第22話
リィナは小さなため息をつきながら、窓際に置かれた椅子に座っていた。
まだ体の奥底に残る痛みが、動くたびに鈍く響いてくる。
あの日のことを思い出すと、胸が苦しくなった。
死を覚悟した瞬間の記憶が、今でも鮮明に蘇ってくる。
だが、それ以上に心を痛めているのは、キイのことだった。
彼は今日も朝早くから働きに出ていく。
配達の仕事を終えると、すぐに土木作業現場へ向かい、夜になると例の店で働いている。
まともに休む時間もない。
すべては自分のためだと分かっているから、なおさら辛い。
「あの人は、いつもあんなに無理をしているのかしら」
独り言を呟きながら、リィナは立ち上がった。
体はまだ本調子ではないが、家のことくらいはできる。
せめて少しでも負担を減らしてあげたかった。
買い物袋を手に取り、外へと向かう。
この街の人たちとは、キイと暮らし始めてから少しずつ話すようになった。
最初は獣人への偏見を感じることもあったが、今では随分と打ち解けている。
「おや、リィナちゃんじゃないか」
肉屋の前を通りかかると、店主のおじさんが声をかけてきた。
「おじさん、こんにちは」
「体の調子はどうだい? キイから聞いたよ、大変だったんだってね」
おじさんの表情には、心配そうな色が浮かんでいる。
「はい、もうだいぶ良くなりました」
「そりゃあ良かった。それにしても、あの子は本当に頑張ってるねえ」
おじさんは感心したような口調で続けた。
「毎朝早くから配達の仕事をして、それから土木作業に向かって、夜はまた別の仕事だろう? 体が持つのが不思議なくらいだ」
「そうなんです。私が怪我をしたせいで、無理をさせてしまって」
「何を言ってるんだい。あの子は君のことを本当に大切に思ってるんだよ」
おじさんは優しく微笑んだ。
「この前なんか、君の好きそうな果物はないかって聞いてきたんだ。でも、値段を聞いて諦めて帰っていったよ。それでも、翌日には安い果物を買いに来てくれた」
リィナの胸が温かくなった。
キイがそんなことを考えてくれていたなんて。
「それから、パン屋のおばさんも言ってたけど、君が好きそうなパンがあると、必ず買って帰るんだって」
「そんな……」
「いい人だよ、あの子は。君は幸せ者だね」
おじさんの言葉に、リィナは頷いた。
確かに自分は幸せ者だ。
あんな優しい人に出会えたのだから。
次に向かったのは、雑貨屋だった。
日用品を購入していると、店主のおばさんが話しかけてきた。
「リィナちゃん、元気になったのね。良かったわ」
「ありがとうございます」
「キイくんが心配して、何度も様子を聞きに来てたのよ。『リィナに必要なものはありませんか』って」
おばさんは嬉しそうに笑った。
「あの子、本当に君のことを大切に思ってるのね。見てて微笑ましいわ」
「そうですね。私も、キイさんには感謝してもしきれません」
「それにしても、あの子の話はよく聞くのよ。この前は、酔っ払いが女性に絡んでいるのを見つけて、すぐに助けに入ったんですって」
「え?」
「相手は大男だったのに、全然怖がらないで立ち向かったそうよ。結局、その酔っ払いを取り押さえて、騎士に引き渡したんだって」
リィナは驚いた。
キイがそんなことをしていたなんて、全く知らなかった。
「危険なことをして……」
「でも、それがあの子の良いところでもあるのよね。困っている人を見過ごせない性格なの」
おばさんは温かい目をしていた。
「パン屋のおじさんも言ってたけど、仕事で疲れてるはずなのに、重い荷物を持った老人を見つけると、必ず手伝いに行くんですって」
「キイさんらしいです」
「本当に良い子よ。君たちのことを応援してるからね」
買い物を終えて帰る道すがら、リィナは様々な人からキイの話を聞いた。
どの話も、彼の優しさと真面目さを物語っている。
そして、どの人も彼のことを心から慕っていることが分かった。
夕方、キイが土木作業から帰ってきた。
疲れた表情を浮かべながらも、リィナを見つけると笑顔になった。
「お疲れ様でした」
「ただいま、リィナ。体の調子はどう?」
「はい、もうだいぶ良くなりました」
