第3話 想定外の感情 〔紗奈〕

 イルカショーの始まる直前、フランクフルトを齧りながら、山崎やまざきさんが言った。

「それにしても、彼氏さんだった人の気が知れないよ。鷹見たかみさん、こんなに素敵な女性なのにさ」

 開演が近づくイルカスタジアムは、人でいっぱいになりつつあった。穏やかな青の照明がスタジアム全体を包み込んでいる。しかもその青の照明には、光の網で、微妙な揺らぎが演出されていて。まるでここが水の中であるかのように感じられる、という趣向のようだった。

 いつもとは違うスタジアムの雰囲気に、会場全体が色めきだっているようにも見える。

 私は山崎さんの言葉に、苦笑することしかできなかった。

「そうでもないですよ。私は振られたことに納得してます」

「……なんで? 悔しかったり、しないの?」

 なぜか山崎さん自身が悔しそうな表情をして、言う。

「悔しい……とかは、ないですね。振られたことそのものは、彼の決断だし、私がどうこうできる問題でもないので、仕方ないと思います」

「そっかぁ、鷹見さん、大人だなぁ……」

「そう……ですか? みんなそうなのかと思っていました」

 少なくとも、振られて悔しいというのは、私にはない感覚だった。

 振られたことは振られたこととして事実として受け止めて、それによって辛くなる自分の感情をいかに処理するか、ということを、これまでずっと考えてきた気がする。

「……じゃあ、悲しくは、ないの?」

 悲しい、か。

 それも、よく分からない。キツイな、辛いな、とは思うけれど、それが悲しいという言葉で言い表すのが適切な感情なのかは判然としない。

「……そうですね。それも……よく分かりません」

「そっかぁ……」

 山崎さんはわたしの顔をまじまじと見ながら、フランクフルトの最後の一口を頬張り、もぐもぐと咀嚼した。

 そのまま、何か思案するように斜め上を見上げて、難しい顔をする。

「鷹見さんが、もし……」

 山崎さんが再び何かを私に言いかけた時、会場に、荘厳な音楽が流れ始めた。

 19時、ちょうど。

 ショーが始まったのだ。

 青色の照明が、パッと、明るい真っ白な光に変わり、ステージ下手側からひとりのイルカトレーナーが登場する。

 トレーナーの目の前に集まったのは、4頭の、少し小さなイルカたち。カマイルカだ。

 トレーナーが指示を出すと、4頭のカマイルカは、勢いよく水に潜った。

 その数秒後、彼らはそれぞれ、すごい勢いで水中から飛び出し、ステージの高い位置にぶら下げられた4つのボールに、豪快にタッチした。

「おぉー、すご!」

 ちらっと山崎さんの方を見ると、初っ端からの高いジャンプに、子どものように目を輝かせていた。

 なんだか私まで嬉しくなる。

 カマイルカたちは、オープニングの音楽に合わせて、4頭でタイミングを合わせたジャンプを数回見せてくれてから、奥のプールへと戻って行った。

 次に登場したのは、2頭のバンドウイルカだった。カマイルカよりも一回り大きな、灰色の身体をしたイルカだ。

 まずは2頭同時にスピンジャンプを見せてくれ、次に、1頭ずつ、前方宙返りみたいな豪快なジャンプを見せてくれる。

 彼らが美しく生き生きとしたジャンプを見せてくれるたび、会場が拍手と歓声で沸いた。

 ジャンプの合間には、プロジェクションマッピングで、ステージにさまざまな景色が描き出された。大海原や、大都市、砂漠、無人島。

 バンドウイルカたちの遊んでいる様子を見ながら、スタジアム全体が、海を越えて、いろいろなところへ旅をしているように感じられた。

 ところで山崎さんは、さっき何を言いかけたのだろうと、私は思った。

 2頭のバンドウイルカは、いま、それぞれトレーナーを背に乗せて、ゆっくりと泳いで見せている。

 その様子を見つめながら、私は思う。

『鷹見さんが、もし……』

 私が、もし……?

