にした。
スタジアムを出る時にも、彼女はまだ、ぼんやりとしていた。
どうやら、頭の中で、あれこれと何かを考えているようだった。
帰り際、大水槽の前を通りかかった時に、鷹見さんの手に、少し力が入るのが分かった。
おそらく無意識だろうその手の動きに、わたしは、ちらりと彼女の表情を盗み見る。
鷹見さんは、なんともいえない表情をしていた。一見いつもと変わらないけれど、どこか、強張った表情。
わたしは足を止めて、彼女に問いかける。
「……大丈夫?」
「え?」
鷹見さんは、パッとこちらを見上げた。
「いや、なんだか辛そうな顔、してるから」
鷹見さんはわたしの言葉に、目を見開く。
「そういうの、分かるんですか?」
「あ、うん、わたしどちらかというとそういうの、敏感な方だから」
言って、苦笑する。
別に探ろうとしているわけでもないのに見えてしまうというのは、それはそれで難儀なものだ。見えてしまったものを、見えなかったことには、出来ないから。
世の中には、見ないようにしておいた方がいいこともたくさんあるのに。
鷹見さんは、歩みを止めて、二階建ての建物くらいの高さのある大水槽を見上げる。
「ここで、彼に告白されました」
やはり、淡々とした物言いだった。
「今日は午後から雨でしょう」とお天気キャスターが言う時の方が、まだ情緒があるくらいに。
でも、わたしはもう、勘違いしない。彼女は傷ついていないわけじゃない。
「そっか。素敵な人だった?」
「はい。素敵な人、でした」
手がきゅっと握られる。
彼女が何かを堪えているのが分かる。
大水槽の中、愛嬌のある顔をした小さなハコフグが、ヒレをぱたぱたと忙しなく動かしながら、こちらにやってきた。
彼女はそのハコフグに向かって、そっと、その細長い指を伸ばし、水槽のガラスに触れて、小さな声で「かわいい」と言った。
「山崎さん、ひとつ、お願いがあります」
「うん、なんでも言ってよ」
なんでも聞いてあげたい、と思った。鷹見さんの心の支えになれることであれば。
鷹見さんは、ハコフグを見つめながら、言った。
「また、いっしょにここに、来てくれませんか? 今度はイルカショーじゃなく。この水槽の前で、ゆっくりするために」
ひょろひょろと、ハコフグが、水槽の上の方へと泳いで去っていく。
鷹見さんの視線は、そのハコフグを追っていた。水槽に添えられていた手が、ゆっくりと下ろされていく。
わたしは、うん、とうなずく。
「いいね。そうしよう。今日は水槽の方は、あまりゆっくり見れなかったもんね。今度は休日にでも来ようか」
ショーの前は急いでいたし、今はもう、あと20分ほどで、水族館自体、閉まってしまうそうだし。
鷹見さんは、こちらを振り返って、微笑んだ。
「ありがとうございます、楽しみにしてます」
こちらを向いた彼女の顔が、半分ほど、大水槽の青い光に照らされる。
よく見ると、その青い光が、彼女の頬に薄くのこった、涙の跡を浮かび上がらせていた。スタジアムにいた時は、こんなふうにはっきりとは見えなかったのに。いく筋にもおよぶそれは、彼女が確かに、彼を想っていた証拠なのだと思った。
こんなに涙を流さなければならないほど、その人のことが大切だったんだな。
わたしは思わず、彼女と繋いでいた手をそっと解いて、彼女の頬に触れた。
「……山崎さん?」
鷹見さんが、ゆっくりと目を見開いて、こちらを見上げる。
振られたばかりの彼女が、すがるように温もりを求める仕草を、勘違いしてはいけない、と思った。
ただ、こんなに苦しそうな彼女を抱きしめてあげられるだけの資格が、わたしにあれば良かったのに、とだけ、思って。
そのやるせなさを、なんとかやり過ごすようにして。
わたしは親指で、そっと彼女の涙の跡を拭うようになぞった。
たぶん、見つめ合って頬に触れるというのは、ただの同僚の距離感を踏み越えるような振る舞いだった。だから、何するんですか、と、手を振り払われてもおかしくないと思った。そうしたら、適当にふざけてやり過ごそうと思った。
でも、彼女は拒まなかった。成り行きに任せるように、わたしをじっと見上げている。
鷹見さん、だめだよ、そんなに無防備じゃ。たくさんの人を勘違いさせてしまう。
わたしは、ふっ、と微笑んで。
それ以上は何もせずに、彼女の頬から手を離し、再び、彼女の手を取った。
「じゃあ、次も決まったことだし。お土産でも買って、帰ろう」
「……はい」
鷹見さんは小さな声でつぶやいて、わたしの手を握り返してくれた。
わたしはなんだか彼女の顔が見れなくて、振り返ることなく、水族館の出口まで歩いた。彼女も、特にわたしに何か言うでもなく、手を引かれるままに、後をついてきた。
さっきまで事務的に繋いでいたはずの手が、いつの間にか、再び熱を持ってしまったようにも感じられた。
水族館を出る前に、鷹見さんに涙の跡のことを伝えて、化粧室に寄ってもらって。その間にわたしは、出口近くのショップで、ハコフグの形をしたクッションを買った。抱き枕になりそうなくらいの、ちゃんとした大きさのものだ。
わたしはそれを、鷹見さんにプレゼントした。
鷹見さんは、「え、私にですか?」とびっくりしていた。
「何か、お土産でも買われたのかと」
「うん、鷹見さんにね。今日のお土産」
振られたときって、夜がキツいから。経験上。
わたしにはその資格がなくて、そういうキツい夜に、君を抱きしめてあげることはできないけれど。そのハコフグくんなら、少しでも、君の支えになってくれるかもしれないと思ったから。
鷹見さんの、好みの顔なのだし。
鷹見さんは束の間、わたしの差し出した紙袋を見つめて、どうすべきか逡巡していたようだったけれど。最終的には「ありがとうございます、じゃあお言葉に甘えて」と言い、嬉しそうに受け取ってくれた。
わたしたちはそのまま、水族館の出口で別れ、それぞれの家へと帰宅した。
だから、鷹見さんがその後、そのつらい夜を、どんなふうにやり過ごしたのかは知らない。
ただ、その日以来。
鷹見紗奈は、夜、時々わたしにLINEを送ってくるようになった。
仕事の話や、その日食べた夕ご飯の話なんかを少しして、おやすみ、と言って終わる、短いやり取り。
何ということはないものでも、それは、これまでのわたしたちの間には、なかったもので。
彼女が苦しい時に、少しでもすがりつける先として自分を選んでくれるようになったなら、それで十分だと、わたしは思った。
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