キイは安堵の表情を浮かべた。
そんな彼を見ていると、胸が苦しくなる。
「キイさん」
「ん?」
「今日、街の人たちからいろいろなお話を聞きました」
「え? 何の話?」
「キイさんが困っている人を助けていること、いつも人のために働いていることを」
キイは少し照れたような表情を浮かべた。
「別に、大したことじゃないよ」
「そんなことありません。とても立派なことです」
リィナは真剣な表情で続けた。
「私のために、こんなに無理をしてくれて……本当にありがとうございます」
「リィナ」
「でも、もう少し休んでください。体を壊してしまいます」
「大丈夫だよ。俺は丈夫だから」
キイは苦笑いを浮かべた。
確かに「超健康」のスキルがあるから、体は頑丈だ。
だが、精神的な疲労は蓄積されているはずだ。
「それでも、心配なんです」
「ありがとう。でも、もう少しの辛抱だから」
キイは軽い夕食を取ると、夜の仕事に向かった。
その背中を見送りながら、リィナは決意を新たにした。
一人になった部屋で、リィナは自分の過去を振り返った。
村での生活、奴隷商に売られた日、そしてキイに出会った日。
すべてが鮮明に思い出される。
村では、口減らしのために売られた。
両親も、仕方がないことだと言っていた。
それでも、家族と離れる時は辛かった。
奴隷商の元での生活は、想像以上に過酷だった。
特に違法奴隷の扱いは、人間としての尊厳など存在しない。
毎日が地獄のような日々だった。
だが、キイに出会って全てが変わった。
彼は自分を人間として扱ってくれた。
暴力を振るうこともなく、無理な要求をすることもない。
普通の生活を送らせてくれた。
「まさに命の恩人です」
リィナは小さく呟いた。
この恩を返すために、自分にできることは何でもしたい。
その時、キイが夜の仕事から帰ってきた。
いつもより早い時間だった。
「お疲れ様でした」
「ただいま。今日は早く終わったんだ」
キイは疲れた表情を浮かべていた。
それでも、リィナの前では笑顔を見せようとしている。
「キイさん」
「ん?」
「実は、今日聞いた話の中で、少し気になることがあったんです」
「気になること?」
リィナは少し躊躇した。
だが、言わなければならないことだった。
「違法奴隷のことです」
キイの表情が変わった。
明らかに緊張している。
「違法奴隷って?」
「犯罪者以外を奴隷にするのは違法だということです」
「……」
「私は、村の口減らしで奴隷商に売られました。つまり、私は違法奴隷です」
キイの顔が青ざめた。
彼は何かを言おうとしたが、言葉が出てこないようだった。
「もし、これが発覚したら……」
「リィナ、大丈夫だよ」
キイは慌てたような口調で言った。
「何とかなるから。心配しないで」
「でも」
「俺が何とかするから」
キイの表情は真剣だった。
だが、同時に不安も感じられる。
「キイさん、私のせいで迷惑をかけて、本当に申し訳ありません」
「謝らないで。君は悪くない」
キイは優しく微笑んだ。
だが、その笑顔の奥に、大きな不安が隠れていることを、リィナは感じ取っていた。
「明日、冒険者ギルドに相談に行こう」
「はい」
その夜、リィナは眠れなかった。
自分が違法奴隷であることが発覚すれば、キイも巻き込まれてしまう。
彼がこれまで築いてきた人間関係も、すべて失うことになるかもしれない。
「私が、キイさんを不幸にしてしまうのかもしれません」
そんな不安が頭をよぎった。
だが、同時に決意も固まっていた。
「どんなことがあっても、キイさんを守りたい」
リィナは小さく呟いた。
この人に出会えたことが、自分の人生で最も幸せなことだった。
だからこそ、その恩に報いたい。
彼のために、自分にできることは何でもする。
それが、リィナの決意だった。
窓の外では、夜明けが近づいていた。
新しい一日が始まろうとしている。
どんな困難が待ち受けていても、キイと一緒なら乗り越えられる。
そう信じて、リィナは静かに目を閉じた。
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