 山崎さんが言おうとしてくれたことは、きっと、別れた彼に関連する何かだったのだろうという気がした。でも、それが、何だったのかは、よく分からない。

『俺さぁ、紗奈のこと、好きだよ』

 記憶の底から、彼の声が蘇る。

 彼が私に告白してくれたのは、このおおた水族館の、大水槽の前のソファに座っていた時のことだった。ちょうど1年ほど前のことだ。大学で出会った私たちは、社会人になってからも、時々2人で遊びに出かけていた。

 驚いて彼の方を見ると、どこか、観念したような顔をしていて。どうしてそんな、お手上げです、みたいな表情なんだろうと思って、ふふ、と笑ってしまった。

『笑うなよ。もう、言うしかないと思ったんだよ』

『どういうこと?』

 半分、嬉しいのもあったから、笑みを抑えることができなかった。

『我慢できないから』

『何が?』

 何を言ってるんだろうこの人は、と思いながら問うと、彼が急に、真剣な表情になった。

『その前に、返事くれよ』

 返事、というのが、さっきの『好きだよ』に対してなのだということは、さすがに理解されて。

 私は『好きだよ、私も』と口にした。本当に、そう思っていたから。

 すると、その場ですぐに、キスをされた。薄暗いとはいえ、人前でするにはずいぶんと情熱的すぎるキスだと思った。

 彼が『我慢できない』と言っていたことが何だったのかは、聞くまでもなかった。彼がそんな風に直情的に振る舞ったのは、後にも先にもあの時くらいだったと思う。いつもの彼は、どちらかというと慎重で、よく考えてから行動するタイプだったから。

 おおた水族館というのは、私たちにとって、そういう場所だった。

 イルカショーも、昼間のものなら、彼と何度か見にきたことがある。

 彼も、今の山崎さんみたいに、素直に感嘆の表情を浮かべる人だった。イルカショーを見ることそのものもそうだけれど、私は隣に座る彼の、そういうきらきらした表情を見ることが好きだった。

『紗奈、こんなの見つけたんだ』

 3ヶ月ほど前。まだ梅雨が明けたばかりの6月の終わりごろ、彼が私に言った。

『なになに?……おおた水族館。イルカショーの、抽選予約?』

『そう。ナイトショーだってさ、9月に。水族館の10周年の、特別なやつ』

 記憶の中の彼が、私に笑いかける。たぶんもう二度と私には向けてくれない、愛おしげな表情。

『いっしょに、どうかな?』

 そう、このショーだって、もともと彼が、誘ってくれたんだった。

 2人で抽選に応募して、私の方だけが当たって。彼と別れて、2人分のチケットだけが残った。

 昨日まで、私の彼氏だった人。

 別に、ロマンチックな何かとか、キュンとする思い出とか、そんな大したものはない。彼は慎重な人だったし、歯の浮くようなことが言えるタイプでもなかったから。

 ただ、2人で夜を過ごした翌朝、隣で彼があどけない表情で眠っていて。私が名前を呼ぶと、半分眠っているくせに、幸せそうに微笑んだり、とか。

 その後、先に私が起きて朝食を作っていたら、後から起きてきた彼の頭に、あまりにも破天荒な寝癖がついていて。2人して、息が止まりそうなほど笑ったり、とか。

 そういうなんでもない場面が、取り止めもなく思い出された。

『紗奈は俺のこと、ほんとに好き?』

 再び、2頭のバンドウイルカが、タイミングを合わせて高くジャンプした。のびのびと空中を楽しむその姿は、夜に映えて、あまりにも美しかった。

 もし彼がここにいたら、きっと彼は、いつものきらきらした表情で、このジャンプを見たのだろうと思った。

 胸の奥からあたたかな温度の何かが迫り上がってきて、雫になってこぼれ落ちる。それは次から次へとあふれ、はらはらと頬を伝った。

 私は好きだと、答えたんだけどな。それでは伝わらなかったってことなんだろう。

 ……ああ、そっか。

 私、彼と、ここに来たかったんだな。

 もう、どうしようも、ないことだけど。

 自覚すると、堰を切ったように気持ちが溢れ出した。涙はどうしても止められなかったから、私はせめてもと口を結んで、しゃくり上げそうになるのを必死で堪えた。

 ふと、指先に何かが触れた。

 山崎さんの手だった。

 彼女は私の指に自身の指を絡め、そっと握った。そしてそのまま、こちらを見ることなく、イルカショーへと視線を戻した。

 視界が滲んでいたので、彼女がどんな表情をしていたのかは、よく見えなかった。ただ、あまりこちらをじろじろと見ないようにしてくれているのは、彼女の優しさなのだと分かった。

 雫は相変わらず、ぱた、ぱた、と滴り落ちて。

 私の手に絡めた彼女の手にも、雫が降りかかる。けれど山崎さんは、何も言わずに、ただそっと、手を握っていてくれた。

 彼女の……山崎さんのあたたかさが、指先から伝わってきて、まっすぐに、胸のあたりまで届いて。

 私は、心が優しく縛り上げられるような、不思議な感覚に陥った。

 しかもそれは、決して、嫌な感じではなくて。

 私はその感覚を胸に抱き続けながら、イルカショーが終わるまで、山崎さんの手をきゅっと握り返して、はらはらと涙を流し続けた。

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