第14話

 あの日のことを思い出すと、今でも胸が苦しくなる。

 

 村の長老たちが集まって、ひそひそと話し合いをしていた時のことだ。

 母さんは私の頭を撫でながら、無理に笑顔を作っていた。

 でも、その目は真っ赤に腫れ上がっていて、一晩中泣いていたことがすぐにわかった。


「リィナ、お前は強い子だからね」


 そう言って、母さんは私をぎゅっと抱きしめた。

 その時はまだ何が起きているのか、よく理解できなかった。

 ただ、いつもと違う空気に、胸の奥がざわついていただけだった。


 翌朝、見知らぬ男たちが村にやってきた。

 黒い服を着た、いかにも胡散臭い連中だった。

 その中の一人が、私を見て値踏みするような目つきで近づいてくる。


「ほう、なかなかいい顔立ちじゃないか」


 男の口元が気持ち悪く歪んだ。

 私は本能的に後ずさりをしたが、すぐに他の男たちに取り囲まれてしまった。


「待て! 話が違うぞ!」


 父さんが慌てて駆け寄ってくる。

 その顔は真っ青になっていた。


「労働力として買い取る約束だったはずだ! 娘を変なことに使うつもりなら──」


「はあ? 何を今更」


 奴隷商の男は鼻で笑った。


「お前らが勝手に都合よく解釈しただけだろう。こっちは最初から『商品として買い取る』って言ったぞ?」


 その瞬間、私はすべてを理解した。

 村の食糧事情が厳しくなって、口減らしをしなければならなくなった。

 そして、私が選ばれたのだ。


「リィナ!」


 母さんが私の名前を叫んで駆け寄ろうとしたが、奴隷商の手下に阻まれた。


「おい、余計な真似はするなよ。契約は成立してるんだからな」


 男は懐から汚い布切れを取り出すと、それを私の手首に巻き付けた。

 途端に、体の奥底から力が抜けていく感覚に襲われた。

 

 これが奴隷契約だった。

 

 抵抗しようとしても、体が思うように動かない。

 魔法を使おうとしても、全然発動しない。

 

「ほらほら、大人しくしてろよ。暴れても無駄だからな」


 男は私の顎を無理やり掴んで、顔を上げさせた。


「うん、やっぱりいい顔してるじゃないか。これなら高く売れそうだ」


 私は必死に振り払おうとしたが、体に力が入らなかった。

 

 その後のことは、今でも悪夢として蘇ってくる。

 

 狭い檻の中に押し込まれて、他の奴隷たちと一緒に運ばれた。

 食事は一日一回、水のように薄いスープとカビの生えかけたパンだけ。

 用を足すのも檻の中で、プライバシーなんてものは一切なかった。

 

 一緒に捕まった他の獣人たちは、日に日に弱っていった。

 病気になっても治療なんてしてもらえない。

 死んだらそのまま道端に捨てられるだけだった。

 

 そんな日々が続いて、私たちは王都の奴隷市場に連れて行かれた。

 

 でも、現実は甘くなかった。

 

「狐獣人か……これは売れないな」


 奴隷商の男は私を見て、露骨に嫌そうな顔をした。


「狐獣人は裏切り者が多いって噂だからな。誰も買いたがらないよ」


 それから何日も、私は檻の中で買い手を待った。

 でも、誰も私に興味を示さなかった。

 

 たまに立ち止まる人がいても、私の耳と尻尾を見ると、すぐに立ち去っていく。

 

「また売れ残りか」


 奴隷商の男は舌打ちをした。


「維持費ばかりかかって、全然儲からないじゃないか」


 そんなある日、男は仲間と何かを相談していた。

 

「もういい加減に処分しちまおうぜ」


「そうだな。どうせ売れないんだから、無駄金使うだけだ」


 私は背筋が凍った。

 処分って、つまり……。

 

 死んだ方がマシだと思っていた。

 でも、いざ本当に死ぬかもしれないとなると、やっぱり怖かった。

 

 そんな時だった。

 

 夕方の薄暗い路地裏で、一人の青年が私たちの前を通りかかった。

 黒い髪に、どこか優しそうな顔立ちをした人だった。

 

 奴隷商の男は、慌てて私を引っ張り出した。


「おい、あんた! いい奴隷はいらないか?」


 青年は困ったような顔をした。


「あの、俺は別に──」


「この狐獣人なんてどうだ! 見ろよ、この顔立ち! 絶対に損はしないぞ!」


 男は私の顎を掴んで、無理やり顔を上げさせた。

 青年と目が合った瞬間、なぜか心臓がドキドキした。

 

 この人の目は、今まで見てきた人たちとは違っていた。

 私を商品として見ているのではなく、一人の人間として見てくれているような気がした。

 

「値段は?」


 青年がそう聞いた時、私は耳を疑った。

 本当に買ってくれるのだろうか?

 

「そうだな……今なら特別に安くしてやるよ!」


 男は慌てて値段を下げた。

 きっと、本当に処分しようと思っていたから、どんな値段でもよかったのだろう。

 

 青年は懐から小さな袋を取り出した。


「これで足りるか?」


「おお! ありがとうございます!」


 男は金を受け取ると、急いで奴隷契約の手続きを始めた。

 

 そして、私の新しい主人が決まった。

 

 キイタという名前の、変わった青年だった。

 

 最初は警戒していた。

 奴隷を買うような人間なんて、きっと碌でもないに決まっている。

 特に、違法奴隷の扱いは劣悪だと聞いていた。

 暴力を振るわれたり、体を求められたりするのは当然だと覚悟していた。

 

 でも、キイタは違っていた。

 

 家に連れて帰られた時、私は震えていた。

 今度は何をされるのだろうか?

 

 でも、キイタは私に毛布を差し出した。


「寒いだろう? これを使え」


 それから、温かいスープを作ってくれた。

 久しぶりにまともな食事だった。

 

 その夜、私は隅っこで小さくなって眠った。

 でも、キイタは私に手を出そうとしなかった。

 

 翌朝、目が覚めると、キイタはもう仕事に出かけていた。

 テーブルの上には、朝食と簡単な置き手紙が置いてあった。

 

『適当に食べて、体を休めていてくれ』

 

 私は涙が出そうになった。

 こんなに優しくされたのは、村を出てから初めてだった。

 

 それから毎日、キイタは朝早くから夜遅くまで働いていた。

 土木作業の仕事をしているらしく、いつも泥だらけになって帰ってくる。

 

 でも、疲れているはずなのに、私には優しく接してくれた。

 

「今日はどうだった? 体の調子は大丈夫か?」


 そんなふうに、毎日声をかけてくれるのだ。

 

 私は少しずつ、この人についていこうと思うようになった。

 

 キイタは私の命を救ってくれた恩人だった。

 そして、私を一人の人間として扱ってくれる、初めての主人だった。

 

 だから、私はこの人のために何かしたかった。

 せめて、恩返しをしたかった。

 

 でも、奴隷契約のせいで、私にできることは限られていた。

 

 それでも、家事をしたり、キイタの世話をしたりして、少しでも役に立とうと努力した。

 

 キイタは私の努力を見て、いつも「ありがとう」と言ってくれた。

 その言葉が、私にとってはとても嬉しかった。

 

 村にいた時は、私はただの厄介者だった。

 奴隷商に売られた時は、商品でしかなかった。

 

 でも、キイタの側にいると、私は自分に価値があるように感じられた。

 

 この人になら、一生ついていってもいい。

 そう思えるようになったのだ。

 

 でも、最近になって、私は少し心配になっている。

 

 キイタは私のために、本当に無茶をしすぎている。

 朝から晩まで働いて、夜は夜で別の仕事をしている。

 

 きっと、私を養うためにお金が必要なのだろう。

 でも、そんなに頑張らなくても……。

 

 私だって、もう少し体が回復したら、冒険者として稼げるようになる。

 そうすれば、キイタの負担も減るはずだ。

 

 いや、それだけじゃない。

 私は、キイタの夢を叶える手伝いをしたい。

 

 キイタは冒険者になることを夢見ている。

 でも、一人じゃ不安なのだろう。

 

 だったら、私が一緒に行けばいい。

 私は斥候として、キイタを守ることができる。

 

 そうすれば、キイタの夢も叶えられるし、私も恩返しができる。

 

 そんなことを考えながら、私は今日も家でキイタの帰りを待っている。

 

 早く体調が完全に回復して、キイタの力になりたい。

 

 この人が私の命を救ってくれたように、今度は私がこの人を守りたい。

 

 それが、私の新しい目標なのだ。

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